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彼女の記憶

 《二〇五七年 春》

 石の門は、半分崩れている。扉も焦げている。扉のすきまからのぞく。足元を黒灰色の燃えかすが転がっていく。
 広い土地が、焼け野原だ。ここに昔、宮殿があった。春の柔らかな風が吹く。病院から支給された、寝巻きの裾が翻る。私の茶髪も舞い上がる。頭の傷が、空気に触れる。
 どこからか、少女たちの笑い声が聞こえる。気のせいだ。椅子が軋む音にも聞こる。誰が座っているのか。頭の奥で鋭い痛みが走る。右のこめかみを押さえる。痛みが少しましになる。深く呼吸する。取手を押して、扉を開く。中に入っていく。


 《二〇五六年 冬》

 照明にたくさんの埃が舞っている。明るいが、まぶしくはない。慣れてしまった。低い階段を上がる。編み上げ靴が高く鳴る。歓声が湧く。さざめきのようだ。観客も鬱憤が溜まっているのだろう。前回、警察の手入れがあったせいだ。コンクリートの床を歩く。サッカー場くらいある。中央に来ると、彼女がいる。
 照明が、彼女の白金の髪と瞳を照らす。深緑の衣装で、闘技場に立っている。観客が叫ぶ。
「いけ! 凛子!」
「くたばれ!」
 歓声や憎しみの言葉がそそがれる。凛子は唇の端を上げて笑っている。鼻筋は彫刻のようだ。凛子の瞳に映る自分が見える。濃紺の衣装を着た私が立っている。ゆるく編んだ茶髪を肩に垂らしている。五年前から変わらない。
「逃げ出すかと思った」
 凛子が笑う。歓声は静かになる。巨大なモニターが、私たちを映しだす。
「前回みたいには、行かないから」
「それって宣戦布告? 恥、かかないようにね」
 わざとだとわかっていても、苛立つ。手のひらを握りしめる。
「優子、気をつけろ!」
 場外で声がする。光希だ。光希は黒髪をかきあげる。乱雑に切った髪がはらりと落ちる。
「相変わらず、うるさいやつ」
 凛子は眉をひそめ、軽蔑したように言う。
「お前、ほんとムカつく!」
 光希が叫ぶ。観客から、かすかな笑いがもれる。
「クズにかまわないで、凛子」
 場内が静かになる。凛子の後ろに白い毛皮とドレスを纏った女性がいる。濃い金髪を夜会巻きにしている。腕組みをして、女王のようだ。
「はい、綾江」
 凛子が応じる。綾江がこちらを見ている。遠くでも分かる。ライオンのような眼だ。私は綾江と凛子を睨み返す。
「絶対に倒す」
 ゴングが鳴る。私は右手を前に出す。手の甲に藍色の刺青がある。刺青は、前足を上げた獅子のような模様だ。深く呼吸をする。瞳を閉じる。足元を一筋の霧が流れ、遠くから鐘の音が聞こえてくる。


 《二〇五四年 夏》

「人は一度見たり聞いたりしたことは忘れない。思い出せないだけで」
 光希は言う。私たちが寝起きしているビリヤード場は、夜明け前の静けさだ。
 刺青を入れる機械にスイッチを入れ、光希は続ける。
「人が人生に見聞きした全ての記憶は、記憶の宮殿に収められている。宮殿は誰にでも、頭の中にある。なんで宮殿かって言うと、人は場所を覚える能力が強いから」
 光希は私の手を取る。袖をめくる。椅子に座った私は背を正す。
「記憶の宮殿に出入りできれば、何もかも覚えられる」
 機械の針が刺さる。痛みが走る。光希が腕を抑える。インクが入ってくる。海のように深い藍色だ。風が吹いて、窓が揺れる。
「頭の中にある、記憶の宮殿を現実に呼べないか。偉い人がある時、そう考えた。頭の中で脳が発する少しの電気を増幅させるんだ。刺青で回路を描いてさ」
 インクが入ってくる。痛みはひどくなるが、手のひらに爪を食い込ませて耐える。
「私も完璧にはわかってないけど。飛行機みたいなものさ。よくわからなくても飛ぶ」
 光希は真剣な顔で言う。針が抜かれる。獅子の上半分が、手の甲に現れた。もう一度、針を刺す。獅子の下半分が現れる。私は息をのみ、見守る。
「記憶力を具現化できる、この技術は研究用に開発された。でも、もう使われていない」
「どうして」
「危険なのさ。脳と繋がっているから。宮殿が傷つけば、宮殿の持ち主も傷つく」
 獅子の模様が完成する。頭の奥がじんと熱くなる。身震いする。光希は刺青の機械を卓に放る。椅子にもたれ、続ける。
「でも、世の中には悪い奴がいてさ。思いついたんだ。遊びに使えるんじゃないかって。それがさっき見た記憶勝負さ。どちらかが倒れるまでやる」
 袖を直す。光希が紅茶の入ったマグをくれる。
「凛子はどうして……」
 朝日が登り始める。あくびを噛み殺して光希は言う。
「本人に聞くしかないね」

「ルールは簡単だよ」
 光希は行ったり来たりする。彼女の右手にも、刺青が入っている。私はビリヤード場の下にある、倉庫の床に座る。
「出るのは、カード数字ナンバーフェイス風景シーンさ。自分の宮殿からより早く、より正確に思い出した方の勝ち。勝った方は一回、攻撃できる」
 説明についていけず、私はぽかんとする。宮殿がどんなものかも、想像できない。
「勝った方が次に何を覚えるか選べる。と、説明はここまで。やってみよう」
 光希は瞳を閉じる。足元に煙が流れてくる。優しい香りも漂う。立ち込める煙の向こうに、柱が見える。さっきまでそんなものなかった。その時、煙が晴れる。倉庫の天井や壁が消えている。白い壁の宮殿が立っている。宮殿の端は煙で見えない。東洋風の天蓋で覆われ、宮殿への道はタイル細工で埋められている。遠くで、誰かのお経も聞こえる。
カードからいこうか」
 光希が伸びをする。宙にトランプの札が現れる。表を光希に見せ、ひるがえる。一枚、二枚、三枚と増え続ける。ついに何十枚にもなる。そして、札は消える。光希は頷いた。
「ついておいで」
 宮殿への道を歩き出す。私は急いでついて行く。
「札は、トランプ一組を覚えるんだ。トランプは一組五十二枚だから、一枚一秒で覚える」
「覚えたの? 五十二枚のトランプを?」
 宮殿が近づく。
「覚えたかどうか、今から見せるよ」
 柱と柱の間を通り、宮殿に入る。お香の香りが強くなる。
「暴れないでね。痛くなっちゃうから」
 こめかみを指して、光希が言う。宮殿の中はしんとしている。廊下や階段がいろいろな方向に延びている。私たちは真ん中を進み、渡り廊下を通って庭に出る。庭の中は、天気が良い。真ん中に灰色の噴水があった。噴水には水が流れている。水の表面には、トランプが浮いていた。光希が近づく。一枚ずつ、表が上になり、地面へ流れ落ちる。五十二枚全ての札が落ちた。
「久しぶりだと、やっぱりなまってるな」
 肩をすくめて光希が言う。
「これで全部思い出せたから、相手より早ければ先手を取れる」
「全部、覚えたんだ。すごい……」
 始めの三枚も覚えられない私には、凄さがよく分からない。
「そうでもないよ」
 光希はきた道を戻る。その時、渡り廊下に人影が見える。
「誰かいる」
 光希の後ろに私は隠れる。
「怖がらなくていいよ」
 廊下を歩いているのは、お坊さんだ。背が高くて皺が多い。襞の多い布を纏っている。よく通る声でお経を唱えながら、通り過ぎる。
「小さい頃、よく遊んでくれたんだ。記憶の宮殿に住まわせておくの。いつでも思い出せるように」
 宮殿を出ると、光希はソファに座り目を瞑る。宮殿は消える。私は、まだ現実に戻ってきた感じかしない。つい、椅子の上でもぞもぞする。
「あんたは、宮殿を見つけるところからだね」
 その言葉に私は立ち上がる。目を瞑る。暗闇で、何も見えない。宮殿なんて見つかるのだろうか。私の中に、本当にあるんだろうか。刺青まで入れたけど、無駄だったかもしれない。私は目を凝らす。霧が流れているのが見え始める。
「霧ばかりで何も見えないよ。こっち?」
 手を突き出して歩く。卓に膝がぶつかり、マグが音を立てる。
「全然ちがう」
 光希の冷たい言葉に、うなだれる。目を開ける。太陽が屋根を舐めていた。
「ま、頑張って」
 あくびをして、光希は寝床へ入る。毛布にくるまる彼女を横目に、もう一度目を閉じる。


