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おしゃれなだけじゃない。『マリー・ローランサンとモード』展

東京は今日(4/9)で終わってしまったが、この後は京都に巡回する。せっかくなのでメモを。

ファッション(またはデザイン)とアート本流との関連、相互作用を探ろうとする展覧会が、昨今多い気がする。先に投稿した『機能と装飾のポリフォニー』展や、同じ庭園美術館で昨年行われた『奇想のモード』展は、1920年代を重視しているのもローランサン展と近い。昨年はシャネル展、今年はディオール展が大盛況だ。今秋にはサンローラン展(アナグラム!)も予定されている。一般女性の憧れをくすぐることで一定の集客が見込める、というのも要因としてありそうだ。アートの概念が急速に拡大した時期とファッションに革命が起きた時期が重なっていることに、キュレーション的な関心が寄せられているともいえる。それは、このテーマが現代性をはらんでいるということでもあろう。

ローランサンは、淡いタッチやカラーで今でも女性人気が高いと思われる。実際にこの展覧会も、客の9割は女性だろうか? コマーシャルなレベルで、彼女の作品は世間で「消費」されているといってもいい。

とはいえ、あらためてまとめて実物に接すると、さまざまな発見があった。当時の社交界はこぞってローランサンに自分の肖像画を描いてもらったという。その作品群は、今の目で観ると、けっこう暗い。沈んだトーンだ。全然キラキラしてない。デカダンスとはいわないが、不穏な幻想性がある。これが受けていたというのが、当時のパリ社交界の懐の深さなのだろうか。

マリー・ローランサン《帽子の乙女》

ローランサンは、キャリアの初期にブラックやピカソと知り合い、キュビスムの大きな影響を受けた。そこで新時代の息吹、前衛の在り方を吸収したに違いない。19世紀末にロートレックやミュシャがパリで耕した土壌で、キュビスムの強烈な肥料を得て開花した少々毒々しい花が、ローランサンだったのではないか。慎ましやかなディストーションでアートの「ドレスダウン」化の潮流に関与したという感じ。

マリー・ローランサン《日よけ帽をかぶって立つ女》

その点では、昨年のパナソニック汐留美術館のドンゲン展を想起せざるを得なかった。彼が1900年代初頭に強くコミットしたのはフォーヴィスムだが、同時期にはドイツ表現主義のグループ「ブリュッケ」にも加わっている。色彩と形態のデフォルメによる先鋭的なアプローチがこの頃の彼の特色だ。そして、ローランサンと同じく1920年代のエコール・ド・パリの時代を生きた。伝統的な「ふくよかさ」から脱却した細身の人物造形に、そこはかとない虚無がにじみ、トータルとしては「本気」よりも「洒落っ気」が勝る。このような作風は、両者で一脈通じるところがある。

シャネルとの関係も面白かった。シャネルはローランサンに自身の肖像画を依頼したが、仕上がりが気に入らず、結局受け取らなかったという。その理由は明らかにされていないようだが、いろいろ想像するのは楽しい。どんなテイストになるかは、事前に了解されているはずなのにね。そんなに悪くないと思うのだが。女性的すぎる? 画面に入れられた動物が邪魔?

マリー・ローランサン《マドモアゼル・シャネルの肖像》

この展覧会が、モードとの関連に目を向けているのは、先に述べたとおりだ。出品数はそれほどのボリュームではないが、第一次大戦後のモダンガールの動向、エッセンスが確認できる。モードの始祖としてポワレを扱い、エレガンスの極致としてヴィオネを配置するのは、この種の企画のお約束かも。今回もヴィオネのイブニング・ドレスが素晴らしかったです。

マドレーヌ・ヴィオネ 《イブニング・ドレス》 1938年

彼女が考案したとされるバイアスカットも見たかった!

展示の最後は、ラガーフェルド期のシャネル。2011年のショーの映像がかっこいい。シャープなだけでなく、絶妙にレトロをまぶした、ハイコンテキストなモダンの再構築。ローランサンのカラーリングを取り入れたというが、ラガーフェルドの確かな歴史観にやられる。このグレーを交えた薄ピンクはただのフェミニンではない。個人的には、桜の花を思い出させる。儚さと背中合わせの悦び。花びら一枚は地味でも、咲き乱れる集団となったときの酔狂な生命のうねり。ローランサンは満開の桜を見たことはあったのだろうか。

カール・ラガーフェルド、シャネル《ロング・ドレス》2011年

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