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私、娘に忘れられてた。退院して信頼回復!!なんてカッコいい展開にはならなかったな、、、。

大切に育ててきた娘さんも成人し、今は体のメンテナンスをしながら映画やイラスト、ゲームなど趣味を楽しんでいるという頚椎損傷(C7 ブラウンカーセル症候群)の主婦、Yさん(40代)


事故の日

私が事故に遭ったのは今から24年前のことです。

当時、娘はまだ1歳半でした。仕事に育児に家事に忙しく、それでも娘の成長が楽しくて、可愛くて仕方ありませんでした。

いつもは義母に娘を預けて仕事をしていましたが、その日は仕事帰りにそのまま引っ越し作業をする予定で、朝、実母に娘を預けました。近いうちに私の実家で母と私たち一家が同居する予定で、準備を進めているところでした。

娘にバイバイをして、「今日は忙しくなるなー。」と思いながら車を走らせていました。


気づくと体が動かなくて、車から引きずりだしてもらった時にはもう何も感じませんでした。私の運転する車は、居眠り運転の車が起こした事故に巻き込まれていたんです。あっという間の出来事でした。



お母さん、どうか娘をお願い

特に車がぺしゃんこになったわけでもなく、事故の相手がケガをしたということもなく、私の外傷も首の骨折以外目立ったケガはありませんでした。ただただ色んな不運が重なって、幸か不幸か私の車椅子ライフがスタートしてしまったというわけです。


事故後、意識はありました。


だんだん傷ついた脊髄が腫れてきたせいで、横隔膜がジワジワと麻痺していくのがわかりました。幸いにも痛みはなく、頭の中は「娘をどうしようか?!」ということで一杯でした。声が出なくなる前に、当時はまだ珍しかった携帯電話を持ってた人に借り、母に電話をしてもらいました。

電話口で母に「娘のことを頼むよ」って言ったのを覚えてます。

病院で人工呼吸器を付けられたところまでは覚えていますが、その後私はICUで1か月以上意識を失っていたようです。


母と認めてもらえなくて

娘と会えたのは人工呼吸器が外れ、カニューレになってからでした。事故の日の朝、母に預けて以来です。やっと娘との感動の再会!と思いきや、私の白いベッドの上に乗せられた彼女は、そこに横たわる私を見て「イヤイヤ」と大泣きをしたではありませんか。

あまりにも私の姿が、変わり果てていたからかもしれません。やっと会わせてもらえたのに、母親と認めてもらえず寂しかった…。

それからは滅多に娘には会えませんでした。まわりも大変な状況だったこともあり、なかなか病院に連れて来られないのはわかっていました。

泣かれたことよりもショックだったのは、会うたびに娘が成長していることでした。一番近くで成長を見守るはずだったのに、娘が2歳の頃どんなお菓子を好み、どんな飲み物をよく飲んでいたのかさえ私は知りません。

娘が私と似たような背格好の人に抱っこをせがみ、腕の中で寝ようとしていたなんて話を聞くと申し訳なさに押しつぶされそうになる半面、完全に今病院のベッドの上にいる私と彼女の記憶の中の母親は違う人なんだなって…。仕方ないと分かっててもショックでした。


なんでこの子にこんな思いさせなきゃいけないの?なんで?1番そばで見守りたかったのに。よちよち歩く娘の手を引いて歩きたかったし、遊んであげたかった。なんで?なんで私が。


ただ、それをバネにして「早くリハビリして戻らなきゃ!」と思えましたが。


見送る背中

リハビリ病院に移ってからのことです。面会に来た娘や夫の背中を見送り、通路で泣き崩れたことがありました。家族は手を繋ぎ並んで帰っていくのに、そこに自分はいないんです。自分だけがその中に居ない。それがあまりにも辛くて、家族の面会を拒んだ時期もありました。

これからどんな生活になるのか、見当もつきません。

だけどやるしかありませんでした。私には娘がいましたから。リハビリ病院には他に子どものいる若い人はいませんでした。今のようにSNSもなく、似たような境遇の人と分かち合うことも情報を得ることもできない時代でした。ただただ将来娘に迷惑を掛けなくていいように、がむしゃらに動作獲得に励んだんです。


退院後の生活

同居しようと思っていた実家をバリアフリーに改修するのは難しく、夫の実家の隣にあった小屋にひと部屋増築し、退院後はそこに住むことになりました。母も連れて義実家の隣に引っ越すんですから、なかなか大胆な策だったと思います。

入院中も、退院後の生活や育児も、本当に色んな方たちに助けてもらいました。9か月のリハビリ期間では自分のことをやるにも精一杯で、いくら頑張ても上手くいかないことばっかりでした。

