空がみている

  1 
 冬の夕空を群青色の雲が少しづつ覆って行きスマホの画面が自動で明るくなったので、電気をつけなければと気がついたが、それより早く母が照明のスイッチを押しため息をついて台所に戻っていく。香りからシチューとわかる鍋の中身に俯きながら、母はつけっぱなしのテレビのアナウンサーの声くらい陰鬱な声で言う。
「いつまでもスマホばっかり見て。早く食べて行ってよ」
「探してるんだよ」
 SNSに並んだアイコンを次々に押して書かれた言葉に目を走らせ、床に投げた予備校の鞄に目をやりながらイラついた声で答える。
「何を」
「打開策をさ」
 父がリビングに入ってきたので、言われる前にテレビの音量を二つあげる。ソファの横のテーブルに父が座ると椅子が軋み、アナウンサーは父を待っていたように声を強める。
「大手証券会社の不正取引について、国は関与を認めず、今後も引き続き調査するとの方針を発表しました」
 ばっか、これくらいのこと、みんなやってるぜ。口を歪めて父が呟くと、アナウンサーは続いて次のニュースです、と手元の紙をめくる。
「人気歌手グループのメンバーが、交際禁止にも関わらず大物プロデューサーとの交際を報じられ引退を余儀なくされ自殺未遂した件で、SNSでは悲しみと共に抗議の声が上がっています」
「あら、この子結構有名だったのにね。あんた、知ってた?」
 シンクの向こうから首を伸ばして母は僕に聞くが、僕の方はちょうど一件の通知が入ってスマホ画面を邪魔したことに苛ついてつい本当のことを答える。
「んー、知ってた。今も炎上してるっぽい。皆勝手なこと言って叩いてる」
「さっきから熱心に、それを追いかけてたの?」
 それどころではない、と僕はスマホに向き直り東原から来た、集え!天文部員!という件名のメールを開くが、開いてみると本文には、写真が一枚添付されていて、それはテントらしい布と棒が野原に崩れている様子を撮ったものらしく東原がテントを張ることに失敗したらしいこと、同じ天文部員の僕に助けを求めているらしいことは察せられたが助けに行く義理はない。大方、冬のオリオン座を見ようとしているのだろうが、今夜はあいにく曇り空だし、僕は予備校に行くことが義務付けられている。
 気がつくと、返事くらいしなさいよ、と母が語尾を下げて台所の電気を消し、エプロンを脱ぎながらリビングに入って父の隣に座るが、父のスマホが鳴って急いでテレビの音量を下げる。父がはい、小嶋ですと言いながら通路に消えていくのを見て、僕はソファでダラダラとしてしまい、すぐ予備校に行かなかったことを後悔した。エアコンが暖かい風をリビングに送る中、母はファッション雑誌をめくって頬杖をついているがすりガラスの向こうの父を窺っているのは明らかで父が相槌を打ちながら沈黙したりすみませんとか、今すぐ、とか言うのが聞こえるたびに母の口角が少しづつ下がり顔には険しいものが広がる。
「今から出る」
「急ね。いつ戻る?」
「そんなの分かんないよ。こっちだって日曜に呼ばれてんだから!」
「もう少し早く言ってくれたら……シチュー、どうする?」
「あー、うるさいうるさい。もう、いいから女は黙ってて」
 無言で台所に行った母が鍋を掴んでシチューを流しに叩きつけると、粘度の高い液体がシンクに跳ねる音と牛乳の香りが漂う。次第に大きくなる二人の声をぼんやり聞きながら、ずっとこんな人生なのか、こんなことなら予備校なんて行かずに東原とキャンプ場にでも行ったほうが、と遠くで思う自分がいるが、さすがにソファに寝転がってもいられなくなり、出ていく準備をする父の横を無関心をよそおい鞄とともにすり抜けようとする。
「俊光、行くの? 気をつけて!」
 母の半ばやけになったような声が、玄関に置いてある虎の干支人形を守るガラスを震わせるようだ。
「D判定でも巻き返せるから!」
