『病的死』

令和3年1月2日 土曜日 記す
 起きてから僕はコーヒーを飲んで、暫く外を歩いたが、見渡す限りしんしんと雪が降っているだけだった。上り坂の先にある線路の近くに花束が手向けられていて、そこで亡くなった青年が好きだった煙草が供えられてあった。僕はその供え物の近くに1枚の手紙が置いてあることに気づいた。
 ポケットから煙草を取り出して、口にくわえ、火をつける。煙と口から出る白い吐息で視界が霞ながら手にした綺麗な便箋を眺める。最初に「覚えていますか?」という書き出しから始まり、その筆跡で女性であることが伺えた。文は続く。
 まだ、明けぬ太陽に吹きすさぶ熊本平野からの長い吹雪が九州一帯を覆い、ビル街の通りを行く都会の人々は凍えコートに袖を通し、背を丸めて歩いているとき、あなたはここで死を選んだ。金属音と頭上を通り抜ける1基の旅客機が遠方へと消え去り、刑務官が箱を拝んで、あなたの亡骸を遺骨の壺にのせ、そのまま線路沿いの墓地に埋めた。遺骨になったあなたを私は狂おしく思い返します。私はあなたの綺麗な横顔を見て、マネキンのように思ったのを今も覚えている。あなたはマネキンだった。そして、私が弔ったのはマネキンであり、あなたは死んでいない。ただ、ここにあなたの偽装した死を弔う。安らかに眠れ。令和3年1月1日 霧立朱音より
 さっき起きたのか。可愛そうだな。お幸せに。あの世で。

 1月4日 月曜日
 気分は悪いがまだ朝が来ない。夜になって、一番嫌いだった自分の顔を見た。僕には陰鬱でとてもいい奴には見えなかった。時折、昔の同級生を思い出す。今もあの時の声がする。それはばかげた声だ。誰かが後ろ指さしながら、早口で誰かをまくしたてる声だ。それは親からの教育だろう。しばらくの空白を経て、僕の記憶に数学者の絵画を描かせる。それは病気だ。もうすでに、僕の眼前には精神病理とも受け取れる悲観が見える。そして、そこで手の施しようのないサナトリウム患者と手を繋ぐ。向精神薬で体が蝕まれ、死ぬ前に言う彼が言う。「棺桶が病院だった。」と。僕はそれをきちがいみたいに笑って、そいつを葬儀社まで案内するだろう。病室のベッドで弱っていた、綺麗な顔のそいつの耳元でささやく。
「パンは食べたかね、ワインは飲んだかね?」
 その晩、僕は院長から報酬をもらうとそいつの墓を見る。よかったな、無縁仏にならなくて。どこぞの強姦魔はあきる野市で生まれて、阿保みたいな犯行文を送り付け、世間をあざけ笑い、終いには拘置所で刑死した。その日に刑務官が特別手当でもらった金は強姦魔の供養に使われた。今もその出来事は頭の中に飼われていて、刑務官を「病的死」に追いやる。思考が死んでいる刑務官の振舞に可哀そうだが、同情はできなかった。悲しいかな、彼は人でないものに人間を生み出してしまったのだ。僕は法的にも質的にも死んでいるその存在に喝采を送る。いなくなった彼も、拘置所で死んだ強姦魔も、僕にとっては墓の前では同じだ。それは手を施したのが院長か刑務官だろうが、同じだ。どちらも治らない。絶対に完治しない。生まれてから治らない病気にかかったのだ。それは我々が最後に経験する「死」である。我々の死は儀礼だが、彼らの死は「病的死」である。人間は2種類しかいない。生まれてから死ぬまで病気か、そうではない者か。死を自覚しない者には病的死はない。もっと言えば、そいつには永遠に病気があるのかもわからないのだ。何処からか偏西風で乗せられてきたウイルスが体内に入り、脳を犯し、男女で性交し、生まれてきた赤子を患者にしたのなら、どこから病気になったかわからない。それは認知とか概念とか存在とかが病的死を作るのか?ふと、鏡に映った僕の顔を見る。なんとも醜い猿のようだ。実存クライシスの中、悪魔がやってきて、僕の耳元でささやく。
「お前もいずれ病気になる。」
 僕は瞳孔を見開いて驚嘆した。嫌だ。絶対に嫌だ。誰が病気だ。手が震えてくる。神経の末端から来る毒性の震え。透明瓶に入った錠剤を視界から遠ざけ、ドライフルーツを口にする。甘みがあるトマトの味に舌鼓したとき、過去の人間のあの言葉を思い出した。右手を机に打ち付けるよう悪魔に仕向けられ、初めて自分ではない他者の痛みを知ったのだ。痛みが消えぬままに甲高いスネアの音が遠くで聞こえ、その音が僕に何かを合図しているように思えた。気に食わない8小節の愚行、頭の中に飼育した悪魔が笑う。耳元でまたささやいた。
「お前は病気だ。もうすでに希望や幸福を得る感覚を忘れてしまった。哀れな男だ。そこにあるバタフライナイフで死を選ぶか、昨日見たマネキンのようにレキシに名を刻むか。どちらがいいかな?」
 僕はテレビでクルーズ船の事故を見て、悪魔に指さす。船内の様子が逐一、速報として流れる。船長は脱出し、船内に取り残された乗客は浸水し、沈む船の中、上空を仰ぎ、助けを求めていた。マスコミや新聞社は船長の顔や経歴をフリップに出していた。まだ、延命救助ができていない状況よりも、愚鈍な船長の一挙一動を報道していた。
「あれも病気だ。お前も僕と同じだ。」
「お前は乗客であり、マスコミでもある。どちらにせよ、お前を見る他者はこう思っている。哀れなエンターテインメントだと。」
「でも、僕が死んだら、お前も消える。他の人には感染しない。悪魔は僕の頭にのみ住み着く。他の人が悪魔を飼っても、それはそいつの分際、僕とは関係ないし、永劫分かり合えない話題だ。」
 悪魔は溜息をついて、僕の頭のてっぺんをこつこつと叩く。
「人間は死ぬが思想は残る。お前が死のうが、俺の言葉を残せば、俺はいつまでも文字の中で生きながらえる。お前は死んでも、遺骨しか残らない。悲しいが思考と人間は同じ袂ではないのだよ。」
 僕は怒りに震え、リモコンをテレビの画面に投げ、そのまま何度も部屋にあったスノードームとかラジオとかをテレビに投げて、それを毀したのだ。悪魔は何も言わない。僕にテレビなんて必要ないのだよ。

