「すんませーん。補講のレポート出しにきましたー」
 声をかけると、学生課の奥から、アルバイトの山岸さんがやって来る。メガネ越しに見ても、やはり凛としている。
「四年ずっと、留年ギリギリだね。せっかく美大に入ったんだから夢に向かって努力しなよ」
「まあ、夢ってのは叶わないものだから。それよりさあ、ご飯食べに行こうよ」
 山岸さんはああ、と受け取ったレポートを目の前で振っていう。 
「そういうの、いい。私、学生に興味ないから」
「じゃあ、学校辞めて働く。退学届出す、今度来る時は」 
 はいはい、とあしらわれて外に出る。十二月の風は冷たい。
「夢に向かって努力、か」
 何となく荒んだ気持ちで、校内のカフェに入る。いつもの席では麻雀仲間がたむろしている。
「おっす、蓑島。午後の授業どうするよ」
「油彩の実習だろ。途中で抜けようぜ」
「お、兼平」
 視線の先には背の低い女の子がいた。目立たない服装で、トレーを両手に壁際を歩いている。
「あいつ、今度推薦されて、県展に出すんだってよ」
 周囲から称賛のため息がもれる。心臓がざわっとする。
「さっすが! 夢追い人は違うねー!」
 兼平に向けて言う。兼平はムッとした表情でこっちを睨む。周りで笑いがはじけ、僕も笑う。 
 僕だって絵で結果を出したい。でも自分の力を信じられない。才能のある奴にはどうやっても勝てない。だから兼平のことは笑って、麻雀とパチンコ三昧の日々を続けるんだ。

 次の日、掲示板に貼り出された、リモート授業開始の知らせにガッツポーズをする。
「よっしゃ、サボれる」
「蓑島くん、ちょっといい」
 後ろにいたのは教授だ。名前を覚えていてくれたのか。教授はマスクを引き上げ、白髪を後ろになでつける。
「県展への応募を推薦していた男子生徒が、体調不良になったんだけど。代わりに出さない」
「えっ……どうして僕に」
「君、単位ギリギリみたいだからさ。大賞をもらったら、単位として数えてもらえるよ」
 明るい気持ちが降ってくる。お礼もそこそこに部屋へ帰ると、キャンバスを木枠に張る。久しぶりに握る筆は変な感じがする。だけど、これはチャンスだ。
 最高傑作を描いてやる。力の全てをキャンバスに注ぐ。筆が乗り、調子が良い。もしかしたら、賞を取るかも。大賞をとれば、絵の道だって開ける。描くうちに希望は確信に変わっていく。やればできる。頑張れば夢は叶う。部屋にこもり、僕は絵の具だらけでイーゼルに前に座り続けた。

 授業は年明けに再開された。受賞の知らせは教授を通じてくる。教室に顔を出した僕は不安と期待で死にそうだった。
「おー蓑島。どうしてた」
「まあ、充実してたよ」
 麻雀仲間のキャンバスをどかして通ろうとする。しかし、足が止まる。
「なに?」
「……お前、上手くなったな」
「あっ、そう? 時間できたから、ちょっと、頑張ってた」
 照れ笑いするそいつを見て、不安が増して押し潰されそうになる。
「おはようございまーす」
 教授が入ってきた。封筒を持っている。コンテストの結果だろうか。教授は封筒を持って、僕の方へやってくる。 
「大賞、おめでとう」 
 後ろにいた兼平に封筒を渡す。皆が振り返る。
「すげー! 大賞? 県展だろ?」
「さすが! 頑張ってたもんね!」 
 兼平はただ俯き、袖の裾で目を拭う。
「やべえな! 聞いたか!」
 放心状態から醒めた。でも、心は完全に止まっている。
「へーえ。やーっぱ、才能かあ」
 大声でそう言うと、兼平の周りにいた人々が振り向く。白けた顔だ。仲間でさえも。中心にいる兼平と目が合う。 
「そうだね。私、努力なんか、全然しなかった」
 皆が笑った。唇が震える。いてもたってもいられず、僕は教室を出ていった。
 応募した絵はドアに置かれていた。部屋でペイティングナイフを引き抜き、包装ごと絵を引き裂く。画材を全部集め、ゴミ箱に放り込む。昔のデッサンも、クロッキー帳もゴミ袋に投げ込む。
 その時、一枚のケント紙がはらりと落ちた。あばたのビーナスのデッサンだ。右上にはD−と赤ペンで書いてある。予備校講師の字だ。
「正直、第一志望は難しいと思うよ」
 進路指導室の記憶が蘇る。講師はストーブに照らされた無精髭を撫でる。
「あんまり夢、見ないようにね」
 胸に何かが刺さる。そうだった、夢というのは……。
 
 学校に戻り、学生課へ走る。
 出てきた山岸さんは、肩で息をする僕を見て、苦笑いした。
「今度来る時は退学届出す、だっけ?」

「はい。……でも、夢というのは、叶えるものだと思います」  
 昔、進路指導室で、僕はそう言った。そして、その夢は叶えた。だから、僕はここにいる。

 カウンターに勢いよく手をつく。
「大学院への出願、今からでも間に合いますか!」

 帰り、購買で良い筆と絵の具を買った。使いすぎに気づいた時、通りがかった兼平に頭を下げて、二千円を貸してもらった。