 母の言葉が引き金になったといえば単純だが、家をでた僕は駅に向かいながら東原に今どこ、とメールを返していた。 

  2
 小綺麗に整備された芝生の上なので、マットを敷くと長時間座っても大丈夫というくらいテントの中は快適になったが、夜になってほとんど黒と言って良いくらいの藍色になった空の下でモスグリーンのテントは全体が闇に沈んでしまった。天井に懐中電灯を吊るしてスイッチを入れると、二人がようやく入れるくらいの手狭なテントの安価な素材が浮き上がる。転がっている寝袋が二つあるらしいことに東原が準備が良いのか悪いのかわからなくなりながら外に顔を出して、キャンプ場の炊事場から水を汲んできたらしい彼女に声をかける。
「こっち終わった。電気もつけたから」
「ありがとう!」
 テントの右に開いた椅子のそばにバケツを下ろすと、スキーに着ていくような厚い臙脂色の防寒着のフードをおろして、東原は二つに結んだ髪と丸顔を見せる。東の空には金星が輝き始めているが、僕の胸くらいまである大型の望遠鏡のネジを調節しながら、こいぬ座あった、かろうじて確認、などと言っているが、そばに近づくと呟いた。
「テントはね、やっぱり一人では難しいね」
「いいよ。丁度つまんなかったし」
 市が運営しているらしいキャンプ場は、遠くに別の集団の大きなテントと笑い声が確認できるくらいで、僕たちがいる側は静まっている。完全防備の東原とは違って家をでたままのコートだけでは寒く、何度目かの身震いをする。
「よし、望遠鏡の設置は完了。これで小さい星も見れる。さ、ご飯にしよ」
 帰る頃か、と思ったが家に帰りたいという気持ちはわかず、普段とは違う外の空気に居心地の良さを感じて東原がテントの荷物を探す後ろに問いかける。
「僕も一緒していい」
「もちろん。これしかないけど」
 カップラーメンを外で食べる、というのは案外悪くない思いつきで、東原が起こした焚き火にお湯が沸くのを待ちながら僕はわくわくして、早速三分経って食べるとラーメンの味がいつも以上に脳内を駆け巡って体が温まり、束の間の多幸感に浸ることができた。
「空、相変わらずだね」
 スープを飲み干しペットボトルの水を飲んでいると、同じく食べ終わった東原が、空を見上げていう。
「うん、まあ曇りでも、こういうの悪くないよね」
 気分が良くなっていた僕は呑気に答えたが、東原は先が赤くなった鼻を空に向けたまま神妙な顔をしているのであわててとりなす。
「でも確かに、一晩中曇りらしいから、困るよね」
 僕の言葉に、東原が勢いよくこちらを向き、もう少しで長い髪が顔に当たるところだった。
「そうなんだ! 私そういうの確認しないから、なんとなく今晩、星見たいなと思ってさ。でもさっきは、こいぬ座が見えたんだけど」
「え、どこに」
 望遠鏡を覗き込んだ僕の耳に、遠くで僅かにしゅる、と音が聞こえた。次の瞬間、激しい光と共に大きな音がして望遠鏡が倒れ、東原が小さく声を上げる。何が起きたかわからず、それが飛んできたらしい方を見ると数人の人影がこちらに手を振っている。すんませーん、と言いながら大声で笑う人々は遠ざかっていき、飛んできたものを見ると、赤と黄色の焦げた紙がまだ煙を立てているロケット花火をぶつけられたらしい。恐怖で血の気が引いてその場に凍りついてしまう僕を、東原がせきたててテントに入ったが、東原も何もいえないらしい。僕が意気揚々とつけた懐中電灯が、テントで項垂れている二人を照らすのがかえって虚しい。強い大きな風が吹いて、東原が口を開く。
「帰ろっか」
「でも、まだ星を」