 《二〇五六年 冬》

 鐘の音と一緒に霧が増えていく。壁の飾りが見え始める。青い壁に、窓がいくつもならんでいる。宮殿へ続く、アーチが現れる。アーチの前には投石機が並んでいる。宮殿の端は、霧で隠れている。
 凛子に向き直る。彼女の後ろには、白い宮殿が立つ。水色の壁と黄色い屋根だ。壁の端はバラの茂みに隠れている。大砲が、柵の前に何台もある。この宮殿を倒す。凛子を、今から倒す。私は背筋を伸ばす。
「ほら」
 凛子が握った手を出す。手の中の十円玉を受け取る。先攻を決めるコイントスだ。細工がないか目視して、右手に乗せる。親指で弾くと十円玉が宙を舞う。
「表」
「裏」
 手をどける。表だ。私の先攻に決まる。少し距離をとり、大きく言う。
「[[rb:札 > カード]]!」
 宙にトランプが現れる。一枚、二枚、三枚と増えていく。五十二枚でたところで、札は全て消える。凛子の方もトランプが消えている。ゴングがなる。私たちは、自分の宮殿へ走り出す。札は得意だ。走りながら、右手の刺青がうずく。頭の片隅に凛子の姿がちらつく。凛子の足取りが、見るように分かる。そんな気がするのではない。刺青をしている凛子も、光希も、綾江も同じように感じているはずだ。
 初戦だから、負けるわけにはいかない。宮殿のアーチを抜け、建物の中に入る。空気は冷たい。大ホールを大きく回り、後ろの小ホールを抜ける。早く。焦るほど、足がもたつく。凛子も宮殿に入っている。金の彫刻や銅像が見下ろす中を走っている。衣装の襞が風にはためくのまで分かる。わたしたちの様子はモニターに映されて、観客も見守っているだろう。私は階段で二階に上がる。階段を上り切り、右の廊下を進む。絵画が並ぶ廊下を抜ける。
「ここだ!」
 突き当たりの扉を開け放つ。部屋には鳥籠がいくつも下がっている。鳥籠の中には、トランプの札がたたずんでいる。近づくと札は羽ばたく。息を整えながら、鳥籠に触れていく。さっき現れた札の順に。凛子の方に意識を向ける。彼女は奥の小部屋にいた。部屋を埋める本棚からして、図書室だろう。彼女は書見台に近づく。大きな本が一冊、載っている。ゆったりした足取りだ。こちらの動きもわかっているのに。余裕を見せつけるつもりだ。獲物を痛ぶるような、凛子の戦い方らしい。
 トランプたちが激しく羽ばたく。私は最後の鳥籠に手を伸ばす。見計らうように凛子は本を開く。ページが勢いよく飛び出す。部屋を舞うのは、トランプだ。あと一秒で、全てのページが舞ってしまう。私は後ろ足を思い切り前に出す。右手の中指が、最後の籠に触れる。籠でスペードの八が揺れる。本に手をかざしていた凛子の手が止まる。あと少しで、最後のページが飛び立つところだった。スペードの八が印刷されたページが台の上に落ちる。凛子が息を呑む。場外に控える綾江が立ち上がる。宮殿の窓から、観客の歓声が聞こえる。
「挑戦者の先制だ!」
「王者に一発入れるぞ!」
 私は右から左に手を払い、命じる。
「放て!」
 宮殿の前に並ぶ投石機が動き出す。宮殿を出ると、凛子もこちらに向かっている。信じられないと言った顔で私を見ている。数十台の投石機が大きな岩を凛子の宮殿に投げる。轟音と煙が上がり、凛子の宮殿にあった、黒く細い柵がひしゃげている。金属の軋む音を立てて、高い柵は倒れた。一瞬、凛子は顔を鋭くしかめる。しかし、すぐに頭を振って振り払う。
 観客は声を一層上げる。当然だ。絶対王者が一撃を喰らったのは初めてだから。
 「よし!」
 拳を握って声を上げると、凛子が舌打ちする。
「あんたは、いつも前半は調子良い」
 事実だ。やはり、私の戦い方を研究している。私は笑顔を消す。次の勝負だ。観客は静まる。つまらない試合と思っているのではない。その反対だ。


