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偉大なる探偵とのコラボの意味とは?「エノーラ・ホームズの事件簿」について考える

Netflixで公開されたばかりの本作、
我が家の娘達と楽しく鑑賞しました。

ホームズと名のつくものには
片っ端から食らいついていくシャーロキアンであり
「ストレンジャー・シングス」にもドハマりしている身として
ずっと楽しみにしていた映画。

ミリー・ボビー・ブラウンの
既に貫禄たっぷり!な愛らしさが
全編を通して
作品に生き生きとした彩りを与えている、痛快&爽快な全世代向けエンタテインメント。

だが、しかし…

この作品がその名に"ホームズ"を冠している以上、
やはり、言いたくないことも言わなければならない…
っていうか、逆に何でわざわざ「ホームズ」になぞらえたの?

と思うくらい
その要素を抜きにしても十分成立する
作品だったため、更なるモヤモヤが。

シャーロック・ホームズという存在の
オリジナリティとカリスマは
現在に至るまで、他に例を見ない程のものであり、
だからこそ、各種パスティーシュや
引用・再現が引きも切らず、
また「オリジナリティ」に基づいたいくつかの”お約束”によって
それらの再現が可能になるわけです。

もちろんホームズに限ったことではなく、
日本でいえば、ビジネスやその他のシーンで
戦国武将や幕末の志士に誰かをなぞらえたり

コミュニケーションの一環として彼らのせりふなどを「再現」することも多々あると思います。

信長や秀吉、あるいは西郷隆盛や新撰組のキャラクターや
ふるまいが
どれほど「一般教養」として浸透していようと、
やはり主に日本国内に
限ったことなので、
それに比べればホームズ物の「人口に膾炙」している度合いが
世界規模でどれほどのものか、体感として想像できるかと思います。

さて「エノーラ・ホームズの事件簿」公開に先立って、
シャーロック・ホームズ協会より製作側に、

『描かれているホームズが女性に優しすぎる』と
クレームがついたと
SNSで話題になっていました。

まぁ、そうだろうな~と
ネタエピソードのひとつくらいにしか
捉えてなかったのですが
実際に鑑賞した今、むしろ協会が
「よく、こんな映画つくるの許したなー!」
とまで思ってしまいました。

モヤモヤの例としては、まず一番大きなところで
ワトスンが存在しない設定
これだけでもう一発アウトの物凄さですね。

ホームズをたとえ現代に置き換えようが、
性別を入れ替えようが、
ワトスンとの二人三脚、だけは大前提でないとお話が成立しない。

そもそもワトスンの立ち位置=ドイル先生なので
孤高の天才探偵の事件簿を彼が描く、
それが出版されて
わたしたち読者が読むことができる…

というメタ設定になっているため、
ワトスンが存在しないホームズ物語というだけで
論理が破綻してしまいます。苦笑(細かい…!!)

たとえば「ワトスンと出会う前」だった可能性は?
とのご意見もありますが、

たしかにホームズはワトスンと出会う前から
ロンドンで唯一の?
「諮問探偵」
あるいは犯罪研究家として活動していました。

ですが、警察に協力して事件を解決しても、
それらはすべて警察側の手柄に。
彼の名前が表に出ることはありませんでした。

誇り高いホームズは、
「別に功名心のためにやってるわけじゃないさ」と
強がっているのですが、やっぱりどこか寂しそう

そんな友人の姿に義憤を感じたワトスン先生が
「なら私が書く!!」となって、
初めての著書、『緋色の研究』が出版されます。

ワトスンの著した探偵譚は多くの人に読まれるようになり、
一躍、ホームズは有名人に。

(物語の中のロンドンの人々にとっても、ドイル先生の読者である
リアルロンドン人たちにとっても)

なので、この映画が苦肉の策として
ワトスンとの出会い前のホームズ先生を描いていたとしても、
シャーロックやエノーラが行く先々で
「えっ、あの有名なホームズ先生…!」
「あなたはもしやそのご家族…!」
みたいな扱いをされるのは
おかしいのです…