 言いかけると、コートのポケットでスマホが立て続けに五回、振動した。嫌な予感がして、ちょっとごめん、と起動すると母からのメッセージで、今どこ、予備校行ってないの、帰って来なさい、と言葉が続き、字面から伝わってくる母の怒りと不安に、胸が重さで潰れそうになる。不機嫌な母の顔や怒鳴る父とアナウンサーの硬質な声、スマホの画面を永遠に流れていく誹謗中傷の数々、そんなものが一体になって、テントの入り口を背にして隙間風を感じながら、もう何もかも嫌だ、という思いで死にたくなる。これ以上悪いことは起きない、という思いはテントのメッシュ素材を小さな音が叩いて破られる。繰り返し落ちてくるぱらぱらという小さな音に天井を見上げると、薄暗がりに水滴の形に濃い色が滲んでいる。
「雨」
「うそだろ」
 天井のシミは次々と繋がって広がり、今にも雨が滴りそうだ。思わず手近にあった鞄から漢文の参考書をつかんで東原に渡す。今、テントをたたみに外に出ても降られるだけだから、しばらく様子を見ようと言う彼女に頷き返す。
「とりあえず、これで頭守って。濡れたら風邪引くから」
 弱まるどころか一層強くなっていく雨足の中で、世の中から切り離されて漂う小舟のように僕らを照らしてテントは佇んでいる。床まで雨が来たら、構わず東原と出て行こう、と思うが同時にどこへも帰る場所のないような、望みのない気持ちになる。
「なんで”こう”なんだろう」
 誰にともなく呟く僕の声は、雨に混じってそのまま消えた。

  3
「社会って、世の中ってなんで”こう”、なんだと思う? どうして”こんなふう”にできているんだ?」
 溢れた雫が東原が被った漢文の参考書の上で弾ける。街の本屋をいくつも散々探して見つけた参考書で、大きな本屋で在庫がないか尋ねた時のことを思い出す。検索して店頭には並んでいないと告げる店員に、以前は並んでいたのですが、と言う僕に店員が見せたあの顔と言葉が蘇る。それ以来、あの店には行っていない。
「父や母だけじゃない、店員も、教師も、皆同じだ。汚い真似、差別、ハラスメント、正義漢……安易な暴力に嬉々として走ってる。そういう変なこと、気持ち悪いことをして、毎日作ったように不機嫌面してる。それって、どうしてなんだろう」
 東原は少し考えて、答える。
「”こう”って言うのを内面化して、”おかしいと思いながら自分は無力で変えられなくて”なんて言い訳しながら盲従する。私はそうはならないよ。取り込まれても内側から壊したい。添いつつずらせば、動くよ」
 僕はこう答える。
「それでは黙殺されて終わりじゃないかな。特定の人たちは馬鹿じゃなく努力を怠ったわけじゃないのに相変わらず”こう”なんだ。日々皆が感じてるシステムみたいな流れ、それって誰が作っているんだろう。まあ、そう言う人たちは結局、君には永久に黙っているんだろうな」
 参考書を抑える手をつたう水の勢いが減ったので、雨が弱くなり始めたことが分かり、東原もこう言い残してテントを出た。
「少なくとも、全てを見てるのは空くらいだね」
 空、そうだった、と僕は東原に続いてテントを出る。雨の後の澄んだ空気がコートをはためかせ、寒いはずなのに僕はなぜかそれを感じなかった。空の雲が晴れて一面の星空が広がっていたからで、僕も東原も言葉を忘れて立ち尽くし、見惚れていた。オリオン座を始めとするこいぬ座、おうし座、ぎょしゃ座が大きく、時に小さく光り、一等星も二等星も、望遠鏡がなくてもはっきりと見分けられる。
「すごい。たくさんの瞳が、こっちを向いてるみたい」
 嬉しそうに空を見上げる東原に、僕は空が見ている、と言う彼女の言葉を思い、手に持ったままだった漢文の参考書を握りしめる。熱を持ってぼうっとした頭に、いつか聞いた言葉が頭をよぎる。
「お天道様は見てる」
 孔子曰く、悪事を働いたものは天罰を逃れられない。空は常にそこにあって、僕たちを見ているし、例え日中に太陽の光に霞んでいてもそれは変わらない。悪事を働いたものは、天罰を受けるのだ。
 すっかり散り散りになった雲が空の隅へ流れていくのを目で追いながら僕はぬかるんでいた胸の内が、一本の髪の毛のように微かでも、確かにそこにあるものを感じて深呼吸する。
 今は、それを頼みにするしかあてはないのだ。