『脳裏を過ぎる』第二章菱川浩二のパラドックス

第二章 菱川浩二のパラドックス
 何かあったって、そりゃああったよ。妻がコンチネンタル・ブレックファーストを作ってくれたんだ。それもブリティッシュ・ティーを添えて、机上に乗せるんだ。ユリ、ありがとう、そう言って、近寄った彼女の頬にキスをした。彼女はこちらこそとキスした後に目を合わせる。新婚だったんだ。僕は別に気取ってる訳じゃない。でも、彼女のために働いているんだと思うんだ。実にね。

 本当にきつい一日で、夜さ
 犬のように働いたよ
 本当にきつい一日で、夜だ
 ぐっすり眠るだけだ
 でも、君の待つ家に帰ると
 君のすることがわかるんだ
 僕はよくなるんだ
               ハード・デイズ・ナイト、ザ・ビートルズ
  
 好きなんだ。愛してるんだ。でも、彼女の顔を見ると、一種のあの忌々しい過去が蘇るんだ。僕は食べるためにあるナイフを訳もなく皿に突き立てた。妻が僕を不思議そうに見る。
「愛してるよ。」
 妻は恥ずかしそうに頷いた。台所を片付けていた。僕は足を組み、自分にできることはないか、携帯でCiNiiの論文を見ていた。「schizophrenia experiment(統合失調症 実験)」と調べる。一番上にこんな論文があった。
「Psychophysics and complete cure for schizophrenia(精神物理学と統合失調症の完治)」
 その論文はダニエル・ジェファーソン・ケリーというアメリカ人の医学者が書いた論文だった。僕はコーヒーを啜りながら、読み始める。僕はふむふむと食事をとり終えるとそのまま二階の書斎へと移った。デスクトップに論文の最初に記されていたメールアドレスをコピーして、アウトルックからメールを送った。

 ケリー博士へ。貴殿の開発されたmidi kellyに興味を持ち、メールを送った次第です。よろしければ、貴殿の研究室にお時間が許されるならば、謁見できないでしょうか。

ケリー博士に興味を持ったのだ。彼の研究は一流で、midi kellyなる装置を作り、統合失調症患者の幻覚を利用して、現在の認識と偽りの幻覚を誇張したのだ。僕は彼なら妻を救えるんじゃないかと思った。そして、僕の過去も、このトラウマも、手に残る屈辱も、そして、凡ての嫌いな記憶も、過去を改ざんして塗り替えられるんじゃないかと、淡い思いが心中落涙するのだ。学生時代、二中の頃。谷村と会ったのはスピーチで全く関係のないロックバンドを熱唱したことだった。ぎこちなくあいつを屋上に呼び出し、殴り合った。そのあと二人でラジオを聞いた。Bump of chickenのトークが流れてきたんだ。あの当時でも、これが青春なんだって思ったんだ。でも、あいつを殴ったのには理由があった。あいつが裏で僕を操っていたからだ。これは言い切れる。些細な見てくれと仕草の違いだった。僕だけymoが好きだった。自己紹介でもみんな、特徴がなく時代に染まった奴が好きだった。僕はバッキングトラックのtong pooとかを聴いていたし、シンセサイザーを牛乳配達のバイトで得た金で買っては独り、再現していた。でも、それも中学進学ともろとも崩れたのだ。谷村が裏で僕を売ってるんじゃないかという噂を大して仲良くもない同級生から聞いたのだ。
 入学2日目から上級生からいじめを受けるようになった。最初は金を盗まれた。次からは殴るは蹴るは酷かった。周りから鼻つまみ者にされたり、廊下を歩いてるときに後ろ指をさされたものだ。裏拍手で僕を迎えて、勝手に殺されたものだ。あいつらはR.I.P.ごっこと言っていた。そいつらへの復讐を考えたのはいじめに耐え続けた後の夏休み明けの9月の一日だった。谷村を殴ったのもその時だった。でも、なんであんなに殴ったかは僕にはわからない。軽い会話からだった。気づけば、僕等は殴り合いの喧嘩をしていた。夕方の校舎の屋上があの時から大嫌いになった。
You`ve got mail
 メールがきた。ケリー博士からだ。

 メールをありがとう。今週の土曜日、13時に時間を空けておく。君が見たいmidi kellyも特別公開しよう。ジョンズ・ホプキンス大学教授、Daniel. Jefferson. Kelly