 1月5日 火曜日
 眠れなかった。今日から僕の堕落が始まる。今のうちだと焼酎を冷蔵庫から取り出し、誰もいない居間にそれを広げ、深夜の晩酌を始めた。悪魔は寝静まった夜を好んでいたが、今日はでてこなかった。さっきまで僕と会話していた割には、僕が死ぬことを決した途端、急にでなくなるのだ。僕は喉元を通る焼酎に酔いしれ、薬を3錠口に入れ、酒で流し込んだ。どんどんと血流がよくなり、顔が紅潮する。僕は次第にハイになった。これはいい。またやろう。2錠、3錠、もういい、10錠。気づけば、薬をすべて飲んでしまった。オーバードーズした体は震え、薬を欲した。それと同時に強いめまいが襲った。椅子に座れなくなるくらいの頭痛と耳鳴り、視界が一気に狭まる。ふらついて、床に崩れ落ちる。僕は天井の電球を見ながら、チカチカとする目をゆっくりと閉じた。
 一日の半分は寝ていただろう。また、夜だった。僕にはどうしても朝が来ることがない。薬は空になった。床に転がる空瓶をつまみ上げて、僕はまじまじと見る。空瓶の中はとても綺麗だった。なんとなく、薬と言うものがもとより汚い事にも気づいてしまった。僕の体は気怠さと重々しさでいっぱいだった。透明こそが本当の芸術だとも思った。
床がベッドだった。
 体が軋むがゆっくりと腰を上げ、本棚を見る。かつて読んでいた文庫本が置いてあった。そこには見知らぬ本もちらほらあった。手にした覚えがないものや大学での本もあった。一冊本を手にする。題名がない。中を開けると体の半分が大樹になっている絵や大きな錠剤から鋭利なナイフが出ている絵など、それはおどろおどろしいものであった。そっと、本棚にしまう。本棚は何か妖力に引きつけられるようにがさっと音を立てると本棚にある本がみな、僕を見ている気がした。ふと、背後に気配がある。振り向くが何もない。僕はベッドに腰を掛ける。夜の11時だった。あと、数時間で朝になる。明日は大学の図書館にでも行ってくるか。そうすれば、何かいいことがあるかもしれない。
「いいことばかりはありゃしない。」
 本棚が言う。僕は声のする本の方を眺める。表紙には人の目がくりぬかれていて、決して万人が読むような本ではなかった。まるで殺人新書のようなギニーピッグとかのスナッフフィルムを本にしたようなグロテスクな本だった。僕は目をこすり、昨夜の悪夢を思い返す。錠剤が製造される工場にいて、僕は実験台の上で横になり、口を開け、細い管が二つ口の中に向けられ、錠剤とコーラを一緒に流し込み、僕はそれを飲み込んでいた。徐々に苦しくなる。そして、咳き込んで管を口から遠ざける。そんな夢だった。
 CDプレイヤーが自動的に動いていた。音楽が聞こえたのだ。強制的に瞼が閉じられる。視界が暗転する。遠い記憶がさざ波のように瞼に浮かんでくる。まるで僕は地平線に打ち上げられたウミガメのようにただ太平洋をさまよい、砂浜に漂流する。今、その発作的に起こった感覚はエフェクターにかけられたギターとフェードアウトしていく
 僕は薄ら笑いしてその場をやり過ごした。昨夜の悪夢も散々な言霊を思い返すのも、凡ては心臓の律動が悪いからだ。こぞって、精神疾患体質の被験者を調べた大学教授も終いには数学者のようにやせ細ってしまったらしく、心臓の脈拍が手の末端まで聞こえるようになってしまうだろう。そして、ひと呼吸にもその脈が聞こえ、生きて居る感覚をまじまじと味わうことになる。血流の音、役に立たない医学の知識、西洋人の古来からの伝承、古典音楽、だんだんと解剖の基幹、人間の体にメスを入れ、未知の世界を開拓しようとする医学者の精神が体に宿る。なぜ人が死に、その人を弔うのか。古代人の眼光はまず、顔を見る。性器を見る。そして、自分と見比べる。気づけば、死体に性愛をおぼえるわけだ。それは幼少期の故人との葬送に由来する。人間の本質の美学は死体に対しての愛だと思っている。それを薄気味悪く思う人間は現代教養に毒されている。死んだ人間は死体と思想に分かれる。僕はその両者を愛している。脳を持ち運びたい。どこか自分と似た部位を飾っておきたい。それを彫刻したい。表現者が基盤の我々人間なら必ず思うことだろう。だが、現代人はそれを抑圧し、右手と左手を器用に使い、儀礼を終える。本来の動物性の部分と拮抗することが起きても、決して鑑みない。絶対に考えない。ただ、自分たちの素晴らしい歴史の一部だと信じ、古代人を軽蔑する。実は古代人は至極素直だったことに気づくのは死ぬ前だと知らずに。
 命が生まれ、死ぬまでに性愛は尽きることはない。いつまでも性愛を封じ込めようとするのは21世紀の悪い癖だ。どんどんと子供は性に目覚め、あの強姦魔のような奴が製造される。まるで精神薬製造所のように。
p.s. 弱ったな。まず、古代人の葬送儀礼に於いて死体に対してのネクロフィリアとかの議題だが自分と同じ部位とか性愛がどうとか、至極残念だな。君はそんなことで思い詰めていたのか。マネキンを人間、人間をマネキンだと思ったやつの末路だ。神経衰弱に侵され、次第に死んでいった末端神経が強張り震え、口に毒薬を盛る。そんな生活はこの手記から見て取れる。

 1月6日 水曜日
 眠りにつく前に考える。僕はどんな日にすればいいのだろうかと。例えば、芸術家の墓に行く前に何か教養をつけるべきだろうかと考えるが、その芸術家は本なり、音楽なり、絵画なりを出している。多岐にわたるのだ。彼を理解するだけで僕は命を終えようとしている。ただ、うろ覚えでもいい。彼の少しを知れば、大体を知った気になる。僕の経験法則だ。そうすれば、墓に近づける。そして、僕は墓前に手合わせし、また、僕の墓前も誰かがそうするだろう。歴史は繰り返すのだ。儀礼は繰り返さなければ文化にならない。かくして通信教育で得た文学の知識をひけらかす時が来たのだ。きたるはかのアリストテレスの万物の学とやらの鼻をへし折るのだ。そして、ギリシア古典主義の鼻を挫き、今や一般にここまで瀰漫する悪しき風習を封じ込めるために僕はアンチヒーローとしてやってきたのだ。寝る前にまた鏡を見る。僕は笑顔を作る。心理学で習った。でも、今も笑えない。現代日本語の中では僕は猿が話しているにすぎないのだから。のっぽの猿が僕を見る。僕は確かに鏡を見ているはずだ。なのになぜか鏡の中の猿が僕を指さす。
「おい、人間。俺様の山をなぜ伐採した。」
 鏡なのか、それとも僕に似た猿が言うのか。口黙った僕に猿は近づいて顔をのぞかせる。
「お前のその腐った精神が嫌いだ。凡てを蔑ろにして自分がさぞ優越、上に立ったような気分に浸っているだけの弱者だ。お前はきっと、地獄では百道を回るだろうさ。なんせ、お前
人間だからな。俺たち動物には地獄とか、死後の世界なんてないんだよ。お前が勝手に作っている最後の希望に過ぎないからな。」
 勢いよく毛布から体を起こす。手をまじまじと見る。夢だったか。あんな気持ち悪い猿がなぜ僕に話しかけるんだ?心の中では僕はまだ得体のしれないものに恐れているというのか。まだおぼつかない足で体を立たせ、姿見を見る。やはり、猿なんていなかった。僕が猿なだけだ。ふと、安心した。とんだ災難だった。しばらく鏡を見てから僕は居間に行き、置かれていた牛丼を食べた。悪魔が仕立てたのだ。ずっしりとした肉厚のある旨い牛肉だった。口にほおばると頬に米粒がつく。僕はそれを指でとって口に入れる。がつがつと米と汁を口に流し込むと腹が満腹をおぼえた。空になった牛丼皿を見て、僕は空虚な気持ちになった。これで一日が終わるのかと感慨深い感情になった。なんというか、うるさい牛も草を食べ、殺されて重苦しいパソコンのフォルダーにデータとして保存され、輸出されて僕の机の前に肉片として置かれ、食われるのだ。牛肉と言う日本食なだけで、やっていることは古の西洋文化と同じである。かつて、日本人は平和的だった。海洋民族に近い縄文人と渡来系弥生人は融和的に「大和民族」になったのだ。そして、「日本人」が生まれた。それは必然だった。ただ、聖徳太子とか藤原業平とかを見ても、決して僕が夢で見た猿のようには見えない。なぜ、僕は猿なのだろうか。幼いころから自分の肌は黄色くて、目には襞があった。それに比べ、西洋人はうらやましい。鼻が高く、彫りが深く、おまけに背が高い。おそらく交配遺伝法則で祖父母世代の民族と親世代の遺伝配列が異なるからだろう。日本人は近親交配しかしない。インセストタブーはどこぞの宗教にもあるが、戒律を破って公に出るのはごく少数だった。僕の手も、足もそして、この腐った節穴の目もいづれはこう呼ばれる。「本棚を見ていた目」だと。僕の文化的儀礼は僕の集めた偏見によって構成される。そして、僕の集めた本は棚を占拠し、気づけば、僕と対話するようになる。

 1月8日 金曜日
 死んだらマネキンになる。そして、霧立が僕に手紙を送る。出会ったあの熊本の交差点で手紙を添えて、僕を送り出す。僕はマネキンで霧立は僕の彼女だった時、霧立の中にある何か病的なものが死んで見えた。バスに乗り、僕は遠方の山へ行った。
 遠くには市街地が見える。この山間墓地の外れの大木の幹に腰掛け、近くの太い枝に縄を括り付け、首を通した。地面に座り、煙草を吸った。首が縄にしまっているせいか思うように吸えなかったが、まだ火がついている煙草を灰皿に押し付け、僕は白紙を地面に置いた。そして、下敷きを敷いて、鉛筆で前に気に入ったポリシーを書いた。

 ルール1 僕は常に正しい
 ルール2 もし、僕が間違っているとしたら、ルール1を読み直しなさい

 書き終えて、しばらくはつぎはぎのニュースで勝手に第三次世界大戦が起きていたことに笑っていたが、フェンス越しに見える嘗て好きだった熊本の街並みを見下ろしながら、ふと我に返った。冥土に行く人間が、最後に深夜ラジオで笑うのか。よく笑えるな。しかもこんな昼下がりに。僕は首の縄をほどいてから持ってきたカバンに縄と録音機を仕舞った。かつての故郷を知らぬ間に電車で過ぎ、神戸の港町に来たのはずいぶん前だ。今はもう博多も横浜も変わらない。海が淀んで見える。出来れば、僕は滋賀に住みたい。琵琶湖を永遠に飲み干したい。そして、BBCを拝みたい。イギリスじゃなくて、びわ湖ブロードキャスティングを。いつものように熊本大学前から浄行寺に行き、三軒町経由のバスで家に帰って行った。帰りの車窓になんとなく映る僕の顔はなぜか猿には見えなかった。次第に降りしきる雨が窓に粒となって滴る。自然と窓に映る目元に雨粒が当たる。僕は目線をそらすと、自分の降りる駅から遠のいていくのが見えた。やってしまった。落胆して適当にベルを鳴らした。そして、財布をかざしてバスを降りようとすると警告音が鳴った。残高不足だった。
「ああ、お客さん。残高不足です。あと、3100円たりないですね。」
「そんなにですか。」
「うん。持ってない?」
「わかりました。」財布を見るが一万円しかなかった。「すみません。万札しかなくて。」
 運転手はかなり苛立って「ええ。お客さんの中で、一万円を崩せる方はいらっしゃいませんか?」
 暫く、音沙汰なかったが、フードをかぶった青年が手を挙げた。僕のところまで来ると、3100円を運転手に渡した。
「ここは借りておく。返すなら時間だ。二度とバスを止めるな。」
 何か僕が言葉を発しようとする前に青年は一瞥して立ち去った。僕は一礼して下車した。通り過ぎるバスの車窓に青年が僕の方に中指を立てているのが見えた。凍えながらも僕は舌打ちして家まで歩いた。まあ、帰りにブルーベリージャムでも買おう。

