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「無理」がある、「無理」しかない
自分が誰かに「好かれる」ということが、
この、滅茶苦茶な人生の中で起こることだなんて思っていなかった。
自分のお腹を痛めて私を産んだ「母」も、子供を待ち望んだ「父」も、
私を「愛する」ことはなかったし、私を「見る」ことはなかった。
金銭管理も十分にできず、人間関係も十分に築けず、精神的に未熟で誰かに自分の感情の後始末をしてもらわないと癇癪を起こしてしまうような父。
人の気持ちがわからず、人に、自分の子供にすら関心を持てず、自分の気持ちを言葉にすることも難しい母。
今思えば、しっかりと「発達障害」だろうと考えられる2人の間に産まれた私も、やっぱり「発達障害」で。
チグハグで、めちゃくちゃで、凹凸だらけ、矛盾だらけの家族関係は、成り立つはずがなかった。
全員、自分のことでいっぱいいっぱいだ。
自分のことすら持ちきれない。気持ちも、現実も、追いつかず、自分がわからない。
そんな箱(家)の中では、「親」が機能するわけがなく、「子供」も機能しない。
目を向けてもらった、目をかけてもらった、寄り添ってもらった、心から励ましてもらった、応援してもらった、気持ちをわかってもらった、心を解いてもらった、信じてもらった。
そんな記憶は、実感は、ほとんど、ない。
目をかけて欲しくて、仕方なかった。
頑張ってると、わかって欲しかった。
隣で寄り添って欲しかった。
自分では抱えきれない気持ちを、ゆっくり解いて欲しかった。
心から、信じて欲しかった。
「私」を見て欲しかった。
そんな願いは叶わない相手に、そんな能力がない相手に、ずっと求め続けて、ずっと怒っている。
「こんなに頑張っているのに、なぜ、こっちを見てくれないのか。
なぜ、愛してくれないのか。」
ずっと怒って、ずっと悲しんでいる。
そうやって、いつか見てくれるのを待っている。
そんな日は決して来ないことを、
本当の意味で「わかる」必要しか、残されてない。
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