 場所は彼の研究室だった。僕は手帳に土曜日のところを黒丸でmidi kellyと書き、9時に家を出た。今のところ、特筆すべき点はないだろう。また、過去を思い返せばここに記す。

 ちゃっちゃっちゃっちゃ、と出囃子が鳴る。Helter skelterをかけよう。訳もなくやることがない学生には60年代を教えよう。浅草の公会堂の客席は満席。みな、上方漫才を聞きたがってる。中学2年の僕もいて、学校さぼって電車に揺られ、着いた浅草、舞台の花形。しまい込んだテープレコードはオンになってるか?では、始めよう。どうぞ。
 それは衝撃的なコンビだった。フォークダンスde成子坂の登場だった。僕はげらげら笑いながら占い師のコントを見ていた。

 ニューヨーク市街を歩く。辺りは本当にlinkin parkのミュージックビデオにありそうな光景だ。One step closer 東京にない感動。僕はタイプライターが仕切りに早く打ち込められる音楽を聴いた。スティーブライヒの新作だった。とにかく変わることが大切だ。ラジオでも言われたことだ。自分を変えないと、周りは変わらない。永遠にね。くたばる前、変わらない奴の奴隷になってたまるもんか。そのために僕はアメリカに来たんだ。でも、時折思い返す。あの忌々しい馬鹿面どもを。この世から消し、磁石みたいに僕の記憶に引き合わせるあの畜生どもを。
 恨みはいつまでも覚える。僕は自殺はしなかったが、遺書は書いていた。

 覚えとけ
 あの世で殺す
 カートコベイン

 大学病院でデスクワークだ。憂鬱なのは仕方がない。でも、もう慣れたことだ。それに大概の病院は日本と比べてもあまり大差ない。内科の時に高熱の患者が来れば解熱剤を出し、胃腸が悪ければ胃腸薬を、精神的な面ならば心療内科を勧める。そんな仕事だ。ただ、アメリカの精神医学はかなり発達している。日本とは大違いだ。みな、富裕層は定期的にメンタルヘルスを確かめる。自分の性格、社会性、インテリジェンス、日本人なら軽蔑されるそれをあたかも平静にやってのけ、それを受容する文化があるのだ。ただ、病気への差別の面は日本とは変わらない。患者の話を親身になって聞くのは日本とは違うところだろう。
「リストアップ、お願い。」
 スティーブに被験者への薬剤の処方箋を頼んだ。なんなら、そのあとのことも凡てしてもらおうかという魂胆だ。僕には人工知能が必要だ。自動的に患者に寄り添えるマシーンがあればいいものだ。
「ベルが鳴った。」
 定刻になり、僕は鞄に書類を、愛妻にもうすぐ帰るとメールを打ち、周りにgoodbyeと告げて、ニューヨーク中央病院を去った。愛車に乗るとそのまま家に帰った。いつも通りの日常だ。本当にいつも通りだ。
 来る土曜日、僕はいつもより早く起床し、洗顔と朝食と愛妻へのキスを終えて、家を出た。足早に愛車に、(愛車はいつも以上に元気だ)、僕はハンドルを軽く撫でる。もう愛車も僕も意気投合している。来るべく計画のために、二中の頃に成し得なかった計画のために、僕はエンジンを起動し、ゆっくりと、そして、加速度をつけて前進した。
 研究室には4人の研究生が僕に目配せして出迎えてくれた。奥の一室には見切れてはいるが、大量の論文に埋まったデスクが垣間見えた。あれがケリー博士のデスクか。僕は名刺を研究生にそれぞれ手渡した。四人は一様に医者であることに興味を持った。
「ケリー博士の研究は、私のライフワークである現代医学を照らす新しい試みです。」