 1月10日 日曜日
確か、文系の授業の時だった。僕は一番前の隅の席で一番奥の方の席で話している年上の学生の会話を聴きながら、なんとなく講義に出ていた。周りは真面目に勉強しようと来るものや大卒の資格が欲しいだけのもの、そして、落胆した僕とかがいるなんともカオスな空間だった。なんの講義でなんていうものかは忘れたが。大学の同期に誘われていった大濠の花火大会。ひゅーっと上がる花火が夜空に燦燦ときらめき、夏を彩ったその光景を気づけば、一人で立ち尽くしてみていた。笑顔で誘ったそいつも気づけば女の子の方に駆け寄って仲睦まじく花火を座って見ていた。まだ花火があがる中、僕はバス停まで駆け寄って団地行きのバスに飛び乗った。バスの車内はまばらだったが、僕は花火が見える席に座り、ラジオを聴きながら無意味に目をこすりながらバスに揺られた。そんな大学生活も終わろうとしている。グミを噛みながら数式を何とか書いていた。改訂版の教科書が本棚には何冊もあった。そこから幾つか数式と説明とかを持ってきながら、一つ一つタスクをしていた。はあ。終わったと肩を鳴らし、一息休憩することにした。
パソコンに書かれていたメモ帳の行動日記。やけにメランコリーになって自分を消そうとしている。ふと笑いながら修正した。

 ブルーベリージャム、ふたを閉め忘れた
 作りかけた朝食、火傷した右手を冷やす
 食べかけたフレンチトースト、応急処置
 腫れあがる右手、処方された薬、2年前を思い返す
 益城の建物は軒並み崩れ、閉店したコンビニの前に炊き出しをしていた
 遠くからサイレンが聞こえ、文化会館にはキープアウトテープが貼られていた
 それももう終わった。本当に終ったのだ。
             2018年6月18日 月曜日

 確かに終ったらしい。あのときの感覚は思い出すまい。小声にするとまた悪魔の声がする。一息一息にそいつに口調が奪われる。
「今倒れたな。」
 確かに倒れた。何かが音を立てて。遠くの方だった。僕は悪魔を無視してできるだけ聞かないようにした。ラジオのボリュームを上げる。
「ニュース見たか?強風で電波塔が倒れたらしい。」
 僕の部屋にはテレビなどない。ノートの端の方にthe devil says something incorrectと記す。すると、勝手にノートにthe devil DOES NOT say something incorrect and YOU respondされる。ペンを止める。どういうことだ。
「お前は何も気づいていない。」
 ノートを何枚かめくる。まだ手の付けていないページにこんなことが書かれてあった。
Father, into your hands I commands my spirit


 1月11日 月曜日 カミヤイサムくんの追悼 
 ここからはスクラップだ。
―僕の友人が自殺しました。同級生としてカミヤくんの死を追悼します。安らかに眠れ。ああ。何が起こったかまだ分からない方、まだ訃報を知らなかった方へお知らせします。カミヤイサムくんは僕と同じ工学部に在籍していましたが今朝、列車に轢かれて亡くなりました。自殺した理由につきましては遺書がなく、僕の方でもわかりません。彼のノートはもう既にご両親が破棄したらしく、あるのは微分数学の教科書のみです。悲しいですが、遺体はまだないそうで、外国の湖畔で亡くなったと外務省から通達が来ました。今は彼のビザの写真を見るばかりです。―

1月14日 木曜日
 ここもスクラップだ。
 ―「僕は死んだのだ。あっさりと、潔く。死は病だと言うこと忘れずに諸君。カミヤイサムより。敬具。」これはカミヤくんが書いた言葉です。決して、備忘録に記されている悪魔ではありません。これは意思をもって消えたのです。人が消えると日々の移ろいが侘しくなるのはなぜでしょうか。―

 1月18日 月曜日
 悪魔はにやけた。こうして思想だけが残るのだと。カミヤイサムは死んだ。また、マネキンとして弔われたのだ。それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。また、消えたのだ。彼は、本当にこの世界を嫌い、一瞬たりとも目を離さずに凝視した世界を愛したとしても、笑ってここから消え去ったのだ。

 1月22日 金曜日 母なる惑星
 何もなくなると宇宙に等しいんだよ。死んだ人間の見た世界はきっと宇宙なんだよ。ガガーリンが宇宙船から見た景色は死後の世界だったのだよ。そして、今も過行くときはなんら意味はないのだよ。君がそう感じているだけだよ。君が死ねば、時計とか時間とか空間なんて意味がなくなる。君の中で君の世界と君の視界が消え失せ、宇宙になるのだから。母なる惑星は君を手招きする。人間的文化に支配されたこの悪しき世界から脱却せねばならないだろう。そうだろう、カミヤくん。君が死んだことで君の手記とか備忘録が出てきた。煩わしかったんだね。本当にそこは君の正確性が出ているよ。日付も具合の悪い君の心のうちも、薄情な毎日も、凡て記録されてある。

 1月25日 日曜日
ビールが消えたのだ。ぽんと空間から消え去った。本当に見ているそれが物理学的で、興味を抱いたのだ。それが量子力学だとか、素粒子とかの話で理論的に組み込めるのなら、ちゃんと研究してみようか。でも、僕は死んだのだ。僕は今は横浜のホテルにいる。悪魔はついてこなかった。僕の部屋が呪われていたんだろう。死んだふりだ。誰も困らない。まあ、潜伏と言っていいだろう、出奔と言っていいだろう、それでもって、僕は生きながら得た猿と言ってもいいだろう。悪魔の啓示が、本当に恐ろしくて、僕は逃げたのだ。ホテルのことは何も話さない。僕は絶対にこのことについて鮮明に記すことはないだろう。令和3年の元旦から書き始めたこの手記も今じゃ、逃避行の暗夜行路を歩く世捨て人のお話になるとは思わなかった。哀しいかな、僕は殊にこれが正しいんじゃないかなんて思えるんだ。今までの友人の言葉とかはスクラップしているけど、他のページに書いたことをそのまま使っただけだ。今はコーラを飲んでるよ。金がなくなるんだ。また、病院で働こうか。患者を使ってメイクマニー。僕も患者だけど。

 1月28日 木曜日
 横浜港でカラフトシシャモを卸していた。横浜は一番の漁獲量を誇る港だ。潮風とスナック菓子を頬張る僕を雇った会社の社長の子息が僕だけ気に食わないようで、ペットボトルの空とかを投げてくる。スナック菓子で汚れた手で、僕に触ってくる。僕は子息で汚れた服で卸し続けた。周りの港男の屈強な男たちは僕のことは目もくれず、働いていた。もういいぞ、君たち。社長が小包をもってきて、それぞれに手渡す。周りは礼をしたり、喜んだり、それはもう労働者を味わえた。僕にも渡される。給料は3100円だった。バス賃か。あの青年が笑ってる。彼に返すべきか、また熊本へ帰るべきか。苦笑いして、横浜を後にした。サラ金から借金した金で福岡行きのバスに乗り、中で子息が食べていたスナック菓子を口に入れた。案外うまかった。エンドウ豆のスナックだ。

 2月2日 火曜日
 書きかけた小説を書いていた。『ドクトル処刑』って小説。まあ、具合はいいよ。でも、別に僕自身に嘘をつこうとは思わないけどね、具合いだけはいいよ。給料は安いけど、日払いで工場でメイクマニーさ。煙草の金と酒の金。愉快愉快。仕事が終われば、はっぴいえんどを聞いて、煙草を吸い、アパートには戻らずにホテルで誰かと一緒。なんのことは内緒だよ。まあ、察してくれよ。

 2月3日 水曜日
 やってしまった。本当にバカみたいだ。信じた僕が馬鹿だ。あの女は僕に金を、しかも20万が入った給料袋をもっていって去ったんだ。ふざけやがって、どこに行ったんだ、あの女は。隣人が文句を言った。管理人は怒ったんだ。僕に対してね。まあなんていうか、夜が恋しいんだ。また会えないかな、あの子に。煙草が切れてしまう。また、食わないとな、あの寿司屋に行かないとな。でも、給料がないんだ。今は借金を切り崩してる。くわけ、と声を出す。意味はない。本当に意味はない。カミヤくんが死んだ。大学生で死んだ。本当なのかな。どうだろうね。僕の名前はなんでしょう?