 《二〇五四年 冬》

「まだ?」
 光希がうんざりした声で言う。周りにはトランプが散らばっている。少しでも記憶力が上がるように、本物のトランプだ。
「目のくま、ひどいよ」
 その通りだ。三ヶ月間、ほとんど寝ていない。目を閉じると、ぼんやりとドアが見える。そこに初めのトランプが三枚貼ってある。しかしそれも、すぐに霧が包み込む。その繰り返しだ。私はうめく。
「つかみかけた気がするのに」
「さっきもそう言ってた。筋悪いなあ」
 光希はしゃがんでトランプを拾う。私も集める。
 宮殿は、見つからないかもしれない。私には、駄目なのかもしれない。凛子はどうやったんだろう。どうやったら凛子と、また話せるんだろう。もう一度、一緒に過ごしたい。他に方法はない。諦めない。諦めたくない。目を強く瞑る。何も見えない。
「一回、休みなよ」
 光希が肩を軽く叩く。
「うん。最後にもう一度だけ」
 深呼吸して、肩の力を抜く。光希に言われたことを全て忘れる。全てを忘れ、諦める。意識だけを暗闇に集中させる。その時、遠くから鐘の音が聞こえる気がした。しばらくすると、少しずつ霧が晴れた。目の前にあるのは、高い建物だった。中央と左右に大きな棟がある。青い壁は、石の彫刻で飾られている。一見質素だが、格調のある宮殿だ。宮殿の前には、大きな投石器が並んでいる。
 信じられない気持ちでそばに寄る。扉のドアノブに手をかける。
カード
 後ろで光希が言う。振り返ると、彼女は笑顔だった。トランプの札が現れる。練習に使ったのと同じ、どこにでもあるトランプの札だ。ハートの四が現れ、消える。次はクローバーの九だ。数秒で消える。札は次々と出てくる。五十二枚の札全てが現れる。私はドアノブを回し、中に入る。煉瓦の敷き詰められた道を歩く。館へ向かって走り出す。頭が熱い。何かが呼んでいる。そんな気がする。
 息を切らしながら、中央の棟に入る。中は天井が高く、赤い絨毯が敷いてある。ホールには埃をかぶった椅子と棚がある。他は何もなく、がらんとしている。中央にある階段を上り、二階へ行く。廊下が右に続く。二階は右回りに巡るらしい。部屋を三つ抜け、左に曲がる。長い廊下は、木目が剥き出しだ。近づくと木目は、トランプの模様をしている。一歩一歩進むたびに、木目が現れる。初めはハートの四で、次はクローバーの九だ。覚えた順に収まっている。頭んどんどん血液が流れ込んでくる。電気が走っているみらいだ。何かが自分の中に浮かび、結びつく。覚えている。思い出せる。
 五十二の模様を辿り終えた時、右手の刺青が疼く。宮殿の外で、光希が満足そうに笑うのが分かる。一組のカードを私は覚えられたのだ。

「戦って!」
 宮殿から走り出て光希に言う。息は完全に上がっている。
「いいよ」
 光希が宮殿を呼び出す。
「私から! フェイス!」
 なんだって覚えられる。なんにでも挑戦したい。そんな気持ちだ。
 人の姿が現れる。老人、若い人、男性、女性が、百人いる。胸から上が、円になって回る。様々な服装や表情をしている。札より数は多い。でも特徴が多いので覚えやすい。
「もう、いいよ!」
 光希より早く私は声を上げる。光希は眉を上げる。
「あんまり、調子のんなよ」
 心配そうな口調に、笑みがもれる。せーので、私たちは互いの宮殿に駆け出す。私は階段を上がる。奥の舞踏室に入ると、胸像が並んでいる。全部で百体、さっき現れた通りの姿だ。舞踏室を駆け抜けながら、像に触れていく。息が上がっているのも気にならない。全部、覚えている。こんなに楽しいことがあるなんて。
 光希の方は宮殿に入り、祈祷室にいるのが分かる。様々な形の白い布がかかったものが置いてある。光希は布を剥いでいく。イーゼルにかかったモザイク画が現れる。そこには私の胸像と同じ人物の姿がある。光希は次々と布を取っていく。私も奥の像へと進む。光希が最後の布を剥ごうとする前に、私は最後の胸像に触れる。光希がはっとして顔を上げる。
「え、もう?」
「私の勝ちだね」
 向かい合う宮殿の光希に呼びかける。攻撃する番だ。右から左に腕を払う。窓の外で、石を積んだ投石器が歯車を回す。狙いは、光希のいる宮殿だ。光希の慌てた声が聞こえる。
「ばか! 本番じゃないんだから」
 遅かった。投石器に積まれたいくつもの岩が、白い宮殿へ勢いよく飛んでいく。
「しまった」
 そう言ったときには遅かった。

「まだくらくらする」
「大丈夫?」
 宮殿の消えた倉庫の床で、私と光希は座っている。光希は頭を抑えている。濡れた布を差し出すと、こめかみに当てる。
「ほんとに、ごめん」
 謝る私に、光希は苦笑いする。
「いいよ。攻撃の仕方も覚えないと」
 光希はそう言って、しかし、と続ける。
「あんたの宮殿は大きい。それに破壊力も絶対王者に引けを取らない。これなら、勝てるかも」


 《二〇五六年 冬》

 決勝二戦目の勝負は数字を選んだ。結果は引き分けだった。
「同着? こんなことあるんだ……」
 もう一度、コイントスからだ。宮殿から出て、滴る汗を拭う。
「くそっ!」
 後ろで凛子が悪態をつく。彼女も息が弾んでいる。
「鬼ごっこ、思い出すね」
「なに言ってんの?」
 金の瞳を細めて言う。誰の言葉も届かない、機械の瞳だ。彼女の場合、自分の意思と勘違いしているから、たちが悪い。
 コイントスは、私が表を当てる。絶対に、勝つ。気合を入れ直す。
風景シーン!」
 凛子の得意な風景だ。凛子がわずかに戸惑いを見せる。
「あなたを倒す!」
 睨みつけ、気合を入れる。
「やってみろ!」
 凛子が咆える。客席からどよめきが聞こえる。
「両者、気迫も互角か」
「この勝負、分からなくなってきたな」


 《二〇五五年 秋》

 それから、私は記憶力の訓練を積んでいった。記憶の宮殿に、凛子がいることに気がついたのはしばらくしてからだった。そこは一番奥の部屋で、凛子の肖像画や凛子と過ごした月日の風景画があった。玉座には凛子が座っている。私は、暇さえあればそこで何時間も過ごした。凛子に触れ、凛子に話しかけた。それは、とても幸せな時間だった。
 初めて宮殿を呼び出してから半年が経っていた。私は初めてリングに上がり、なんとか三試合を勝ち進んだ。
「よくやった!」
 札を指で弾き光希は八重歯を見せる。三試合目に勝利した帰り道は暗い。
「お祝いしよう」
 屋台でケバブを買う。家まで歩きながら頬張る。光希は始終私を褒めてくれる。体が温まったのは、きっとおいしいケバブのせいだけじゃない。包み紙を丸めて、少し前を歩く光希に追いつく。
「今なら、世界の全てを覚えられそう」
「最初は三桁の数字も覚えられなかったのにね」
 闘技場から離れて駅前の大通りに出る。家はもう直ぐだ。
「そうね。私、才能あるみたい」
 いなしたが、光希がまぜっかえす。
「それもあるけどさあ、やっぱり宮殿の玉座に座ってる誰かさんのおかげじゃない?」
「なんでそのこと……覗かないでよ!」
 玉座にいる凛子のことをからかわれて背中を叩くと光希は笑った。不意に立ち止まる。背中にぶつかった私は光希の視線を追う。道路を隔てて向こう側のショーウィンドウの前だ。黒塗りの車が止まっている。ショーウィンドウの脇にある、従業員用の出入り口から毛皮の女性が凛子と出てきた。
「噂をすれば」
 確か、いくつかある闘技場からの出入り口だ。今日の、私の試合を見ていたのだろうか。凛子の目元にはくまがある。気を取られていると光希が笑った。
 凛子の隣の女性が、前を横切ろうとする自転車を突き飛ばすところだった。自転車の男性が悪態をついて起き上がる前に、二人を乗せた車が走り去る。
「相変わらず強いなあ、義姉さん」
 苦笑する光希に食らいつく。
「家族なの? あの女性と」
 綾江っていうんだ、と歩きながら光希は答える。
「うちの正妻の一人娘だよ。私は愛人の子。金と権力が好きな奴でね。今も地下闘技場で凛子を使って荒稼ぎってわけ」
 家に着く。階段を上がりビリヤード場に向かう。
「あいつの、鼻を明かしたいんだ」
 ソファに寝転がって、光希はぼんやりと宙を眺める。私も隣のソファに座る。
「やってやろうよ」
 格好良く言ったところで、お腹が鳴る。ケバブだけでは足りないようだ。お腹を抑える私に光希が笑う。
「晩御飯!」
 食糧庫には缶詰しかない。サバの水煮だ。コンロを取り出し、マッチで火をつける。隣で光希が呟く。
「初めて会って、もう二年か。懐かしいね」