 周りは頷いていた。インド系アメリカ人の彼もそうですと言って若々しく、イギリス人の彼女も同じく、そして、そうこうしている間にあの一室からケリー博士が出てきたのだ。僕の自己紹介を聞いてからか、よく来られたと鷹揚に僕の前にある黒板の前の椅子に座る。眼鏡をかけた50代くらいの初老の医学者だった。彼の経歴は物理学者兼医学者と記されてある。そして、midi kellyは彼のアップルコンピュータの隣にケーブルで置かれてある頭部装着型の先進的なマシンがある。研究生の一人が僕にmidi kellyの使用効果についての論文をみせる。マーカーで引かれた部分を研究生が指さしながら、ケリー博士はゆっくりと落ち着いた口調で話し始める。
「midi kellyは統合失調症患者の幻覚を人工知能に読み取らせて、100%再現させ、その幻覚に100万テラバイトの情報負荷に耐えられる頭部装着インターフェースに負荷を加え、意識の中にずれを生じさせます。これがdig-holes現象です。一点に情報負荷が起こると穴が空くわけです。そして、穴が空いたそれ(ブラックホールと宇宙物理学では言うでしょう)を利用し、世界線を変えるわけです。その際の酔いを統合失調症の幻覚で中和させるわけです。その際にこの装置の発作としてriot in lagos現象と呼ばれる現象が起きます。それは世界線が交わる際に、ある人物がもう一人生まれるわけです。同じ名前、同じ顔、同じ背丈、同じ匂い、ただ他人のようなクローン、それがriot in lagos現象。私はまだ一度しか運用していませんが、あのインド系アメリカ人のレヴィ曰く、自分の知っている同じ友人が出てきたと話しています。ただ、midi kellyでは過去を改竄でき、尚且つ、自分の思い通りのままにある国を共和制にしたり、在る国を独裁国家から脱却することも思いのままです。ただ、学会ではあまりよくない顔をされてね。」
「使用者に何か後遺症のようなものはありましたか?」
「ああ、それなら…。」と口ごもる。「まあ、自我と超自我、エスの三つが人間の精神原理の核となり、それは我々自我の発達した人間が見たり、触れたりすると、かなりきつくなるものです。幼少期を思い出す…、なんともきつく、ぼんやりとした淡い情景。我々は過去と言うしがらみの中で病に罹患しているのです。」
「過去を思い返す。それが精神病理だと。」
「そうです。今日、ちょうど、ジャクソン君に試そうかと思っていましたが、見て行かれますか?」
 僕は腕時計を見る。「そうですね。15分ほど。」
「わかりました。彼は生き別れた兄をこの目で一度でいいから見たいと言うものですから。では、諸君、ジャクソン君にmidi kellyを装着させて、実験を始めましょう。」
 実験は粛々とジャクソンの周りに装置をあてがい、始められた。ケリー博士がコンピュータのスイッチを起動すると実験が始まるのだ。ジャクソンは目には電子グラスを、頭にはインターフェースのコンピュータを着けられている。そして、実験が始まって10分が経ったころだろう。彼は突然泣き出した。
「彼は兄に会えたんだろうね。」とケリー博士。周りはメモ書きやら、携帯に何やらコードを打っていた。僕は手帳に三行メモした。
Jackson wants to meet his biological brother who is dead
(ジャクソンは亡くなった生物学上の兄に会いたがってる。)
And he can meet via midi Kelly
(midi kellyを使って会うことができた。)
Mental is steady
(精神は安定。)