 2月11日 木曜日
 がむしゃらに生きるしかないな。たとえそれが馬鹿でも、やるしかないんだ。ただただ今は交通整理して、メイクマニー。起きてる人も寝ている人も、みんな働こう。一億総活躍だろう? 僕は死んだんだ。戸籍なんてない。僕にあるのは何ていうか、それは考えること。それだけだ。僕はマネキンみたく思われる。立っていると映える。それだけの存在。作業仲間がわき役に思える。そんな日だ。まあ、嘘だ。阿婆擦れみたいな顔の奴だよ僕は。

  2月12日 金曜日
 マネキンが宇宙を知って半年がたった。創造主ヤハウェは言った。ここが開闢の地だと、それは理解ができることだった。僕が僕である理由なんて条件が広すぎる。数学で知ったんだ。広範囲の条件は解が出せない。複数の解がある、いわば場合分けだ。モデルは立っているだけで絵画になる、そう芸術的立場で存在する。浮浪者は社会がやり場を無くしている状態で存在する。つまりは社労士が必要ってわけ。でも、実際のところ僕の場合はどうなんだろう。猫が呼んでる、にゅーにゃー物狂おしそうに言っている。カルパスをやろうと思ったがやめた。体に悪いからだ。僕がそれを公園のベンチで食べていると猫とかハトが寄ってくる、まあ、鳩は僕の挙動で逃げてしまった。嗚呼、平和が去っていったんだな。僕の純朴な平和が、純然たる平和が、医療で死んでいった人が僕を手招きする。お前は俺を殺したんだと。でも、考えてみろ、それがお前の詩なんだ。お前はポエトリーで僕はアーネストダウスンなんだ。僕が書く自然主義的な詩は死ではない。お前の記憶は俺が保持する。そして、僕は一人称を僕に還る。それが僕の役割だ。認知している一人称は要らない。認識された一人称も要らない。必要なことは書かれたことだ。経験を賢者が書き、それを読むことで経験が得られる。疑似体験できる。認知心理学と諸原理は僕にそれを教えた。教示したわけだ。いかにキリストが純然たるか、チェスで言う、ポーンチェインのようなものだ。警察が廻っている。事件がまた川崎で起きた。ちょっと行ってくるか。

 2月13日 土曜日
 殺人事件さ。どういうことって。女が密室で殺されたらしい。名前は霧立朱音(きりたちあやね)、23歳の会社員。OLって訳だ。VO関係を警察が調べたがってる。っていうのも、この霧立は僕の元カノなんだ。エックスフレンドってわけだ。まあ、もうじき僕にもリストが上がって警察が来る。もしかしたら、指名手配されるかもしれない。「カミヤイサムが被疑者として」候補にあがったとかなんとか、でも、給料袋を持って行ったのは彼女だ。
 彼女は遺書も残していた。現場も密室だったそうだ。

 霧立朱音の遺書
 私は死にます。彼氏を助けたい。イサムくんだけは元気でね。

僕の聞いた話と違うのは、彼女の勤めていた会社がA社だということ、大手総合商社だ。僕はてっきり電気関係のB社かと思っていた。なんでそんな嘘をついたんだろうか。これは困ったことになりそうだ。取り敢えず、僕は公園にいるよ。いつもの川崎の公園だ。横浜でカラフトシシャモを荷揚げしたところだ。誰とも連絡はとってない。勿論、肉親ともね。どうしようか、夜になった。朝っぱらから港男とつるんでいたから、もう夜になると眠たくなるんだ。それにコワーキングスペースに僕の住所がある。新宿一丁目のオフィス街だ。そこに僕に対してのドキュメントが来る。書類書類書類。それだけだ。他には…、まあ寝る場所はホテルとか、着る服は支給されるし、毎日漁港のおばさんが洗濯してくれるから便利っちゃ便利だ。まあ、ずっと、ジャニスジョプリンを聞いてるよ。今じゃ、paypayで携帯料金を支払ってる。Paypay銀行も作ったし。便利な時代さ。こんな黒の電子機器一個で衣食住を満たせるんだ。まあ、食についてはカルパスと猫用のチュールを買って野良猫に与えている。一日500円もかからない。猫の餌代の方が高い。よく愛猫家はいるもんだ。野良猫を可愛がった方がいいんじゃないか。

 2月15日 月曜日
 大学が除籍になった。学費の未納とのこと。新宿で知った。そして、僕宛に不在連絡が来ていた。警察だった。まあ、聞いてみると霧立の件だ。どうしようかと考えている。20件近く警察から来ていた。僕は殺人犯なのか。

 2月17日 水曜日
 常山利一とかいう変な奴と関わった。まあ、バーで飲んでいるときだ。基本、一人で煙草を吸って、テキーラを待ってるときにあいつは席を寄越した。
「考えごとかな?」
「まあね。警察に追われている。」
 常山はなぜかにやけていた。30代ぐらいの猫背の男だ。
「僕は六浪東大理三首席入学、東京大学医学部卒業、法学部卒業、現在、在野研究をしている研究家だ。よろしく。」と握手を求める。僕は気怠く煙草で空いていた手で握手をするとshaking shandsの名の通り、本当に手を揺らして握手をした。正弦波のようだ。
「今案件がなくて退屈だったんだ。警察に追われてるって言ってたけどなんでだい?ちょうど、太鼓の音の正体が分かったところで旅客機で東京に帰ってきたところさ。」
「太鼓の音?」
「ああ、まあ結局、死体が電磁誘導を起こしたコイルになっていてね、それで電離層が反応して音が聞こえていたんだ。雲が少し動くたびにね。」
「ん?どういうことですか?」
「ああ、悪い悪い。こっちの話さ、それで、そっちの話を聞かせてくれよ。」
「ああ、元カノが殺されたんだ。でも、俺はやってない、本当さ。」
「警察からリストアップされてるはずだが、応答は?」
 僕は口から煙を出す。「いや。」
「ふーん、そうかい。」「疑ってるんですか。」「まあ、被疑者だからね。」
 警察みたいなことを言い出す。こいつも僕と同じ匂いがする。険しい道を行ってきた匂いだ。まあ、六浪だから険しいだろうけど、そうじゃない、もっと人間的な険しさと言うか。
「今流行ってるよね。ディスコソング。最近聞いたんだ。」
 BTSのダイナマイトの話だった。1年前の話だ。
「まあ、そうですね。」
 おっさんから避けるように提供されたテキーラのショットを飲み干す。SiMのGUNSHOTSを思い出す。クラブでみんな2014年、モンキーダンスをしてたんだ。懐かしいものだ。
Take off your dress right now

「欲しいのは金じゃない。君なんだよって、口説いたんですよ。」
「へえ、外国人みたいだね。」
 酒が回ってきた。頭がくらくらする。僕は変に体を左右に揺らして座っている。bgmはきちんと動いている。すると、拳銃を持った暴力団がオーナーを撃つ。二発。即死だった。
「おい、事件だ。」「これは大変だ。オーナーが死んでるぞ。」「警察、警察。」
 誰かが誰かを呼び、暴力団は何処かへ立ち去った。坊主頭のどこかで見覚えのある顔だった。指名手配犯のあいつじゃないか。常山が周りを見渡す。僕は煙草の火を消して、時計を見ていた。冷静にその場をやり抜けた。すると、警察が来る。一人一人に事情聴取をしている。
 そして、僕にも回ってきた。
「お名前お聞かせ願いますか?」
「カミヤイサム、23歳。」
「カミヤイサムさん……、ああ、君、霧立三の件でお電話差し上げてたよね?」
「そうですね。此処で答えますけど、金を持ち逃げされて出会ったのがあれですよ。」
「署まで穂同行願いますか?本件とは別で重要参考人なので。」
「わかりました。」
「いいんだね。」と常山。
「ああ、どうせすぐ釈放される。」
「ふーん。」と携帯でチェスをしていた。
「じゃあ、行きましょうか?」と警察が表口の方へ手を向ける。
「ちょっと待って。」と常山。「ラインやってるかな。今後が気になるし、僕は私立探偵だから、手伝えることがあったら。」
「ああ、いいです、また、機会があったら。」
 僕は席を立ち、常山の肩をぽんと叩くと警察と店を出た。警察署まではまるで容疑者のようだった。まあ、署で訊かれたことは簡単だ。おまえがやったかやってないか、性的関係ではあったが、金を持ち逃げされてそれだけだと言った。2時間後、僕は釈放された。長い事情聴取だった。明日も朝4時から横浜だ。時給はいいけど、きついもんだ。夜23時。変な日だった。

 2月19日 金曜日
 バーで一人飲んでいると物思いにふけることがある。煙草を吸いながら、ずっと、ローリングストーンズを聞いてる。別にラブソングじゃない。今の心情は複雑なんだ。まあ書き留めることはないよ。煙草を吸ってペンを握っているときが一番落ち着く。それだけなんだ。
 神に誓うよ。僕は彼女を裏切っていない。天国にいる霧立朱音にね。僕等は別々の道を行ったんだ。彼女は六道を、僕は現世道を、それぞれがそれぞれの場所に帰ったんだ。
 でも、常山も変な奴だった。なんていうか、がさつに聴く奴だった。僕が最も嫌いな奴だ。突然人のプレイベートに入り込んでくる。ちょっと電話だ。

 それで時間が侘しくバーで過ぎるんだ。警察からだった。結局僕は白さ。やってないものはやってない。アリバイがあるからね。これは崩れない。彼女が死亡する時刻、僕は横浜ふ頭にいたんだ。証言者は荒波に聞け、今日は吹雪く。