退院したばかりで、まだ自分のことで精一杯なのに周りは通常通りに回るんです。

それにあの日、母に預けてバイバイした1歳半の娘が3歳近くになっているんです。いきなり「お母さん」ってしゃべるんですからね。

何もかもが思い通りに進まないし、失禁の問題・お金の問題・色んなことが重なり合って、それを誰とも共有できずに病んだ時期もありました。新生活は闇からのスタートでした。

とにかく借りれる手はすべて借りて、必死でした。

日常的なことは恥ずかしい話、ほとんど母に頼ってきました。義実家にも娘を色んなところ連れてってもらいました。私がしてきたことは遊んでやったり小言を言ったり、身の回りの物を買い揃えたり、膝に抱いて旦那と遊びに連れ出したりくらいのものでしたが、できることはしてきたつもりです。娘が物心つくころにはこれが当たり前の生活でしたから溝という溝ではなかったけれど、長い間娘と私はちょっと遠かったんです。


私たち、ちゃんと母子だったね

娘が小学校の高学年になったころだったでしょうか。反抗期というやつですね。学校でいじめられていたこともあり部屋から出てこなくなりました。「お母さんはお風呂に入らないから臭い!」「汚い!」ひと通りのことは言われました。

でも不思議と、そうやって当たられることはそんなに辛く思わなかったんです。外でのストレスを私にぶつけてくるくらいには、母子になってたんだなって。逆に頼りにされないことのほうが辛かったと思います。私の存在はなくてもいいんだなって思ってしまいますからね。

私、彼女のお母さんだったんです。ちゃんと。

それからですね、関係にも気持ちにも変化が出たように思います。


自分が母になった時に思い描いてきた育児とは全くかけ離れた育児でしたけど、娘も20歳を過ぎ、今振り返ると何とか走り切れたな!と思うんです。


当時もっと同じ立場の人と情報共有や吐き出せる場があったら、あんなに病むことはなかったかもしれないし、もっと良い育児ができたかもしれないとも思うんです。

だからこれから育児をする車椅子ユーザーの方、今渦中におられる方が繋がることはとても大切なこと。


病んでた頃は、「自分にはなんの価値もない」とか加害者を恨んだり色々心が忙しなかったなと思うけれど、それも無駄な時間ではなかったんだなと今は思えるんです。そのおかげで、悩んでる人の気持ちも分かる人間になれました。

もう娘は成人して私が彼女にしてやれることも少なくなりましたが、今も心配したり話を聞いたり、時にはお弁当を作って持たせたり、逆に彼女が私に世話を焼いてくれることもあります。

最近では娘に、色んなことを正直に言えるようになってきました。当時の話もちょっとずつできるようになってきて、何だか自分の育児の答え合わせみたいで…。

正直怖い気持ちもあるけれど、そこは親として甘んじて受けようかと…(笑)


今はとても幸せです。彼女にも周りの人たちにも感謝の言葉しかありません。


まとめ

Yさんありがとうございました。「周りに育ててもらったんです。私はほとんど何もやってない。」と仰るYさんですが、娘さんにとても深い愛情注いでおられるのがよくわかります。

「私は何もしてなくて、本当に色んな人に助けてもらっている。」

この言葉は、障害のある多くのママたちの口から耳にする言葉です。

ですが、「人の手を借りながら育て上げました」と胸張っても良いのではないでしょうか?


手は差し出されても掴む勇気がなければ掴むことはできません。大切な我が子を任せるのなら尚のことです。差し出されなければ借りることも出来ません。人の手を借りるためにはそのための環境づくりや信頼作りという地道な努力も必要なのです。

子どもが困らないように、自分にはできないところを補ってもらえるよう、調整し信頼し、お願いし甘えるのも立派な育児の方法です。

親の手足が動かなくても、子どもに必要なケアは変わりません。成長に待ったも利きません。その中で自分にやれる方法で育てていくしかないのですから、育児の形にも様々な形があるのは当然のことではないでしょうか?

Yさんをはじめ多くの車椅子ママたちが、それぞれに工夫し、環境を整えておられると感心します。


育児は「物理的なことをどれほど出来たか」ではなく、
「どれだけ子どものことに責任を持つか」「自分事に考えて寄り添い、一緒に成長するか」「自分事として向き合えるか」ということなのかもしれませんね。


出来ないことを他人にお願いしないといけないのはもどかしいことです。自分に出来ないことを人に頼るのは勇気いることです。思い描いた育児ができないことは辛いことですし、世間は色々言うかもしれません。

ですが実際にはYさんのように、あの手この手を使いながらもしっかりと育児している人、やり遂げた人もたくさんおられるんですね。



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