 僕ははっきりと愛妻に言ってみることにした。彼女はパスタを作っているところだった。僕は彼女の料理が邪魔にならないように、でも、自分の今日を起きた好奇の現象をとめどなく誰かに、そう愛妻に話したい気分だったんだ。
「それでさ。大学の博士に会ってきたんだ。」
 最初はそれとなく、midi kellyについて話した。愛妻はそれで、どうしたのと可愛げのある声で言う。
「ああ、被験者のバックグラウンドの話さ。彼には兄がいない。亡くなったらしい。それでmidi kellyを使って会わせたんだ。」
 彼女は火をとめた。僕は様子を窺う。どうしたんだろうか。
「亡くなった人に会えたんだね。それを使うと。」
「ああ。そうだよ。ユリは誰かに会いたいとかあるの?」
 僕は腕時計を侘しく眼鏡拭きで擦りながら、卓上のコーヒーカップを眺めていた。彼女が火をとめた辺りから変に現実味がない。まるで、飼われているようだ。
「谷村正也くん。大学時代の先輩なんだけど。」
 頭の中でa day in the lifeが鳴った。

 バー、「アーク」には人はいない。僕は煙草を吸いながら、オーダーする。
「マスター、ギムレットを。」
 愛想よく彼は注文を承ると仕事を始める。僕は妻のパスタを冷蔵庫に入れたことを気がかりに、彼女の腹の虫という奴を察し始めたのだ。よりにもよってなんで谷村なんだ。僕は煙草を灰皿に擦りつける。すると、タイミングよく、ギムレットが提供される。僕は一口、甘く飲んだ。酒に酔いしれながら、二中での河川敷の事を思い出した。 
僕は死刑囚になるんだ。声高らかに言う。それもでっち上げて、なるんだ。いつもの河川敷には鹿目がいて、あいつは僕から取り上げた煙草を吸っている。希望がありますようにとHOPEを吸っていた。谷村はいなかった。それは敢えてだった。もう直卒業するからだ。僕と谷村は全く違う高校に行くからだ。喜びから僕は饒舌になっていた。気づけば、僕はKOOLを吸っていた。僕はフール、君はクールなんて言っていた。ニコールキッドマンが好きだった煙草さ。鹿目は僕の話を別に自暴自棄になって話したことではないと悟ったらしい。
「じゃあ、どうやって、それを実行するんだ。それに何歳だ?」
「27歳。高校を卒業して、東大に行って、それから…、そうだなぁ、回礼市って名古屋の隣接区にあるんだ。俺の親父がそこで市議会議員をしているんだ。そこで事件を起こしてもいい。勿論、新聞社とマスメディアを買収してね。」
 それも実際に起こしている。2017年の4月6日の新聞にはこう書かれてある。
 山波銀行回礼支店で立てこもり、男を確保、死者3名、平成初の銀行強盗
 文字で打たせて、僕は一人、裁判官とチェスをしていた。裁判所の出廷所にはチェスボードが置かれていて、僕と父の同期の名大卒の裁判官とチェスをした。丁度彼も暇だったらしい。Helter Skelterを聴きながら、僕は遊園地で遊んでいるようにチェスをしていた。
 鹿目は顎を摩る。
「でも、死刑になってどうするつもりなんだ。それに間違って執行されたら。」
「合言葉を決めるんだ。僕が右手を挙げて、全部って言ったら、刑務官がフェイクって言うんだ。それに死刑制度をなくすいい機会だと思わないかい。」
「それなら死刑囚に取材するルポライターの方がいいと思うがね。」と鹿目。
 そこではない。僕は24歳、医学部を卒業して、あらかじめ終わりを決めておいた、2018年、死刑執行と同時にネタ晴らしをする。実は回礼市の事件は嘘だと、フェイクニュースだと、そして、死刑制度をなくすために、僕は死刑囚になったんだと。でも、一番の目的はそこではなかった。僕のバイオグラフィーだ。谷村と上級生の事を元死刑囚という形で売りたかったんだ。無実が其処に着く。そして、僕はマスメディアの寵児になるんだ。ただ、あまりメディアに出すぎるのも癪だ。