 2月20日 土曜日
 警察から新宿に催促状が届いた。話を聞きたいそうだ。僕は断った。これ以上公安と関わりたくないからだ。大学の友人から電話があった。久しぶり、今になにしてるって、僕は度肝を抜かれたね。バーで煙草を吸ってるって。それでも会いたいって、東京まで来るそうだ。待ってほしい、こっちの気持ちがあるんだ。患者を殺した罪悪があって、其れで金を貰った過去があるわけで、僕はマネキンなんだ。それでもそいつは会いたいって言うんだ。新しいものが見たいから東京に来るそうだ。変な奴だ。まるで常山みたいだ。
「ちょっといいかい。」
 隣に男が座る。見覚えのある顔だ。僕は煙草を吹かす。そう言えば、常山だ。傍若無人なあいつだった。
「席はほかにもあるでしょう。」
「まあね。ちょっとカミヤさんにお聞きしたいことがあって。」
「なんですか?聞きたい事って。」
「いや、君のアリバイ、霧立朱音さんが殺された日、朝の5時頃だった、これは間違いない。そして、あなたはそのころは?」
「疑ってるんですか?」
「いえ、ちょっとした好奇心で。」
「横浜港で荷揚げのバイトです。」
「何時から、やはり、朝から?」
「はい朝の5時からです。」
「なるほどね。あなたは霧立さんの合鍵はお持ちで?」
「持ってるわけないでしょ、給料袋を取って逃げられたんですから。」
「その給料袋は確かに現場にありました。」
「本当ですか!」
「まあ、口座に移されていましたが。」
 僕は舌打ちする。常山はビールを一気に飲む。店内にはエミネムがかかっていた。クラシックからやり直して始めようぜ、Go berzerkが流れている。
「でも、考えてみろよ、持ち逃げして逃げた女が殺されたんだぞ。こんな滑稽なことはないね。」
「まあ、そうですね。」と常山は煙草を吸う。「まあ、昔を思い返してね。太鼓の音のことだね。フィアンセになったんだなって思うと。」
「本当にさっきから何の話ですか?」
「続きは悪魔に口づけで。」
「え?」
「どういうことって思った?」と常山。煙草を吸っている。
「はい。どういうことですか、まるで登場人物みたく言って。」
 ふんと鼻で笑うとカクテルを飲み始める。僕は霧立の今が知れてハッピーな気分だ。でも、サッピーでもある。唯一の理解者が彼女だったからだ。横浜での劣悪な労働にもプロレタリアートじみた接待もせずに二人でベッドで夜を明かしてくれた女だ。そりゃあ、ニールヤングうで言う、birdsみたいなもんだろ。

When you see me
Fly away without you
Shadow on the things you know
Feathers fall around you
And show you the way to go
It`s over , it`s over
            Niel Young-Birds
アフター・ザ・ゴールドラッシュの後、アメリカの男たちはジーンズを愛した。愛し始めたのがそのころだろう。僕は笑う。最初から手っ取り早く作業しやすいのがスタイリッシュっていうことなのか。霧立が死んで、僕は記憶の中で彼女のことを思い浮かべる。ゴールドラッシュの沸き立つ感動は僕が彼女に対するものと対蹠的に実存する。
「でも、僕の勘は外れないんだよね。」と常山。僕を疑う。
「じゃあ、アリバイでも見せたらどうです。僕は在りますよ。崩せますか?」
「そこ!」と僕を指さす。バーのカウンターで。「そこなんだよね。」と編集長のような出で立ちで煙草を咥え、唸り煩悩する。あいつは何をそんなに考えているんだ。

 2月22日 月曜日
 荷詰めが終わって、僕は東京を離れることにした。まあ、グッドバイくらいは言おうと、港頭で立っているおっさんに話しかけた。「今日で仕事辞めます。お疲れさまでした。」
 港男は言う。「まあ、若いもんはすぐに新しいもんに行く。」
 そいつの言うには、港頭の出入りと荷揚げの出入りの市場は激しいそうだ。若い者がすぐにオンラインショップを開いては、失敗か成功して場所を移す。それでも、もうコンピュータが近くにあって、手綱を支えていた右手でマウスを触るわけだ。もっとも労働の対価はそのクリックに等しく、手綱を携えた港男の粋な唄はコンピュータの上で売り上げとして表示される。若いもんがコンピュータを取るが、老いた金持ちは女を娶る。初夜権みたいだろと港男が言う。僕は煙草を咥え、海の地平線をぼんやり眺めていた。パーラメントを吸っていたところだ。行先は青森、八戸に行こうかと思う。まあ、港が好きなんだ。生まれ育ったのも九州の鹿児島の指宿だし、海が一望できた。海の人なんだろうな、僕はきっと。
 青森行きのワンウェイチケットをもって、僕は夜行バスに横浜から行く。もう僕のことは気にしないでくれと言う文言の置手紙を大家にもわかるよう扉の前に張り付けた。警察が追っている。早くいかなくちゃ。

 2月26日 土曜日
 八戸でコールセンターのバイトをしていた。港市として栄えたこの場所ももはやデスクワークにテレワークの残骸が見える。IOT化がここまで来ていた。喜ばしい事だが、人類の進歩には人間味が必要だろう。今日で入社して派遣で働いて3日目だ。土曜日はたまたまシフトが入っただけさ。八戸にもいいバーがあって、海を見ながら煙草が吸える、素晴らしい場所がある。海街dairyみたいな景色と掘っ立て小屋といい、情緒ある町だ。僕は気に入っているよ。ただ、野良猫が幾分少ない気がする。僕をフォローしていた人も消え、野良猫のせびる鳴き声も途絶えた。静寂の晩冬に僕は今も横浜に想いを馳せる。でも、もうあの町には戻らないだろう。20年経っても、30年経っても、死ぬまでここにいるつもりだ。今はそれぐらいしかない。

 3月1日 月曜日
 警察から居候していた秋谷さんのおうちに督促状がきた。警察は犬のように嗅覚が鋭い。僕は秋谷さんにはなんでもないでっちあげですよと言いくるめた。秋谷さんは50代のご夫婦でお子さんには恵まれなかったものの、僕を養子のように可愛がって、歓迎してくれた。子供がさぞ慾しかったのだろう。僕は午前に督促状の知らせを秋谷さんの奥さんからお聞きして、すぐに電話で返答した。横浜の悪い手土産ですと言うと、秋谷さんは少し訝ったがすぐに快諾したのか警察に話をつけると仰った。いい人だ。青森の人は。実にそう思う。僕を病的死に追いやったあの困窮し、疲弊し、悲涙した環境、状況も、今や、その死とやらは悪魔との契約で出てきた横浜の手土産に近しいものがあるな。全く、考え物だ。僕はコールセンターの業務を終え、17時に小さな零細企業の会社を出ると秋谷さんのおうちまで原付のバイクで帰った。勿論、原付も秋谷さんのお古だ。

 3月3日 水曜日
 悪魔が現れた。僕に過去を教えると言ってきた。精神科医は「統合失調症。」だと言った。ただ、悪魔は言うんだ。お前は殺人を犯した、それは自分を欺くことよりも悪い事であり、他者との会話を凡てビジネスライクで済ませるものだとも言った。僕は訳が分からなくなった。韓国で旅客船が沈没したニュースを聞いた。それが悪魔のすり替えだと言った。悪いニュースと実際お前の右手にある感触を映像ですり替えたのだと。何万人もの韓国人の命と引き換えに、殺人をお前はお前の記憶から消したのだと、悪魔は言う。形はない。勿論透明だ。思想であり、現実と虚像との狭間にある人間の精神の隙間にそいつはひっそりとたたずんでいる。たまに出てきては悪さをする。ただ、今回は違う。横浜での荷揚げの仕事は悪魔は見ていた。僕が二度の偽装自殺も悪魔は見ていた。悪魔はお前の眼に映る景色凡てをお前は見下しているとも言った。僕は怖くなり、バイトを辞めた。1週間も続かなかった。会社からはまた戻っておいで、いつでもきていいよとも言われたが、アットホームをも利用していると悪魔は僕に命令する。過去に上げた話も凡て、悪魔の目線では僕が血のナイフで女を殺し、荷揚げの仕事とアパートの殺人をすり替えたのだと語った。そんなわけない。僕の記憶にあるのは、病で汚染された目と眼球の運動と痙攣、そして、欺瞞を恨む心だ。
 悪魔よ、僕は改悛したのだ。この感情も慟哭も、それを肯定するわけではない。ただ、漠然と思うのだ。悪魔よ、悪魔を前にしてもまだ、僕の心中には不安が払拭されない。どうすれば、いい関係を築けるか。夏の日に、風鈴の音と浮世絵の美術館を見ながら、上野で過ごした10代が懐かしい。でも、すぐに帰熊した。僕には大学と言うものがあった。辞めたのだが、惜しいとは思わない。僕は完全に死んだと思った時は、自分の考えていることが全くの出鱈目で、無価値になった時だ。そして、それは今、秋谷さんのうちで書かれている。