 《二〇五四年 夏》

 誰かが扉を叩く。
 いつもなら、決して開けない。でもそれは冬で、凛子と出会った日に近かった。絶え間なく叩かれる扉をそっと開く。暗闇から、黒髪の女の人が飛び込むように入ってくる。
「閉めて! はやく!」
 錆びたかんぬきを素早く締め直す。外で足音が近づき、声がする。
「あっちか?」
「急げ」
 荒い息と砂利を踏む靴の音が小さくなる。女の人は、髪をかきあげて笑う。
「ありがと」
 私は返事をしない。壁に掛けた懐中電灯をとる。明かりを頼りに階段を上がると、彼女も着いて来る。
「ねえ、しばらくここにおいてよ」
 ポケットのメモ帳を取り出す。ページをめくる。
「いやよ」
「そんなこと言わないで。借金取りが家で張ってるんだ」
「一晩はおいてあげる。それだけ」
「どうして、メモを見ながら喋るの?」
「大事なことが書いてあるから。その六十八『侵入者は追い出すこと』」
「へえ、それは便利だね」
 私たちはビリヤード場に入る。建物の中心にあるので暖かい。メモを見ながら食糧庫から缶詰を出し、火にかける。女の人はソファで足を組んで、こっちを眺める。
「結構居心地いいじゃん。どうやって暮らしてんの? あ、あたしは光希、あんたは?」
「優子。友達が残していった食料でなんとか暮らしてる。あとは……」
「そのへんでかっぱらったり?」
 答えない私に、光希は笑う。私は背を向け、コンロに火をつけようと苦戦を続ける。光希は話し続ける。
「なんかあんた、森の動物っぽいね。二つに結んだ髪とかコロコロしてて動きもゆっくりだし」
 コンロをつけるのに四度失敗する。諦めたとき、光希が後ろにいた。
「こうだよ」
 片手でマッチを擦って火力を最大にする。調節しながら言う。
「そのメモには、ここまで書いてないんじゃない? こう言うのは、覚えるしかないね」
 私は礼を言いかけるが、代わりに言う。
「ほっといて」
「でも、良かったね。私がやり方覚えてて」
 私たちは鯖の水煮を食べる。水を飲んでいると、光希は立ち上がる。
「いいもの見せてあげようか」
 そのまま窓辺に近づき、窓を開けて周囲を伺う。
「借金取りは、消えたようだし。行こうか」
「行かない」
 ソファの上で、私は身を固くする。早くこの女を追い出さなければ。
「世界が広がるよ」
 思わず、目の前の光希を見つめる。
「ほら、決まり」
 勢いよく手を取られて、立ち上がる。私たちは階段を降り、廃墟を出て、街灯の下を歩いた。誰かと外を歩くのは凛子と一緒の時以来だ。
「どこに行くの?」
「地下だよ。平たく言うと」
 駅の反対側へ行き、古びた商店街へ入る。右手に崩れそうなレコード屋がある。その脇に隠れた階段を降り、濡れた床を進む。配管の走る壁の行き止まりに、鉄の扉が現れる。
 扉の隙間から光と、ざわめきが漏れている。光希は右手首を扉にかざした。立ち上がったライオンのような刺青が手の甲に見えた。取手が、電子音を立てる。
「音、気をつけて」
 光希が扉を開ける。忠告は遅かった。大きな音に体がのけぞる。人の叫び声だ。扉の中は、外からは想像できないほど広い。サッカー場くらいある。客席も中央に向かって下がっている。一番底にある舞台には、二つの建物が向かい合っている。白い建物と、青い建物だ。建物の端は、遠くからでは見えない。
「あれ、なに? ここは?」
 ちょうど決勝かあ、と言いながら、客席の一番後ろを歩く光希を追う。
「記憶の宮殿さ。そしてここは、闘技場」
 そう言われてみれば、どちらも壁や扉に豪華な飾りが施されている。しかし、青い宮殿にはヒビが入っている。光希は一番端の席に座った。
「見てればわかる」
 光希が親指で指す方には、巨大なモニターが二つあった。一つは白い宮殿の方に、もう一つは青い宮殿の方にある。映っているのは室内で、豪華な飾りや壁紙から、それぞれの宮殿の中らしい。青い壁紙の部屋で女の子が身を起こすのが映る。そばかすのある顔を苦しそうにゆがめ、頭を抑えている。女の子の手のひらには、刺青が入っている。よく見ようとした時、鋭い声が響いた。
「この程度?」
 右のモニターで、金髪の少女が右足に重心を移す。私は息を呑む。その姿に見覚えがある。凛子だ。体の前で手を払い、凛子は言う。
ナンバー!」
 緊張を煽る音楽と共にモニターが三つに分かれる。真ん中に、装飾された数字が現れる。六、一、八と数字は変わっていく。画面の二人にも、同じ光景が見えているらしい。凛子は瞬きもせず金色の瞳で見ている。そばかすの少女も目で追っている。息が荒く辛そうだ。音楽が最高潮に達した時、百桁ほど現れた数字が消えた。
 凛子は瞬きをし、薄い唇を曲げて笑う。そばかすの子は肩で息をし、なにか呟いているようだ。
 音楽が止み、ゴングが鳴った。そばかすの少女はふらついた足で走り出す。凛子はゆっくり歩いて、部屋を出て行く。
 そばかすの子は、装飾のない階段を下り狭い廊下を通り抜ける。ほとんど走ると言うより、追われているような表情だ。行き止まりの扉を開ける。入った部屋は、もので溢れていた。大小様々な引き出しから、ぬいぐるみや人形がのぞいている。床には箱がばらばらに置かれている。少女は辺りを見回す。
「くそっ!」
 目当てのものが見つからないのか、部屋を出て、隣の扉に体当たりする。中に駆け込むと、そこは食堂だった。部屋の中央に、細長いテーブルがある。テーブルクロスの上には燭台がいくつもあり、蝋燭が刺さっている。蝋燭は数字の形をしていた。そばかすの少女が走り寄る。かすかに笑いながら震える手で、手を伸ばす。その時、蝋燭に火が灯った。少女は叫び声を上げる。
「待って。覚えてる、思い出せる」
「もういい?」
 凛子の声がする。右のモニターを見ると凛子が違う部屋にいる。床にものも散らばっていない。凛子は息一つ切らしていない。部屋の壁には日めくりカレンダーがかかっている。凛子の指が、カレンダーを一度にめくっていく。カレンダーには一ページに数字が一つ書かれていて、それは消えかかっている蝋燭の数字と同じだ。
 観客が一際高い歓声を上げる。そばかすの少女は膝をつく。カレンダーが最後まで落ちる。そばかすの少女の部屋では、蝋燭が燃え尽きていた。
 凛子が前を向くと、白い宮殿の前に並ぶ大砲が青い宮殿の方を向く。凛子は、先陣を切るように腕を振り下ろした。
 大砲が火を吹いた。青い宮殿の壁に玉が当たり、大きな音が鳴る。宮殿の裂け目が大きくなる。少女は激しく叫んだ。頭を抱え、倒れる。客は沸いた。立ち上がり、足を踏み鳴らす。ファンファーレが鳴り、紙吹雪と硝煙がたなびく中を凛子が宮殿から出てくる。
「立てー!」
「いくら賭けたと思ってる!」
 罵声も中にはあった。
「死ね! 悪役ヒール!」
 凛子は罵声に怯むどころか、煽るように観客に向かって笑む。観客はますます猛る。その横を、少女が担架で運ばれていく。耳から頬にかけて、血が流れている。凄惨な表情が、彼女の苦痛を物語る。その時、担架を運ぶスタッフに話しかける女性がいた。
 背が高く、濃い金髪を夜会巻きにしている。猛禽類のような瞳で、白い毛皮を肩にかけている。口の端にくわえた細い葉巻を揺らしながら、スタッフに何か聞いている。
 話しかけられたスタッフは担架を下ろす。少女が呻く。胸ポケットからライターを取り出し、毛皮の女性の葉巻に火をつける。雰囲気でスタッフが女性を知っていて、女性の地位が高いと分かる。スタッフは床に放ってあった担架を持ち直し、何事もなかったかのように去っていく。気がつくと、光希は鋭い視線を毛皮の女性へ向けていた。
 舞台から降りた凛子は、毛皮の女性へ走り寄った。毛皮の女性が一言二言、凛子に問いかける。凛子は頷く。張り詰めた表情は変わらない。観客が立ち去り始めていた。女性が毛皮を羽織り直す。白い首筋に刺青が見えた。光希と同じ刺青のように見える。凛子が後を追って、出入り口に姿を消す。
「今夜も絶対王者が勝ったか」
 光希は背もたれに寄りかかって息をつく。
「絶対王者じゃない」
 光希が振り向く。
「あの子、凛子っていうの」
 光希は不思議そうにこちらを見る。興奮が遠のいていく。
「どうすれば、彼女に近づける?」
 光希は私を見て驚いたように言う。
「凛子に? 無理だよ。あの金髪女がいつもガードしてる」
 首を振られても、彼女を見つめる。方法はあるはずだ。小さくうなって、光希は冗談のように言う。
「話はできるかも」
「どうしたら」
「あそこに立つのさ」
 手のひらを向けたのは、先ほどまで二人の少女が戦っていた場所だ。いつのまにか宮殿は消え、スタッフたちが投げ込まれたゴミを掃いている。急に寒くなった気がした。でも、他に方法はない。私は光希に詰め寄る。
「その方法、教えて」