「菱川浩二被告を死刑に処す。」
 裁判官がチェスを終える。僕は頷いて、刑務官に目配せする。傍聴席は誰もいない。僕と裁判官だけの世界だ。そして、凡て僕の台本通りだった。僕が出廷所から去る時、彼がこんなことを言った。
「もう諦めたらどうですか。」
 僕は刑務官に連行され、あの裁判官を一瞥した。台本にない仕草をしたのだ。僕は気に食わなかった。どうしても。護送車に乗り、マスコミに写真を撮られる。僕は神妙な顔で演技した。そして、拘置所に独居した。灰皿と煙草を持ってこさせ、煙草を吸った。拘置所内にはパソコンとテレビ、ラジオを用意させ、逐一マスコミが僕の事件をどう報じるかを監視した。僕は一年間、拘置所と上野のアパートを行ったり来たりした。死刑囚のふりをしている俳優としてアメリカのメディアに宣伝もした。過去の事件を引っ張り出して、これが起きないためには、法制度の在り方を変えなければならない話もした。僕はアメリカに自分のフェイクニュースを売った。こんな気分がいいものはない。僕は自分が億万長者の気分だった。たくさんの情報を持ち、非現実的な環境を作りだし、愉快犯でも成し得なかった合法的な生活がそこにはあったからだ。僕はそんな生活を半年続けていた。或る日のことだ。ある大学からこんなメールが来た。
「私はニューヨーク中央病院のスティーブと言うものです。貴方の知性に感銘を受け、ここでの専属医として仕事の勧誘としてメールを送った次第です。ここには囚人の治療をします。あなたの刑期(ラフ)が終われば、是非とも来ていただきたいと思っています。敬具。」
思っても見ないメールだった。僕は予定の計画を前倒しにして一週間後に死刑執行にしようと法務大臣にメールを送った。そして、スティーブに返信した。
「メールをありがとう。貴殿のメールへの返信ですが、答えはイエスです。是非とも、医師として働きたいと思っています。精神医学は私の大学時代の専攻でした。スティーブ先生ともお会いできることを楽しみしております。よければ、お会いしませんか。」
 すると、法務大臣からメールが来る。
「すまないが、マスメディアの手配がまだだ。君の言う、セレモニーには程遠いが、それでもいいなら執行する。」
 僕はアグリーと返信した。そして、夜を待った。また、煙草を吸った。それだけだ。
「お前がそうなら、するといい、でも、俺はあんたとなんかの縁で出会った仲だ。何かあったら、味方になるぞ。」
 鹿目はそんなことを言っていた。内心、上級生とかの奴も、僕は誰かに止めてほしかったのかもな。河川敷にまた夕暮れが来る。僕は鹿目に礼を言って別れた。その次の日に上級生に殴り殺された鹿目を見ることをまだ僕は知らなかった。System of a down、凡ての警告を彼は命を惜しんで言ったのかもしれない。拘置所で改悛と寂寥の感に達する。口から煙を吐く。僕はあの日の出来事を忘れることはどうしてもできなかった。惜しみながら、僕は卒業式を済ませ、あの河川敷に行った。谷村なんて連れてくるんじゃなかった。鹿目が口から血を出して倒れているんだ。谷村は慌てた様子で介抱する。僕は茫然とあの段ボールハウスの前で立ち尽くしていた。時間が、タイムラプスが速くなる。谷村が、鹿目の命が、救急隊が、後ろでにやけていた上級生が姿を消し、警察が来て、気づけば、なし崩しの河川敷の跡形もなくなった嘗ての段ボールハウスに胡坐をかいて泣きながら煙草を吸う僕がいた。それが15の僕なのか27の僕なのか、わからなかった。でも、言えることがあった。僕はまた悲しみに出会ったんだ。学校に入ってからの悲しみを覚え、今、また悲しみを覚えた。それが今脳裡を過るんだ。