 3月4日 木曜日
 精神病棟にいる。外泊を待っている。コーラは秋谷さんからのお土産、売店で買ったらしい。めくるめく日差しの射すこの木漏れ日の病室の隣には断末魔や発狂、金切り声が聞こえる。まるでスプラッターだ。精神異常者が多いこの病院で僕は閉じ込められたんだ。インフォームド・コンセントなしに、秋谷さんが無理強いしてやったんだ。僕を罠にはめたんだ。コーラを残して、やはり秋谷さんは去っていった。僕は貯蓄していたみずほ銀行の残高を見る。まだ、脱走してもやり残せるほどの資金がある。もう少し、あと少し、脱走という冒険に出るしかほかはない。

 3月5日 金曜日
 仕事が首になった。東京の新宿のコワーキングスペースの解約も迫られた。警察が精神科医に取り調べの催促をした。追手がくる。追手は近い。まるで、ブラックな奴のアメ車が渋谷の大通りを轟音とともにけたたましく僕を畏怖させるようだ。どうにかして、この場から脱却せねば。腹が減った。飯は三食。きちんと栄養管理されている。管理栄養士が僕の喉元で笑っている。就労とか障碍とかの福祉と言う名の元に瀰漫する工業的ともいえるその味を僕は機械的に味わった。なんともうまい、絶妙で複雑な味わい。空腹だけで日本酒のような複雑系の数学をしているかのような味わいだ。白米といい、サラダといい、鮭といい、凡てが理にかなっている。うまい。これに尽きる。空腹が僕を複雑化された体系に誘う。ありがとうと障碍者のいる食堂で呟いた。周りはモニターをみて忙しい。
Yokohama I miss you baby.
Yokohama is my second bornplace
Yokohama never comes to my home

 そんな詩を書いた。携帯使用が許されていて、ナタリーマーチャントとか、ステイシー・オリコとか、KTタンストールとか、女性シンガーばかり聴いている。懐かしいが先行する。そして、後に残るのはやはり空腹を満腹にした時のような何かを失った虚しさだった。まるでパーティ終わりのシンクの皿の山のようだ。僕はそんな気分に陥る。結局、地元の友達は、まあ、唯一の友人は、僕に会いに東京に行ったそうだ。僕は嘘をついて、東京で死んだふりをした。カミヤイサム、23歳の誕生日おめでとう、そんな言葉を彼は投げかけたかったのだろう、ただ、もう僕は死んだんだ。探さないで慾しい。

 3月6日 土曜日
 着信が鳴る。朝の10時だ。それは昔いた横浜のA社だった。電話口は女性だった。柔和な口調でこんなことを言い出す。
「また、港に帰られませんか。」
 僕は二言三言の文言で断って、精神病棟の誰もいないフロアの窓にIQ 120 OVERとマジックペンで書いて、一人笑った。逃げ去った僕は子供のようだ。落書きをして、教師から鞭を食らう前に言い逃れをする、へらへらした奴になった。
 11時、精神科医とカウンセリングをした。精神科医は僕のポエムを読んだ。

 西へ落ちれば帰りは恐い 帰るときにはひとりで歩く
朝に疲れて昼間に帰る  帰る道には車が通る
一人歩けば道が狭くなる コンクリートに溺れ沈んでく
 ネオンを浴びるマニアが通る 何も馴染めずだれにもなれず
                   帰路

 君は帰る場所を慾しがっていると精神科医は言う。僕はうっすらと滑走路を思い浮かべる。左上に目を動かし、過去を思い出している。朝ご飯を思い出すときも目は左上に向いて思い出す。アイ・アクセシング・キュー。水平に保たれた目で僕は精神科医を見る。もう煙草を吸っていない、シラフになって、椅子に座り、対面で話す。
「故郷はどこですか?」
 故郷か、そんなものない。精神科医は尋ねる。
「では、落ち着く場所は何処ですか?」
 僕は頭に指をポンポンと指さす。
「脳。」
 精神科医はどうやら僕の知能を信じないようだ。僕は自分の知能を確信しているのに彼には不釣り合いの腐ったメロンパンのような脳で僕を診断する。「統合失調症です。」と、はっきりと言う。
「刑事さんからお話を聞きまして、今すぐに、事情を説明すれば、釈放されるはずです。それに、何もしていなければ…。」と机上のカルテを見る。「本当に何もしてないんですよね、ここだけの話でいいので仰って下さい。」
 暫くの静寂があった。外では閑古鳥が芳しく啼き、診断室の窓辺の木々はまだ春の芽吹きは来ていなかった。黄昏の夕暮れまではこの外を見ていた。ここにいる限りは、実存したい。。そう思えた。ゆっくりと僕は実存性を保ち言う。
「空虚なもんさ。」
 精神科医はニコリと笑い、そうですかと打診した。僕は解放されて、その診断室の拘置に対してだが、僕は虚構の主として、自分の病室を城として構えた。机には何もない、フランス語で言うrienが並べられている。ベッドには真っ白なシーツと掛布団が一つ、一階にいる。ただ、脱走できないように窓は角度45度でしか開けられない。Sin45°は2分のルート2。力と長さをかければ剛体になってモーメントが分かる。大学で習ったことだ。
 電話がかかってくる。13時だ。相手はわからない。しばし無言。すると、ドラマか何かテレビからセリフが電話越しから来る。女の力強い迫真のセリフで、「あんたが20万も持っているなんて思わなかったわ!それに私が逃げたのは分かれる意味よ!あんたなんか…。」で途切れて、The tombstoneのit`s been so longのピアノのパートが勢いよく、そして、不気味にかかる。僕は電話を何も言わずに切ると首を鳴らして荷造りをして、窓を破って、病院を出た、確か午後14時のことだったと思う。

 3月8日 月曜日 わかば時代
 ある程度見晴らしのいい場所で煙草を吸っていた。ホームレスになってしまった。医療費は払わない。秋谷さんが僕を捨てたんだ。霧立も捨てたし、僕は捨て猫のように八戸の街並みに黄昏ていた。夕暮れの淡いサンセットが海と交わって、まさに日本海の旅情を想わせるほどの哀愁に満ちていた。満ち足りた気分でわかばを吸う。わかば時代。もうすぐ、3月9日かになる、レミオロメンを聴く日だ。そして、次の日が誕生日だ。23歳の誕生日、僕は何をしようか。今日はこの防波堤で眠ることにするよ。明日は何をしようか、レミオロメンを聴きながら、何かを卒業しよう。煙草は害らしい。海鳥が避けて飛ぶ。僕を迂回していた海鳥は遠くの凪に吹かれて行ってしまった。

 6月2日 水曜日
 ………、警察の取調室で聴取が終わったところだ。あれから、5月までホームレスをして追ってから逃げていたが、警察に5月18日になるところで捕まった。そして、聴取を13日間受けて、裁判にかけられることになった。警察はもう既に僕が殺した証拠を突き付けてきた。これは拘置所の独居房で書かれている。レミオロメンも僕の誕生日も結局、感想は書けず仕舞い、僕はまた、精神病棟になるところ、独居房で暮らすことになった。煙草が恋しい。
 そう言えば、僕は何か悪魔の啓示を受けていたが、あれは何処へ行ったんだろう。僕にとって悪魔は啓示者だった。Indicatorだった。まあ、今思えば、悪魔は消えたんじゃない、元からいなかったんだ。既に髭が生えてきた。髪はそのままだ。長くなって散髪していない。服は清潔だ。刑務官が逐一チェックしている。悪辣になって僕は不如帰の真似をして刑務官を呼んで遊んでいた。アルバートフィッシュが食べた女の子、可愛い、貧しい女の子、グレイス・バッドは僕の初恋の女の子に似ていた。20世紀の話だが、もう既に天国にいる彼女に会えるなら、僕が彼女を救ってあげられたんじゃないか。そんなことを思っている間にホーホケキョ、もう一羽、不如帰が拘置所にいる。確定死刑囚のM氏だ。そいつは大牟田で連続殺人を犯して、二審で上告を破棄して確定している。そいつとは文通仲間だ。いつも会話をするように文通している。そいつは陶芸と美術に詳しい。ふと思うんだ。殺人なんてしなかったら、白川郷のペンションで工房でもやっていたんじゃないかって。でも、そいつは否定するんだ。そんな人生はない。人世にたらればはない。やってしまったのは事実だと、そいつは語る。そして、僕にも殺人のいきさつを詳しく教えてくれた。

 大牟田連続殺人事件
 北園正治と洋子夫妻がM氏に殺された。M氏と北園夫婦は兄弟の関係にあった。両家の両親が80代を迎え、遺産と介護の問題が両家に跨った。介護はM氏率先的にしたが、肉体労働と対価に得られたのは無償の愛だった。父母が亡くなり、遺産の相続の問題になったが、遺書は北園家に全額相続するものだった。これに腹を立てたM氏は北園正治と洋子負債を殺害し、逃亡先の熊本県八代で万引き中に店員を撲殺、警察に現行犯逮捕されて熊本地裁で死刑が求刑された。上告はしたが、福岡高裁も一審を支持、よって、最高裁に上告を棄却し、死刑が確定、至る。