《二〇五六年 春》

 凛子とはじめて戦ったのは春だった。ざわめきの中、闘技場に上がる。照明が眩しくて、目を細めてしまう。凛子の姿が近づいてくる。
「焦るなよ!」
 光希だ。観客は私に罵り声すら上げない。期待していないのだろう。
 しかし、視線を感じてフィールドの隅を見る。綾江がこちらを見ていた。鋭い視線だ。今までの試合を見てきたのだろう。光希の存在にも気づいているはずだ。険しい表情は、凛子の邪魔をするなら殺す、といったところか。
 怯みそうになるが深呼吸して、切り替える。関係ない。私の目的は、凛子だ。彼女を取り戻すこと。私を思い出してもらうことだ。
 闘技場の中央に歩み出る。先攻を決めるコイントスだ。ポケットから十円玉を出す。渡すと、凛子は表と裏を見る。不正なしと判断してから、凛子は十円玉を親指で弾く。
「凛子」
 凛子が目を上げる。薄い黄金色の虹彩は相変わらず美しい。
「私のこと覚えてる?」
 硬貨が宙を舞う。話しかけられて受け取り損ね、コンクリートに硬貨が落ちる。凛子は私を見据えたまま、黒い編み上げ靴でそれを踏む。
「表」
「裏」
 凛子の先攻だ。
「あの、私」
風景シーン
 凛子が宣言する。ゲームの始まりだ。私のことも研究しているのだろう。はなから苦手な風景をぶつけてくる。あれはどんなだったっけ。そう呟きながら、宮殿の中を駆けずり回る。絵画で額縁に収まっている風景を、なんとか思い出していく。もう少し、と言うところだった。凛子が映写機に手をかける。映写機のスイッチを入れ、白い壁にパラパラと風景を映し出す。速さも解像度も、私の比べ物にならない。
「そんな……」
 あっという間に、映写機は最後の風景を写し終わっていた。凛子の宮殿の大砲が、音を立てて私の宮殿を攻撃する。倒れそうになりながら、持ち堪える。
「次は、カード
 凛子は面白がっているような声で言う。
 よし、と心の中で思う。札は得意だ。
「サービスよ」
 凛子が見透かしたようにいい、つい腹が立ってしまうが、当初の目的思い出す。
 宮殿の前で、札を見ながら凛子に私を思い出してもらうように呼びかける。
「私のこと本当に覚えて」
「もういいわ。覚えた」
 札が消える前に、凛子はもうそっぽを向いていた。
「えっ」
 凛子に話しかけていて、私はろくに覚えていない。
「そっちは、大丈夫かしら?」
 意地悪そうに唇を上げて凛子は宮殿へ悠々と消えていく。
 凛子の様子を伺いながら、宮殿に走っていく。凛子の宮殿の中、札は虫ピンで昆虫採集のように美しく止められている。一枚一枚、凛子が札の前を通り過ぎていく。このままでは、また負けてしまう。宮殿に入ってすぐ右の小部屋に入る。全くの当てずっぽうだ。勘で一番大きな引き出しを開けると中から札が飛び出した。私は慌てて札を捕まえようとする。
「まって、ちゃんと、順番に」
 焦りで脳に血流がいく。かろうじて順番は覚えているが、凛子は最後の一枚に差し掛かっている。私の札の方が、何分の一秒かの差で床に落ちた。凛子が息を呑む。宮殿の外で、振動が走る。凛子の宮殿を私の投石器が攻撃する音だ。
 宮殿の外に出て、こめかみに手を添えてこちらを睨みつける凛子に向かって言う。
「次もカード!」
 凛子はいらついたように眉間に皺を寄せる。札を覚えて再び宮殿に入るが、凛子は走り出さない。不思議に思って様子を見ていると、私の宮殿に向かってくる。凛子はそのまま柵を潜って窓辺に立ち、窓ガラスを蹴り破った。脳のどこかで鋭い衝撃が走り、私は呻きながら倒れてしまう。
「反則だ!」
 場内がブーイングに満ちる。
「さすが、悪役だなあ」
 場外で光希が口笛を吹てみせるが、その顔は引き攣っている。耳に当てた手から、温かいものを感じる。血だ。凛子の側の場外では、綾江が爪を磨くふりをして、光希に中指を立てる。
「なんで、ここまでするの!?」
 勝負もそこそこに、私たちは宮殿の前で睨み合う。
「さあ、忘れちゃった」
 凛子は皮肉っぽく薄い唇をあげる。憎い、と思った。
 その時、闘技場中に高い音が響いた。初めて聞く音だった。西の客席で争う声がする。綾江の声もする。横目で見ると、スマホで話している。
「なんですって、警察?」
「手入れだ!」
 光希が柵に飛びつく。客席の上から制服を着た警官が人を追いかけている。客が場内に走り込む。綾江が場外脇のボタンを押し、柵を上げる。光希と合流して裏口に向かう。横目が、誰かにぶつかられて凛子の体が脇に跳ね飛ばされるのを捉える。
「凛子!」
 私の声は誰にも届かなかった。捕まらないよう光希と走り、マンホールから地上に出た。目の前にあった、中華料理屋に飛び込む。ついでに注文したラーメンと水餃子を待つ間、私たちは息を整える。
「惜しかったな」
 光希の言葉に頷くが、凛子と交わした言葉にまだ動揺していた。心臓が乱れているのは、走ったからだけではない。
「なんで、あんな風になっちゃったの」
 呟きは途中で消えた。
「入れないってどう言うこと?」
 どこかで聞いた声だ。振り返ると、入り口に凛子と綾江が立っている。やべっ、と光希が私と一緒に頭を低くする。