 死刑執行。処刑台の前で踏板は外されることなく、刑務官三人と法務技官、そして、死刑囚に扮した僕は一礼して刑は終った。
「このあと、どうするんだい。菱川元死刑囚。」
「アメリカに行く。」
 本当にその通りになった。メディアは軽く僕が処刑されたことを伝えた。それが二中で盛り上げっていることに気づいたのは、あとのことだった。僕はニューヨーク中央病院でスティーブと固い握手を交わし、医者として働くことを約束し、社会的地位の高い社交場で今の妻と出会った。彼女の連絡先が書かれたドル紙幣を貰った。名前を名乗ることなく、僕は紳士のままでいた。日本で死刑囚になったことなんて言うもんか。あのショーはなかなか使えない。不謹慎なショーだった。まるで僕自身の人種ショーみたいだ。僕の人生においてのね。
「どうして、谷村なんかに会いたいんだ。」
 僕はユリに真剣に訊ねた。それは本当に、普段は彼女に青筋を立てることのない僕が、そうなったのだ。ユリは俯いた顔で言うんだ。
「もうじき警察が来るわ。そこで話しましょう。」
「どういうことだ。ユリ。」
 彼女はそう言って、僕のパスタをラップして冷蔵庫にしまった。僕はやるせない気持ちで「ちょっと歩いてくる。」と言い残し、アークへ行った。
バーテンダーに僕は訊いてみた。僕はどんな人物に見えるか、僕は如何なる場合でも対処できる紳士であり、完全な人であるか、バーテンダーは顔を正して言う。
「おっしゃったとおりでございます。」
 人の気分を害することのない良いバーテンダーだ。僕は煙草を齧る。遠くに僕と同じ背丈の男がいる。こちらを一瞥しては同じ酒を飲んでいる。なんだろう。僕は彼に合せて、酒を口につける。遠くのカウンターの彼は僕と同じ動きをされたことを気にしてか、煙草を吸い始める。よく見ると同じ銘柄だ。僕は気になって、声をかけた。
「やあ、君はどこから来たんだい。もしかして、同い年かい。」
 男は黒のハットを目深にサングラスをして煙草を吸っていた。隣りの席に座り、グラスを置く。
「あんた、谷村正也を殺しただろう。」
 サングラスをずらし、その目をあらわにする。僕は男に睨まれたのだ。ぎょっとしたが、すぐに改まって僕は言う。
「僕はここの近くの専属医でして、その谷村なんとかさんとやらは知りませんが。」
「知っているはずだ。あなたの奥さんからも証言は取れている。あなたは拳銃で谷村正也さんを殺した。」
「あなたはなんなんだ。いきなり、人に殺人罪を吹っ掛けるなんて。」
「FBIだ。」
 そんなはずはない…、僕が谷村を殺したのか、あれは夢ではなかったのか、どういうことなんだ。
「あんたが今いる世界線はmidi kellyを使って作ったあんたが無実の世界だ。もう認めたらどうだ。」
 店内のBGMはgodiegoのガンダーラが流れていた。もう僕の頭の中では何かが回り始めていた。
「認めろって。どういうことですか。僕は殺してなんかいない。」
「あんたは思考犯だ。人の思考を奪い取って、人を殺し、過去を改竄し、なかったことにする。でも、midi kellyにはちゃんと残ってるんだよ。あんたの盲点だったな。」
「midi kelly、あれは素晴らしい発明だったよ。」
 FBIの前で僕は過去を語った。
 僕がニューヨークに向かった後、つまりは渡米して3か月くらいニューヨーク中央病院で研修医として働いている僕はたまたま実家に来た招待状とやらを写真で妹に送ってもらい見た。それは同窓会の勧めだった。仕方ないが、丁度いい機会だと僕は日曜日に嘗ての二中へ足を運ぶことにした。その日はワシントンのビジネスホテルで寝て、次の日には中央病院で仕事をした。軽い仕事さ。法務省の人間と電話で軽く話した後、僕はメイクマネーして200万稼いだ。それは口止め料だった。政府側も恐ろしいと感じたのだろう。
来る同窓会の日。僕はスーツ姿であいつに会いに行った。ほとんどの大義名分はあいつのことだ。それは谷村だった。あいつがどうなろうが知らないが、今の動向が気になったのだ。別に二中のコミュニティから僕は逸脱して、暫くはお笑い番組の天の声とかで某死刑囚として出てきてはみなを笑わせていたコメディアンの特性も持っていたからだ。僕はお笑い番組とかで得たトーク力で少しは聴衆を惹きつける力とやらも知っていた。あの当時とは違うんだ。
「菱川く…ん、だよね。」
 知らない女性が話しかけた。僕は軽く会釈する。
「ああ、やっぱりそうだ、菱川くんだ。久しぶり。波野だよ!大人びたね。」
 全く覚えていなかった。ただ、僕を知っている同級生がちらほら出てきた。そして、二中の校門前には30人近いクラスメイトがあふれた。みな20代後半を生きた顔になっている。あるものは結婚し、あるものは離婚を経験し、あるものは芸人に、あるものは科学者になっていた。そして、僕は死刑囚を辞めて医者になった。そんなことを話しても、周りはしらばっくれて知らない顔を決め込んでいた。菱川くんは菱川くんだよと、抜けた戯言を抜かしていたのだ。そうこうしているうちにあいつの知らせがやってきた。
「谷村…、くんはどうしてるのかな。」
 波野が言う。
「谷村くんならなんか病期みたいで入院中だって。」
 僕は何かを閃いた。「谷村くんがいる病院は?」
「ああ、そうだね。確か…。」
 僕はその場を足早に立ち去った。
「それで、どうするつもりかね。菱川くん。」
 ケリー博士は僕にmidi kellyを装着させる。僕は手元のスイッチを押す。
「それでは博士。また会いましょう。」
 僕のいる世界線がまた複合した。そして、神永ユリが試験者になった。僕の頭の中で、凡てが理路整然とつくられていく。病院に神永ユリが出入りする。そして、最後、僕が拳銃をもって、あいつの前に行った。あいつは逃げまどい、病院の屋上に逃げた。その間も、僕はケリー博士の忠告を無視した。「私と会ったことまでも改竄すれば、お前は処刑対象になる。」
 そして、僕は引き金を引いた。ケリー博士の忠告を無視し、何食わぬ顔で、妻が作るコンチネンタル・ブレークファストを食べながら、僕はケリー博士にメールを送った。

FBIの男は内ポケットから小銃を取り出す。
「お前は消さなくちゃいけない。米国法でそうなっている。皮肉だが、お前は嘗て死刑囚の道を選んだ。それが今や、本当に執行されるとはな。」
「俺はなんどでも生き返る。midi kellyでね。」
「お前はケリー博士に騙されている。」
 バーで引き金が引かれた。

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