 こんな文言だった。最初の言葉はこうだ、俺はやったよ。

 6月3日 木曜日
 僕の釈放が決まった。やっと娑婆に出れる。霧立事件においては無罪となった。地裁がそう言ったんだ。それでいいに決まっている。統合失調症も理由に上がった。僕は八戸と横浜のどちらに住むか刑務官に拘置所を上がり、医務室で聴かれた。
「横浜でお願いします。サチモスが聞きたいんです。」
 こうして、横浜になった。僕はまとめられた荷物をホテルに移し、暫くはホテルにいることにした。日払いの土木の作業の内定も決まったところだ。また、工夫とつるむ日々が続くことになりそうだ。
 Yokohama I miss you honey
Yokohama I got born in Ibusuki
Yokohama tell me the reason why you make me detain , I`m upset

 今日は中国人の女とカフェで話した。彼女は僕を好いているようだ。住所まで教えてきた。僕はそこに行くとやくざの事務所だった。彼女は僕を無視して事務所に入るが、何も言わずに僕は去ったが、女から連絡があった。
「私たちは文字で話します。私はあなたを愛しています。家まで来ましたか?」
 僕はノーと返事してコンビニで煙草をふかした。わかばを二本、日本人だから二本吸う。そんな感じだ。中国人の女とはFacebookで知り合った。女からコンタクトを取ってきたんだ。僕は事情も話さず、ただ来て慾しい女の精神の恢復を待った。ただ、女は片言の日本語で僕をベッドまで案内しようとする。文言だけで、彼女は金を慾していた。コールして、片言の日本語で、カフェと変わらず、日本語は相変わらずだった。Sunday moning escape、nothing`s carved in stoneの名曲だ。これを聴くと小さいころを思い返す。畑で虫を取って走り回った日々、最初のパンザマストから聞こえる無線音に想いを馳せる。

On Sunday morning
Feel our inner greed
Everyone is the same
We`ve all been to that place
     Sunday morning escape-Nothing`s carved in stone

 ただ、今日は日曜日ではない。ただの木曜日だ。

 6月4日 金曜日
 あいつらがまた追ってる。僕はバーで、またいつものバーで、横浜だが、煙草を吸っていたら、常山に会った。奇遇だなと常山は言う。私立探偵の輩だが、変な奴以外にインプレッションはない。第一印象はweirdだ。それだけだ。関わろうとは思わない。自分の肩書だけ並べて悦に浸ってる奴ほど、醜いものはない。
「霧立朱音さんは殺されてない。」
 僕は常山にビールを飲んで、酔まじりに言う。常山は隣で笑った。
「新聞社は?」
「フェイクニュース。」
 常山は笑う。煙草を吹かす、白髪の30代だ。やせ形で、猫背で、眼鏡をかけている。ふと顔を見れば、気さくな奴な感じの顔だ。僕は顔を正して言う。
「拘留されて、見えたものがある。一本の蜘蛛の糸さ。それに藁をすがる思いで掴んだ。」
「結果、このバーで酒が飲める。」
「まあね。」
「じゃあ、彼女はまだ生きてるんじゃないか。」
「ふーん。」と常山はビールに口をつける。バーではビートルズのshe loves youがかかっていた。
「病的に死んだ。僕は一度ではない、二度も、三度も、病的死を迎えたんだ。笑ってくれよ、この無気力な、阿鼻叫喚の現世で、こんなにも苦しんでいるのに、僕は、僕の思いも、一言で済むんだ、病的だと。」
「それで死んだと。」
「考えを放棄すれば死に等しい。」
「霧立さんは死んだが。」
「思考は生きてる。僕の中で、給料袋を盗むまで、彼女は彼女だった。」
「ビフォーとアフターで彼女は変わったかい?」
「変わったさ。小悪魔か、泥棒猫か、どっちにしろ、僕みたいな病的な輩じゃ診断できないくらい、彼女は魅力的だった。」
 Something in the way、ニルヴァーナの名曲だ。これを聴くと自分は嫌われているんじゃないかと言う気概がする。小悪魔中の女と泥棒猫の彼女、どちらも憎たらしい、貪欲な亡者だ。 
「悪魔に口をつけたか?」
 常山はニヒルに言う。僕はビールを飲み干す。片耳につけていた無線ラジオをソルフェジオ周波数に変える。ヒーリングが聞こえる。耳をすませば、そこは草原だった。僕は何とも言えない感覚に酔い痴れる。酒が廻ってきたのか、頭がくらくらする。
「飲みすぎじゃないか。」と常山。
「いいや、いつもこうさ。」
「それじゃ埒が明かない、僕が負ぶってあげるよ。」
「結構。」
 ぼくは常山の手を払いのけると、さっさとバーを去った。

 6月5日 土曜日
 陽気なレゲエパンクがかかるロックバーに来た。SiMのmurdererが鳴り響いてる。みんなラウンジ席は高みの見物、踊り場で今日も女を探す。みんなモンキーダンスを踊ってる。僕はデータ入力の仕事で明後日から始める。フルタイムでまあ、少し労力は要らない、ファイザー社の新薬の受注の仕事だ。コxナウイルスがアウトブレイクした今の時代、必要なことはしたいと思う。
「あなたはお暇?」女がカウンターの隣に座る。
「ああ、丁度、トリガーハッピーな気分さ。」
「そう、それはよかった。」
「エミネムが新しいアルバムを出したんだ。聴いたかい?」
「いえ、そんなもん知らないわ。」
 データリサーチ社からメール、希望の職種に会いましたとか。
「エミネムのルーズユアセルフぐらいは知ってるでしょ?」
「8マイルでしょ?」
「ああ、なんだ知ってるんだ。」
 ぼくは落魄した。僕らの会話は落魄した踊り子のように踊り場でレゲエを踊っていた。会話は途中からなくなった。彼女は川島ユイ、23歳と同い年だった。
「踊り疲れたから、また戻りましょ。」
 そう言って、踊り場から離れ、カウンターへ戻る。此処が落ち着く。オーナーからテキーラのショットを貰う。ぐいっと飲むとハイになる。そんな感じだ。
「私の友達なんだけど。」
 そう言って顔写真を携帯から僕の方へ向ける。僕は驚愕した。それは霧立朱音だった。
「まさかニュースになるなんて、思わなくてさ。可愛いよね。」
「まあ、元カノさ。彼女はただの。」
「あなたが殺したんでしょ?」
 銃声がなる。ディスコが騒然とする。僕は踊り場を見る。銃を撃ったのはやくざの輩だった。僕は顔を正して、勘定台で札を多く渡すとユイに電話番号を書いた紙を渡し、遠くの公園へ去っていった。バーを出るとき、背後から笑い声が聞こえた。大衆の笑い声、それもラッフィングトラックのように、僕は首を横に振って、夜の東京を徘徊した。咥え煙草に火をともした。待ちゆく通り街は散々で、道行く人は煙草を吸う僕を怪訝がる。
 教会は満ち足りた。教会音楽は建築学に結び付く、僕は建築学の発展と広がる音楽性をディスコで思った。オルガンが発明され、オーケストレーションが確立され、皆が座れる席までもが発明された。「音楽を聴衆する」とという文化は建築学なしでは語りえない。ディスコで踊ることも言ってしまえば民族的だ。上野の閑散とした夜の公園で煙草を吸った。この場所も、この地区も、この文化も誰かが作ったんだ。誰が作ったんだろう。神なのか?じゃあ、神は病的だったんだろう、僕は創られたんだ。誰かの友達が殺された。他の人にはそう映るだろう。僕等の関係もそうなんだ。