その他も
ホームズお約束の第一である

・初対面の人の職業・行動当て

すらスルーしていたのもとても残念。

せっかく、十年振り(?)で
様変わりした妹との再会という、
エピソードを冒頭に持ってくるのになぜなんだろう?
等々、誰もが「ああ、そう!」と膝を打つような
名台詞であったり性格であったり、
そうしたものを大小ことごとく意図的に無視してきている本作は

パスティーシュであること
(そして、少なからずホームズ物ファンの流入を見込んでの作品作り)
にとって、デメリットでしかないのでは、
と感じずにはいられなかったです。

エノーラという"新ヒロイン”をフィーチャーしたい、
という意図は承知の上で、
足し算(新キャラクター、要素)と引き算(原典からの意図的な逸脱)
が噛み合っていない感じ。

やはり、誰か(この場合はエノーラ)を「上げる」のに
周囲を「下げる」、というのは
少なくともここでは
あまり良いやり方ではなかった気がします。

エノーラ個人の成長と重ね合わせて
社会におけるフェミニズムの萌芽、という作品テーマにあわせるためか、
本来は殿上人のように優雅なのに
似ても似つかない、
家父長制度の権化のように描かれた
長兄マイクロフト、

女性達に言い負かされたり迷いを見せたり
終始、
切れ者ぶりがなりを潜めたままのシャーロック。

”わかっていない”そして”間抜け”にさえ見える
兄たちを出し抜いて
十代の賢い妹が事件を解決、立派に自立もしました…!と
描くのであれば
ホームズ家の看板なんて、いらないのでは?

どうしようもない兄たち
(それを家父長制度の負の側面と見せることもできる)
を、たとえば、世を賑わせる探偵ホームズに憧れる
才気あふれるひとりの少女が
出し抜き、啓発していく…そんなストーリーで良いと思います。

(ラストに「あっ、あなたはまさか…。」みたいな邂逅シーンがあってもいいですね)

最後に、ここが一番大事に思うのですが、
シャーロックの人物描写において大きな特徴である

「薬物常用者」や「変人」性を謳わなかったことです。

原作はYA作品ということで
ポリコレ的「配慮」のひとつかと思いますが、
これはいただけない。
ホームズの人物を形作る重要な点が
ある種やましいものと判断されるのは、
僭越というか、かえって危険ですらある。

長く読み継がれてきた歴史があり、
ホームズのいわゆる「反社会的」な性格付けも、
作品を通して読むことでわかる
彼のあふれる正義への情熱や人間愛と
中和され昇華されていく、
そうした学びもメッセージとして
とても大事であるはずです。

キャラクターそして
背景を含めた過去の偉大な作品にとって、
なにが善でなにが悪か、ということを
時代が変わったからといって安易に判断すべきでないし、
切り取った形で見せることには、
与えうる影響について、
逆に相当の配慮が必要だと思います。

ホームズの「反社会性」や、
わかりやすくいえば“一見なんの役にもたたない”能力
(ロンドン中の土の性質を把握しているなど)
が、結果、事件解決の糸口となり、
人々の命を守ることにも繋がることは、
生産性や合理性に寄りがちな
世間へのアンチテーゼであり
「人と違う」ことや感受性の強さに苦しむ人々へ
安心感や希望をもたらしてきたのだと思います。

そうしたメッセージをも、素晴らしいエンタテインメントとして提示することができたからこそ
今もなお、ホームズの物語は特別であり、数多の作品がそれに続く形で花開いてきたはずです。

原作者や映画製作者の意図をすべて汲むことはできませんから、
それぞれの思いや、事情、そしてこの作品(本当に面白いです!)によって
勇気づけられる人々の存在、そしてそこから新たなホームズファンが
生まれることは素晴らしく、何も否定はしません。
けれど全てを「汲む」ことができないからこそ、
自分の眼で、心で確かめられる範囲で感じた『違和感』を
こうして残しておくことも大事だと思います。

長くなりましたが、
こうしたことをきっかけに更に深く、より広く、
わくわくするような思索の旅へ誘ってくれることも含めて、
やっぱり、ホームズが大好き!

エノーラの新たな冒険、新しい展開を、
もしその先があるのなら、これからも楽しんで見守りたいと思います。

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