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あの時ほんとうはなんて言いたかった?


「お前さえいなければな」

小学校での文化祭の頃、クラスのリーダー的な人にそう言われた時、僕はほんとうはなんて言いたかったんだろうか?


僕は自分の気持ちを理解することが苦手だ。暑いとか寒いとかそういったことは過剰なほど理解できるのに、心の中となると途端によくわからなくなる。嬉しいことがあっても、嬉しいと思えない。嫌なことがあっても、嫌だと思えない。いつもそうだ。

本当の気持ちがわからない代わりに、僕がいつも心の中で思うことは「まぁそんなもんだよな」とか「別にいいや」とか、そんなカッコつけたような気持ちばかり。自分なんてそんなもんだよな、みたいな、どこか諦めたような冷めたような気持ちしか出てこなくなっている。

じゃあ本当に嬉しさや悲しさはないのか?感情ってもんがない人なのか?というと決してそんなことはないと思う。なぜなら「まぁそんなもんだよな」みたいなことを思うたびに、僕の心臓が鎖で縛られるような、心の身動きが取れなくなるような、そんな感覚がするからだ。多分、本当に思っていることを押さえつけてしまっているのだろう。心の中では本当に言いたいことが別にあるのに、でもそれを出さないように鎖が縛っている。そんなものが僕の心にはある。

ではなぜ僕はそんな鎖を身に着けてしまったのだろうか。理由は様々あるだろうが、まず思い浮かぶのは、隙を見せてはいけない家庭だったからではないだろうか。家では基本的に隙を見せてはいけない。少しでも隙を見せれば、馬鹿にされたり揚げ足を取られたりする。「授業でわからないところがある」とか「いつもよりちょっとテンションが低い」とか、そういった隙のようなものをひとたび見せれば「そんなことも分からないのか」「グズグズそんなこと言って」「これができないんだってよ(笑)」みたいな言葉が飛んでくる。決して油断はできない。だから家の中では「ありがとう」や「ごめんなさい」なんて言葉は一切存在しない。誰ひとり口にしない。なぜならそれは「隙」だからだ。
隙を見せてはいけない。僕の心にある鎖は、その隙を見せないために作られたものだと思う。

その鎖があると、確かに隙を見せてしまう回数は減るかもしれない。でもこの鎖のせいで、今までずっとほんとうに言いたいことがわからなかった。今まで出会ってきた沢山の人や出来事に、あのとき、僕はほんとうはなんて言いたかったんだろうか。


「仕事を全部押し付けられて小学校から泣きながら帰ったあの時、ほんとうはなんて言いたかった?」

「グループで動いてくださいと言われたのにいつの間にか撒かれて一人になっていた時、ほんとうはなんて言いたかった?」

「自分のために代わりに探し物をしてくれていた人がいた時、ほんとうはなんて言いたかった?」

「強調性がない自分が裏で着々と作業を進めていたことを誰かが見てくれていたと知った時、ほんとうはなんて言いたかった?」


鎖に縛られていて、ずっとわからなかった。あのとき、嬉しかった?悲しかった?悔しかった?楽しかった?

ほんとうはなにが言いたかったの?数年前の僕。




実は、この鎖の存在にはずっと前から気がついていた。今までそれを外す気になれなかったのは、これまで騙し騙しやってきたその本当の気持ちを知るのが怖かったからだ。隙を見せないように振る舞い続けて見ないようにしてきたものを見るのが怖かったからだ。ずっとずっと、小学生の頃にはもうあったであろうこの長い付き合いの鎖を外すのは流石に怖い。だからずっと外す気にはなれなかった。

でも最近、これを外してみたくなった。それが、人と関わることや今の自分を理解することにつながると知ったから(ここはまた別で書くつもり)。

この鎖を外すのは、おそらくかなり時間がかかるだろう。年単位になるかもしれない。だから少しずつ少しずつ外していくつもりだ。必要だと思う鎖は取っておくかもしれないし、鎖なんて完全にない方がいいかもしれない。考えたことや感じたことを、ほんとうのことを、自分で認識できるように。とりあえず、少しずつ少しずつやっていこうと思う。

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