観念論(ソリプシズム・カント・バークリーの批判を踏まえて新たな見解)



カント哲学による超越的観念論における、物自体というものには矛盾を感じた。

とはいえ、カントが真に提唱したかったことは、恐らく人間が感じられる範囲には限界があり、それ以上のものがこの世界には広がっているということが主題だと思われる。

しかし私が思考を巡らせたいのは、「観念こそ世界のすべてであり世界を構築している」という内容だった。

その点においてバークリーは近い議論をしているが、彼は結局神という存在が世界を認識しているから、観念としての世界が成り立っているという結論に至った。

しかし、これも疑問が残った。神を知らぬ赤子にとっての世界はどうなるのか、

信仰を持たぬ者にとっての世界はどう構築されるのか、観念論としての弱さが残る。

私が提唱したいのは、「1人1人の観念に沿って、1人1人世界が造られている」

というものだ。

つまり、例えばこの世界に、ロサンゼルスに住む75歳のジョンが居るとして、私は彼と一生交わることも、関わることも、テレビで姿を見ることもないとする。

そのような場合、私用に作られた世界においては、ジョンは存在しない。

もう一つ例えるなら、ベッドの外から出たことのない赤子にとっては、世界にはベッドから見える景色と母と父しかこの世に存在していない。

ここまではソリプシズムと同じだ。

私はそこに加えて「他人にも他人用の世界がある」ことを付け加えた。

例えば、私にとってはジョンは居ないかもしれないが、人物Aにとってはジョンは実際に存在する人となる。それは世界Aが観念的に存在しているからだ。

ソリプシズムの脆弱性として、共通の現実や認識が成り立たないというものがあるが、この理論なら成立させることが出来る。

先ほどの、ジョンは居るのか居ないのか、という矛盾に関しても、もし仮に私がAからジョンの話を少しでも聞けば、その瞬間に私の観念的世界にジョンは誕生する。

そして75歳だということを知らされた場合、彼の75年間も生成される。

聞かないまま私が生涯を終えたとしたら、私の世界にはジョンは居なかったことになる。

科学的根拠や、揺るぎないと思われる世界の通説も、それを知らなければその人間の世界には現われることはない。

要するに、コミュニケーションと教育と知識により観念的世界は広がり、繋がり、そして徐々に普遍的認識に近いものへと育っていく。共通認識というものはここで生成される。そのため、一見世界はそこまで破綻しているようには見えない。

ここで、それでは世界というものが揺らぎ、認識のズレや共通認識の誤り、真実というものの脆弱性が生まれるが、
例え話に戻るなら、「もしかしたらジョンは74歳だったかもしれない」と思う人間Dがいたとするなら、ジョンに確認するまでは、人間Dにとってはジョンは74歳であるということになり、そしてこのロジックはかなり普遍的かつ馴染みのある感覚だと思われる。

あくまで、Aの世界A、Bの世界B、Cの世界C、と続いていくため、我々の認識における世界とは、全人類全員に向けて姿形を変え、「真なる姿」を見ることは不可能であると結論づけた。

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