「ただいま、満席でして」
「あの席、空いてるじゃない」
 綾江が手のひらを私たちのいるボックス席に向けた。
「あちらにはもうお客様が」
「あら」
 気づかれた。綾江の声が笑いを含む。
 仕方ない、と光希が椅子の背に手をかけて勢いよく立ち上がる。その顔には汗をかいていなかっただろうか。
「相席、いいですよ」
 私も立ち上がる。店内を見回す凛子と目が合う。
「毛皮、忘れたわ」
「こんな汚い店、初めて」
 こちらに向かってくる二人に、光希は足で椅子を向ける。
「場外乱闘は趣味じゃない。まあ、座んなよ」
 一番マシなものを二つ、というと店員は露骨に嫌な顔をした。店員が消えると、綾江は光希を睨む。
「それでその子、どこで拾ったの」
「まあ、いきさつで」
 光希は肩をすくめてみせるが、その顔はひきつっている。
 ラーメンと水餃子が来た。頬張る光希と私を凛子が呆けたように見る。綾江は横目で一瞥をくれる。
「相変わらず低俗なようね。そんなんだから妾腹って呼ばれるの」
「うるせえ!」
 そっと凛子の方を見ると、辺りをキョロキョロ見回している。
 光希の態度も慣れているらしい。
 二人前の青椒肉絲と天津飯が運ばれてきた。光希と綾江が睨み合う中、凛子を何度か盗み見る。その様子を見て、綾江が言う。
「まあ、どこにでもいい人材はあるわ。この子も、事故で記憶のないところを拾ったの」
「病院で人買いかよ。私よりたち悪い」
「家と食べ物には不足させないわ」
「賞金が目的だろ」
 言い合う二人を横目に、もう一口烏龍茶を飲む。味がしない。でも何か飲まなければ、声が出ない。
「事故に遭ったからなんだ……戻ってこれなかったの」
「なんのこと?」
 凛子に話しかけられて、思わず飛び上がりそうになる。髪は伸びたけれど、顔は変わっていない。それどころか、一層洗練された印象を受ける。思い切って凛子の方を向く。
「あのさ。私のこと、本当に思い出せない?」
「悪いけど、本当よ」
 不思議そうな、それでいて困った顔の凛子に胸が傷む。私たち、一緒に暮らしていたんだよ。そう言おうとして、斜め横からの鋭い視線に気づく。綾江だ。余計なことをするな、といいたげの、猛獣のような濃い金色の瞳だ。背筋を悪寒が走る。
 俯いた私に凛子が首を傾げる。地下闘技場の凛子とは打って変わって優しそうな顔をしている。リングを降りたら敵も味方もない、と言うことだろうか。
「大丈夫? 顔色、悪くない?」
「平気」
 首を振り、早口で答える。
「そんなことない、こっち見て」
 細い手が伸びて、私の頬を上げる。見上げた凛子の顔が近い。
「ほら、やっぱり」
 凛子の薄金色の瞳が照明の加減で暗く見える。それでも奥に宿る優しさは昔のままだ。
「……変わらないね」
 店の外に、黒い車が止まった。中から黒服の男が出てくる。綾江は男に手を振る。
「来た。行くわよ」
「はい」
 女王のように先を歩く綾江と、従者のようについていく凛子を見送る。二人が店を出ると、黙っていた光希が勢いよく卓を蹴った。ムカつく奴ら。そう呟く。
「絶対、負かしてやる!」
 私も同じ気持ちが湧いてきた。絶対に、凛子を取り戻したい。
「私も、もっと頑張る!」


《二〇五六年 冬》

 凛子との決勝は数時間が経った。私たちの戦いは続いている。
フェイス!」
 凛子は掠れた声で言う。ふらついている私は、顔が現れる中、自分の宮殿に寄りかかる。それでも意識が落ちそうになる。投石器が、一台私の宮殿を向いて、石を投げる。宮殿は振動し、私は脳が悲鳴を上げるのを感じる。痛いけれど、それでも少なくとも、目は覚めた。こめかみを血が伝うのを感じる。
 顔が消え、若干怯えた表情の凛子が残る。
「なんで、そこまで……」
「あなたを取り戻すためだ!」
 私は叫んだが、肝心の顔はほとんど覚えていなかった。脳が疲弊し切って休息を求めていた。
「うるさい! あんたなんか知らない!」
 目を見開いて凛子は叫ぶが、すぐに頭を抱える。まるで彼女の中で失われた記憶が蘇ろうとしているかのように。凛子、と冷たい声で呼び戻したのは綾江だ。
「しっかりしなさい。さっさと勝って、恩を返して」
 凛子が深呼吸をする。どこか、絶望を感じる息継ぎだった。そして、私に目もくれずに白い宮殿の中に消えていく。
 こうして、私たちは最後の戦いに入った。これで勝負をつけると決めたのだろう。凛子はもう、ゆったりと歩いてはいない。今までになく走り、宮殿の奥に向かう。球技室に入ると、そこは人間の首が狩猟の獲物のように並んでいる。どの顔も、完璧に再現されている。同時に、私は舞踏室にいた。そこでは幻のような人々が踊り、行き交っている。思い出そうとしても、皆、私の前をすり抜けていってしまう。
「待って!」
 声も虚しく、後ろで大砲が音を立てる。やられる、と頭を抱えてうずくまるが衝撃は避けられない。神経が引き裂かれるような振動がで、涙が幾粒もはらはらと落ちる。
「きまったか?」  
「王者が一発入れた!」
 いい加減勝敗を待ち侘びた観客の、期待を込めた声が聞こえる。
「嫌なこと思い出しちゃったな……」
 涙を拭いて、私は立ち上がる。


