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臨界パワーモデル(13)

 新谷仁美選手のハーフマラソン日本新記録に向けた練習の分析をやりながら、それが遅々として進まなくなったところに東京オリンピック2020が始まりました。ちょっとこちらの分析に寄り道します。またいつもの予備知識から。

 「臨界パワー(critical power)」とは、運動において無限に保てる理論上の最大パワーです。ランニングはパワーと走速度が比例しているので、「臨界速度(critical speed=CS)」に置き換わります。CSより下のペースであれば、理論上は永久に走り続けられます。

 走るスピードがCSを超えると、酸素摂取量、血中乳酸濃度、クレアチンリン酸濃度などが平常値からどんどんはずれ、やがて限界値に達し、身体は疲労困憊に至って速度を保てなくなるとされています。CS以下なら、これらの値は一定値に落ち着き、運動は永久に続けられるのです。ちょうどCSぴったりの時、血中乳酸濃度は「最大乳酸安定状態」(the maximal lactate steady state=MLSS)になるとされています。(ということに今はしておきます。もっと詳しく知りたい方はこちら🔗へ。)

 実際にはCSのペースで永久に走れるわけではなく、30分から1時間で限界がくると言われてます。エリートランナーなら10㎞やハーフマラソンの距離です。限界は20分から30分であるという指摘もあり、個人個人による変動が大きいようです。

 CSの重要な用途の一つは、練習強度の分類です。CS以上は「severe(シビア)」領域、CS以下有酸素性作業閾値(LT)までを「heavy(ヘビー)」領域、LT以下を「moderate(モデレート)」領域とする手法が学術界では定番です。この辺は、運動強度分類学とも言うべき地平線が広がっています。

 CSより速いスピードには、最大酸素摂取量速度(vVO2max、MAS=maximal aerobic speed)、最大無酸素摂取量速度(=最大速度;MANS=maximal anaerobic speed)があり、こちらも練習の設定に使えそうです。論文も活発に出ていますので、体力が続けば近々に紹介します。

 参考までに、こうした速度ぴったりで走ることには、あまり意味がありません。なぜなら体の状態がこの速度を境に上か下かでかなり異なり、トレーニングはそれぞれの状態に体をどのくらいの時間晒すかで計画すべきだからです。境界で運動すると体の状態がどちらに転ぶか分からず、意図した刺激を体に与えられなくなります。

陸上800mの成績はMASとMANSで説明がつくという論文🔗が最近出ました。800mの記録向上には、MASとMANSの向上が近道というところですが、実験台が学生なので、今後はエリートランナーでも調べる必要があると論文内の考察で述べられています。


 さて東京五輪が閉幕しました。私は陸上競技の開催期間に夏休みを取得し、観戦三昧にひたっておりました。3000m障害の三浦竜二選手や1500mの田中希実選手の活躍に狂喜乱舞する一方、5000mを始めとする男子の結果がことごとく残念だったこともあり、分析してみたくなりました。

 臨界パワーモデルは2分から20分継続する持久運動のベスト記録が予測ができるほか、変動するペースの中で余力はあとどのくらい残っているかを概算できます。ただその概算は、時々刻々のスピードが分からないと計算できません。

 しかしスピードは今やGPS時計やスマートフォンを使えば分かるので、自分自身の走りならば分析可能です。でも普通は他人様に関してこうしたデータが得られません。エリート選手に関しては、テレビ映像を見ながらストップウォッチで100mごとのラップを取って速度を計測したりしない限り、実現できませんでした。

 ところが2020東京五輪の陸上トラック競技に関しては、世界陸連(World Athletics)のサイトに掲載されている結果🔗が、100m刻みのスプリットタイムを公表しており、おかげで分析することができました。

 その分析に使う臨界パワーモデルの前提を確認しておきましょう。基本となる原則は、「一定のパワーで運動し続けられる時間は、パワーが大きくなるほど短くなる」というものです。

 ランニングに置き換えると、「一定の速度で走り続けられる時間は、速度が大きくなるほど短くなる」となります。これは、当たり前と言えば当たり前ですよね。裏を返して「より速く走れば、より長く維持できる」人などあり得ません。

 この原則は走る距離に関わらず、100mからウルトラマラソンまで当てはまります。ならば数式化したくなります。その結果、継続時間が2分から20分ならば、これに当てはまりますというのが臨界パワーモデルです。数式は下記の通りです。

 距離 = クリティカルスピード(CS) × 時間 + 予備距離(D’)…(1)

 下記がグラフです。

線形関数

この式は変形すると下記のようになります。

 時間 = D' ÷ (速度 - CS)…(2)

無題

グラフは上の通りです。元々は上記の(2)式がよく登場します。

 ここで「距離」は走り続ける距離、例えば5000mです。「クリティカルスピード」は個人の走力で決まる値、「時間」はその「距離」を走るために必要な時間で、5000mであれば15分などとなります。予備距離が今回の分析に関して重要な概念で、個人の走力で決まる値です。

 まずは松枝博輝選手の分析から開始しようと思いましたが、書いているうちにこの辺で力尽きましたので、次回には具体例を必ずや。

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