 《二〇五一年 秋》

「次は腹、蹴ってみろよ」
「よし! うんこ食え!」
 廃ビルの狭間で、そいつらはよくちょっかいをだした。時には人目も気にせず。一番私をひどくかまうのは、少しマシな境遇の奴らだった。
「あ、あは……」
 それでも他に行くところがなかった。だから、奴らが通り過ぎてくれるのを待つしかない。殴られると笑ってしまう。笑うより他にないから。
 冬だった。蹴飛ばされて地面に這いつくばる。ビルの狭間から一円玉みたいな太陽が見えている。鋭い痛みが消えるよう願う。笑い声や叫び声がビルの壁に響く。
 太陽が翳る。笑い声が止む。
「なにお前」
 周りに命令していた奴が、一層低い声を出す。
「消えろ!」
 誰かが石を投げたらしい。近くのゴミバケツに当たってネズミが頭を抱えた私のそばを通り過ぎる。
「十時二十一分、東駅前のコンビニでビール四本とワンカップ二本を万引き」
 細い声だ。それでいてしっかりしていて、恐怖がない。
「十時四十四分、金井公園で虎キジの猫を赤と茶色の紙袋に入れ、ボール代わりにする虐待」
 声の主がこちらに来る。見ると、金色の長い髪が、再び現れた太陽に光る。
「十一時十三分、そこから二百メートルの場所で、少女を暴行」
 同じ金色の瞳は半月に弧を描いている。でも笑っているのは、殴られているからじゃない。
 その逆だ。
「各々、短くて十年ってところかしら。まあ、順当に行けばの話」
 頭上で、息を呑む気配がした。私を行き止まりに詰めていた人の壁が彼女の方に解ける。
 一瞬置いて、角材で、ゴミバケツが二度強く殴られる。
「次は、お前がこうだ」
「ブス!」
 足音が完全に遠くなる。蹲っていた壁から身を離す。
 彼女がこちらへ来る。汚れて白っぽくなったアスファルトの埃まで太陽が明らかにする。足元に散らばった紙切れを見下ろす。
「……なんでも書いておくの。すぐ忘れちゃうから」
 紙を拾いながら、私は言う。
「自分を守ることくらいは、覚えたら?」
 彼女を見る。彼女も私を見ていた。
 数秒して、彼女は小さく吹き出す。
「無理そうね」
 そして歩けるか聞く。答えると、髪を靡かせて駆け出した。
「こっち、秘密の場所があるの」
 先を走る彼女に名を聞く。凛子、と答えが返る。私は優子、と答える。
 駅のそばに、廃屋がある。いつも見上げて、こんなところに住めたらと思う。人通りが多い。けど賑やかだ。元はボウリングセンターを基調とした、複合施設だった。三階建ての頑丈な建物だ。
「最近、入ったの」
 蔦が絡まる壁に割れた窓から入ろうとする私に、凛子は手を貸す。
「宮殿みたい」
 ところどころ光に照らされたレーンや、天井から下がった電飾にため息をつく。
「部屋は四百三十一だよ。シャワー室やトイレも入れたら、七百二十九部屋」
「全部、覚えてるの?」
 凛子は座っていたカウンターからひらり、と飛び降りた。
「確かめてみる?」
 頷くより早く、私は走り出していた。
 広い。どこへ行っても怒られることはない。どこまででも行ける。走りながら、私は笑っていた。二十分ほど走ってから、三階下の、掃除用具が入っている棚へ入る。しばらく息を潜めていると、足音が近づいてきた。
 棚の隙間から、凛子の足とスカートの裾が見える。私と同じくらい汚れているけれど、彼女に似合っている。
「うーん」
 笑いを含んだ声が聞こえる。
「どこにいったのかなあ」
 高鳴る心臓を押さえる。すると、軽い足音は遠ざかった。長いこと待ってみる。足跡は戻ってこない。飽きてしまったのだろうか。棚から出て、元のボウリング場に戻ろうとする。
 しかし、同じように見える階段が二つある。一つを上がるとさらに二つの廊下に分かれている。行き止まりの小部屋に入り、椅子に座り込む。
 不安で息が荒くなる。その時、遠くで鳩の羽ばたきが聞こえた。と思うとそれは足音に変わる。棚の扉が開く。
「やっぱりこっちか」
 次の日も、その次の日もかくれんぼは続いた。私がどこに隠れても、必ず見つけられた。凛子が私を見つけられなかったのは、一度だけだった。そしてそれは、最後のかくれんぼになった。
 ついに我慢できなくなって事務室の椅子から立ち上がる。
「凛子……?」
 秋は終わり、冬だった。廊下にでると、一筋の風が吹いた。遠くで何か鳴っている。外に出たのだろうか。錆びついた窓を開けると、下は大通りに面している。サイレンが近くなり、一瞬止まる。そしてまた鳴り、遠かっていった。
 日暮れが終わり、凛子が帰るまで待っていた。次の日の、その次の日も。
 待ってて、次は私が助ける。


 《二〇五六年 冬》

 地下闘技場に、冷たい風が吹き込む。従業員が、ガソリンのポリタンクを綾江の足元に置くが、瓦礫が飛んできて、それを避けた従業員は灯油ストーブをつけるのもそこそこに慌てて逃げていく。
 お互いに、これがおしまいだ、と感じていた。凛子が大砲に寄りかかりながら聞こえるか聞こえないかの声で、風景シーン、と言う。最後まで私の苦手なとこを突くつもりだ。
 目の前にいくつもの風景が現れる。もしかしたら誰かと記憶を競うのは、これで最後になるかもしれない、とふと思う。しかし、人並み以下の記憶力だった私がこんなところまで来るなんて、と少しおかしくなる。
「何笑ってんの」
「別に、後で教えてあげる」
 私たちはお互いの宮殿に向かって走り出す。凛子を取り戻したい、その気持ちに変わりはない。でも、今は何か、他の大きなものに向かって走っているような気もする。
 上階の大浴場に入る。一番大きな浴槽は、液体で満ちていて何枚もの紙が浮いている。一枚一枚、紙切れの上に染みのように風景が浮き出てくる。少しでも早く思い出せるように、私は現像液を急かした。
「急いで……」
 凛子の様子を伺うと、宮殿の離れにある礼拝堂にいた。ステンドグラスに手をつきながら足を進めている。ステンドグラスは、醜悪な描写ではありながら先ほど現れた風景そのものだ。祭壇に向かう凛子は、途中で立ち止まり、咳き込み、息を整えてまた進む。私の方は、最後の一枚がまだ現れない。
「おわりよ」
 祭壇に行き着いて、凛子は頭上を仰ごうと、息をつく。
「王者は負けないから、王者なの……」
 思わず鼻で笑ってしまう。大浴場のモザイクでできた床が震える。水面に震えが走る。
「絶対王者? 笑わせないで!」
 凛子が身震いして、こちらを振り返る。私は凛子に向かって叫ぶ。
「親友すら、思い出せないくせに!」
 同時に、床が裂ける。一本の木が宮殿の床を突き破る。最後の風景だ。大樹の質感、存在感は本物ののようだ。投石器が全て、凛子の宮殿を向く。大石が宙を飛ぶ。凛子のいる礼拝堂に一際大きい石が当たり、祭壇の上のステンドグラスを砕いた。叫び、凛子は倒れる。私が宮殿から出ようとすると、宮殿の前に、目を閉じて仰向けに倒れている凛子がいるのが見える。静寂が場内を包む。
「勝った」
 しばらくして、客席から誰かが言った。信じられず、周りを見渡す。皆が私を見ていた。特に私を見ていたのは光希だった。いや、私を通り越して、その目は綾江を見ている。勝ち誇った顔だ。しかし、綾江は光希を見ていなかった。静寂を破ったのは、低い声だった。
「ふざけるな!」
 危機迫った表情で、綾江は灯油ストーブのポリタンクからの石油を宮殿に撒き、火のついたマッチをなげつける。炎が勢いよく燃え盛り、宮殿全体が炎に包まれる。
「戻れ!」
 光希が叫ぶが、その言葉はほとんど耳に入らなかった。炎は宮殿の中にまで達する。私は叫ぶこともできず、廊下を激痛でのたうち回る。光希が柵を乗り越えるのが意識の端に映る。凛子が、上半身持ち上げて見ている。
「来ないで!」
 そう言おうとするが、脳が焼かれている痛みで声にならない。光希が私を見つけ、名を呼んで抱き起こす。光希は私を外へ連れ出そうとするが、すでに周りを炎で囲まれている。炎の熱と煙の中、それでも出口が見え、希望を抱く。天井の梁が音を立てて倒れてきたのは、その時だ。柱は私から光希を奪い、燃え盛る炎の中へ投げ込んだ。光希は最後に、私を出口の外へ押しやった。


 《二〇五七年 春》

 病院に搬送された私は、応急処置を受けた。
「損傷箇所の切除」
 そんな声が聞こえる。右のこめかみには、何十針もの縫合痕がある。集中治療室で過ごした後、一般病棟に移された。光希が死んだと知らされて、初めは信じられなかった。しかし、数日して彼女の亡霊を見るようになった。綾江の幻覚もだ。手にはポリタンクを持って、こちらに向かってくる。あの時のことが忘れられない。何度も私の目の前に光希が、綾江が現れ、私を苛む。叫び、うずくまるが亡霊は消えない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 日中も彼女たちの幻覚を見るようになり、カミソリで自傷行為をするようになった私に、主治医が言った。
「精神性外傷ですね。悪い記憶が意志と関係なく、フラッシュバックのように思い出されたり、夢にみたりします。かなり深刻ですので、薬物療法でないと、難しいかもしれません」
 医師の話が他人事のように頭上を流れる。脳波を測る管は外されたが、飲む薬が一度に増える。
 セルトラリンとパロキセチンを毎晩飲む。セロトニンが出るようにするのだとか。認知療法、運動療法、カウンセリングに継ぐカウンセリングで、時間だけが過ぎていく。
 次第に光希のことも、記憶の訓練も、地下闘技場でのことも忘れていった。それに伴って、記憶力も人並み以下に、昔の私並みに戻っている、と気づく。メモが手放せないのだ。でも病院の中からは、逃げ出すこともできない。
 最後まで残っていたのは、凛子の記憶だ。昔の凛子のことも、最後に見た凛子のことも、鮮明に残っている。なぜだろう。真っ白な病室で毎晩、凛子のことを考える。そしてある時、気がついた。自分を守ることも、この世の全てのことも、記憶する必要はない。一番大切なのは、凛子だった。凛子さえいれば、毎日更新される凛子の記憶さえあれば、私は生きていける。
 そのことに気がついた瞬間、私は何もかも忘れた。

「見つけた」
 開け放した窓のカーテンが揺れた。誰かが病室に入ってくる。思わず、声を上げる。入って来たのは少女だった。白金の長い髪を耳にかけ、彼女は居心地悪そうにこちらを見る。
「……誰?」
 同い年くらいだろうか。悲しそうな瞳は溶けそうな白金だ。
「誰だっていいでしょ」
 視線を落とし、吐き捨てるように言う。ベッドの隣に置かれた椅子に、スカートをひらめかせて座る。ナースコールを押そうか迷う。しかし、少女の切羽詰まった表情に躊躇ってしまう。
 話そうとした時、少女が私の唇に指をあてる。沈黙が流れる。
「あの後」
 彼女は口を開いた。
「綾江は捕まったよ。闘技場も摘発された。私はなんとか逃げて、今は工場で働いてる」
 綾江? 闘技場? 工場?
 首を傾げる。
「昨日やっと、闘技場の従業員を見つけて、貴女の運ばれた病院を聞き出した」
 少女は息を継ぐ。
「……全部、無くなった」
 黙っている私に、彼女は言う。視線は、テーブルにつまれたメモ帳の山だ。
「本当に、忘れたのね」
 話が見えず、私は黙る。
「全部、忘れた方が良いかも」
 こちらを見る彼女の唇が震える。形の良い眉が中央により、八の字になる。彼女は続ける。
「私、缶詰の開け方が思い出せないの。なんでも思い出せるのに。事故で強く頭を打ったらしいから、そのせいかな」
「あなたのことも、ついに思い出せなかった。こんなになるまで頑張ってくれたのに」
 そして言う。
「……思い出せないけど結構、好きなんだ」
 なにが好きなのか、彼女は言わなかった。
 まつ毛の長い瞳に涙が滲む。見ていると、右手首の刺青が疼き始める。彼女の白い首筋にも同じ刺青がある。
この人を泣かせてはいけない。なぜだか、そんな気がする。ベッドの縁を掴んだ彼女の手に触れ、あのね、と声をかける。
「私、いろんなことを忘れてしまった。良いことも、悪いことも。大切な人たちのことも。確かにあったのに。貴女が誰かも、思い出せない」
 でも、と言い彼女を見つめる。
「貴女は、私に必要な人だった気がする」
 カーテンが揺れ、光が射し込む。光に彼女の虹彩が澄み、瞳孔が大きくなる。彼女の瞳に涙が溢れそうになるが、顔を背けない。
「貴女のこと、絶対に思い出す」
 彼女は唇の端を上げて笑う。

 少女が帰った夜、ベッドの横に立ち、目を瞑る。手のひらに汗をかいていた。
 深呼吸して、肩の力を抜く。目の前が真っ暗で、よく見るとそれは霧だ。何も見えない。それでも集中する。すると、焦げた木の匂いと、どこかで何かが崩れる音がした。

 石の門は、半分崩れている。扉も焦げている。扉のすきまからのぞく。足元を黒灰色の燃えかすが転がっていく。
 広い土地が、焼け野原だ。ここに昔、宮殿があった。春の柔らかな風が吹く。病院から支給された、寝巻きの裾が翻る。私の茶髪も舞い上がる。頭の傷が、空気に触れる。
 どこからか、少女たちの笑い声が聞こえる。気のせいだ。椅子が軋む音にも聞こる。誰が座っているのか。頭の奥で鋭い痛みが走る。右のこめかみを押さえる。痛みが少しましになる。深く呼吸する。取手を押して、扉を開く。中に入っていく。