 6月7日 月曜日
 風呂上がりののぼせた躰で朝靄の街を徘徊した。こんな心地のいいことはない。仰々しい朝の風が頬を伝う。咥え煙草で朝の東京をうろつく、煙草の煙に、東京の烏が集まってくる。ドヴォルザーク、バーンスタイン指揮、チェロ協奏曲、ブロッホのヘブライ狂詩曲「シェロモ」を聴いた。ドヴォルザークはなんていうか、音の粒か激しく、雷雨のごとく爾来芳しい。これほどまでの鋭いパッセージを聴いたことはない。繊細ではなく、激しく轟轟磊落とした振り切りが彼には見える。僕の眼に移るその音楽の情景は美しく、ヴァイロリンレガートが僕を外に連れ出す。朝の風呂上りに見た、靄がかかった微かな月はとても美しく、鮮明に僕の心に焼き付いた。情熱的ともいえるその律動は今もなお、この足しげく通うバーやクラブでも鳴り響いてるクラシックとは違う。
 電話だ。知らない番号からだ。
「もしもし。」
「私です。昨日バーで出会った、川島です。」
「ああ、川島さんか。どうしたんですか、こんな朝早くに。」
 電話越しから彼女の吐息が聞こえる。なにか走ったんだろう。
「ちょっと伝えたいことがありまして、今、お時間良いですか?」
「大丈夫ですよ。」と公園のベンチで煙草を吸う。朝の鳥がかんかん啼いている。公園は僕以外誰もいない。不思議な気分だ。朝から昨日会った女性と話せるなんて。
「それが、朱音の遺書があって。ぶっちゃけた話、自殺じゃないかって。」
「でも、ナイフで刺されたって。」
「ナイフで自分を刺したんじゃないかって。」
「ふーん。」と常山が横から入ってくる。
「なんですか、急に、常山さん、何で僕の場所が。」
「君が前にこの公園で煙草を吸ってるのを見かけたんだ。夜中だけどね。これでも私立探偵さ、どうだい、調子の方は?」
「どうされましたか。」とユイが言う。
「いえ、こちらの話です。すみません、また、電話しますね。」
 電話を切った。
「あなたもあなたで考えものですよ。人をストーキングするなんて。」
「ストーキングじゃないよ。尾行だよ。」
 頭の可笑しい奴だ。でも、常山は謝った。ちょっとした好奇心なんだって。3週間入り浸っては、レコード店で音楽は聴くし、買ったりもする。そんな音楽狂の僕に興味を持ったんだ。そして、おどけてこんなことを言う。ツータッグを組まないかって。霧立の件で僕も懲りたし、そういうことをしてもおかしくない経歴なのは十分承知だ。僕はその文言を受け取ると、首を縦に振った。こうして霧立の件での捜査班が民間ではあるが出来上がった。
「現場はあっちだろ?」
 常山は北西を指さす。確かにその通りだ。ただ、何も聞かずに。
「仕事というのがあって。」
「仕事、まだやってるのか。」
「まだってなんですか。」
「薄情だな。」
 やっぱり、頭がおかしい奴だ。人の都合も考えない、ずうずうしい奴だ。
 それで話は進む。現場まで電車で行くとその駅近くにアパートがある。それも僕と彼女が夜に出会った場所だ。
「君と霧立さんはどういう関係かな?」
「………。」
「そういうことか。」と小指を立てる常山。僕は苦笑いしてやり過ごした。
「まあ、取り敢えず、中には入れそうだね。」
「僕は鍵はない。合鍵は警察に没収されたし。」
「僕が持ってる、ほら。」とカギを人差し指と親指でつまんで僕の方へ見せびらかす。
「じゃあ、入ってみますか。」
「警察も捜査網を違う路線で移したみたい、まあ、大家さんには話はつけてるよ。」
 段取りはいい。何て言ったんですかと聞くが、それは内緒の話のあのねと言われた。やはり、頭がおかしい。二階の203号室が霧立の部屋だった。今は誰もいない。失礼しますと常山はゆっくりと玄関へ、僕はあいつの背中を追って入る。中は段ボールの山だった。
「ふーん、警察も苦労したみたいだね。どこで亡くなったか、そうだなぁ。」と細い廊下を抜けて、居間で考え込む。僕はベッドに視線を移す。あそこでやったんだ。僕らは確かに。常山は辺りを見渡し、段ボールをあさり始める。部屋中に集められたものが段ボールに入っていて、中は片付いていた。遺品整理という奴だ。一頻り、段ボールをあさり、頭を掻き始める常山は滑稽そのものだ。
「犯人はここで刺して、カギを閉めて、出て行った。でも、それじゃあ、辻褄が合わない。」
「あんたがやったんじゃないか?」
 常山はきょとんとする。「僕を疑いだすのかい。」
「合鍵を持っている。警察ともコネがある。証拠隠滅も図れる。事件当時は何してました?
僕は勿論、横浜港で荷揚げの仕事でしたよ。」
「僕は熊本にいた。まあ、ちょっとした仕事というか。」
 そう言って、チケットを見せびらかす。やはり、人差し指と親指で僕の方へ向ける。確かなアリバイだった。
「それもなんで熊本なんですか?」
「それは内緒の話のあのね」
 言語理解は不可能に思える。霧立は居間へ通じる開閉扉によりかかった状態で発見された。第一発見者は妹のレミ、彼女は急いで姉を助けるべく救急した。。妹曰く、ナイフで誰かが刺したと思いましたが、遺書もあるし、会社で悩んでるとか、大崎さんとかいう人と別れて、鬱っぽいとのこと。大崎は偽名で僕の名前だ。一通り霧立の一室を見渡し、写真に収め、外から見える203号室の窓辺を見る。カーテンレースにかかった部屋の一室を見る。
「死角だな。」
 常山は推理を始める。「まず、偽装自殺に見せかけた犯罪でも、ナイフで刺して、遺書を書くのはおかしい、相当きついはず、それにナイフが刺さった状態ではなく、抜かれて現場に落ちていた。犯人の指紋は勿論検出されない。霧立はオフィスワーカーとして働き、実は夜の街で働いていたことを取調室で聴いた。そのことを常山に話すと「被害者加害者関係が広がった。拡大化したと言ってもいい。夜の街の人間に殺されたとなると、足取りはつく。
「そういや、バーにいたとき、暴力団かな、銃声ぶっ放してたよね。」
「そういえばですね、まああれが東京の日常ですから。」
「情緒ないこと言うなぁ。」
 しみじみと言う。僕は機嫌が徐々に悪くなる。
「ツータッグの件、お断りさせていただきます。」
「なんだよ、急に改まって、生死の境をいた仲だろ?」
「事故だろうが、殺人だろうが、僕にはもうこの案件は今の僕には見合っていない。むしろ足手まといだ。」
 そう言って、足早に常山のそばから離れていった。

 6月8日 火曜日
 煙草は悪魔が持ってきたらしい。西洋の麻薬をポルトガル人が南蛮渡来の形で来たのが始まりだと芥川龍之介が『煙草』の中で語っている。芥川くんは一日に200本も吸う、大煙草吸いで、ヘビースモーカーだ。畠を利用して、再生可能にした、「もったいない」という日本人の和風精神を煙草は煙で蝕んだ。焼き畠して、そのあれた荒野に建築物を建て、最小限のプラントを置いた。それが煙草科の植物で南蛮人が日本の領地と交換条約のように明け渡したのだ。煙草がきたおかげで、大正教養主義が生まれ、鼻を伸ばした精神科医と大学教授が鼻を高くして煙草を噛む。コマーシャルは勿論、セブンスター、そんな時代だった。僕は悪魔が何か素晴らしい知恵と交換して肉体を明け渡すと言うのをゲーテの『ファウスト』で知った。悪魔と契約して、全知全能を得た学者は知識の大海という大海原に出向したのだ。僕は聖霊との戯れを知った。そして、嫉妬した。僕は煙草を噛み、西洋文化の荘厳さを恨んだのだ。一瞥して、僕は我に返り、人気の少ない通りのバーでひっそりと煙草を噛んだ。悪魔がにやりと笑った、ふと、視線を感じる。ふと周りを見ても、僕に視線を向けるものなんていなかった。僕はまた、くすりと笑うのであった。
 電話だ。ユイからだ。すぐにコールレスポンスをする。
「もしもし。」
「ああ、川島です。今時間ありますか?」
「うん、いつものバーでね。」
「また煙草?」人懐っこい声で言う。
「まあね。これぐらいしか僕にはすることがない。」
「わかった。9時にはそっちに着くわ。またね。」
 そう言って電話が切られた。ふと振り向くと常山がにやけていた。視線の根源はこいつだった。
「なんですか、今日も尾行ですか?」
「いや、たまたま君がこのバーにいると聞いてね。」
 変な奴だ。
「マスター、いつものを。」と常山。マスターは困惑気味にオペレーターをカクテルシェイカーで振り始めた。
「実はそんなに来ないんだ、ここ。」と常山。だろうな。だから、マスターが怪訝がるわけだ。
「もうすぐ川島さんが来る。僕に話があるそうで。」
「ふーん。」とオレンジジュースを飲み干す。カシスオレンジも注文し始めた。
「霧立さんはナイフで刺され、多量出血で亡くなられている。」と常山。
「またその話ですか。僕にはアリバイが。」
「いや、殺された日時なんですよ。一応、2月13日の土曜日の午前4時。死亡推定時刻含め、そこは偽りはない。ただ、一点、落とし穴がある。」
「落とし穴?」
「君はトリックを使った。」
 常山の元にマスターの作ったオペレーターが来る。常山は美味しそうにちょびちょび飲み始める。僕は続きに冷や汗をかいていた。
「トリックですか?」
「君は午前4時、横浜港にいた。そして、事件現場は武蔵小杉。車で15分、しかも君は免許を持った痕跡がないとなると移動手段は公共交通機関。そして、時期は晩冬の朝靄がかかった頃、目撃者がいないのは君が殺した場所が違う場所だということ。」
「僕がどこで殺したって言うんですか?」
「横浜港。」
 暫く静寂が続いた。「横浜港ですか?僕が荷揚げしているときに殺したとでも?」
「鋭利な刃物で胸を一刺しして霧立さんは亡くなられている。マグロの解体にも使われるフィッシャーナイフだ。とても鋭く、切れ味がいい。」
 僕は机をとんとんと叩き始める。
「そして、横浜港のふ頭で殺し、遺体を操作して霧立さんをアパートに戻した。」
「はい?」
「ん?どうかしたかい?」
「遺体って死んでるんですよ。死後硬直で歩き出すんですか?」
「刺したのは横浜港、治療をアパートで施すとしたら?」
「え?どういうことですか。」
 常山の推察は当たっていた。僕は横浜港とアパートの事件現場を被害者の自発的な行動で促してすり替えた。
「胸の傷を持った状態で彼女はアパートに帰った、いや、帰らされた。何故だと思う?」
「それは犯人のマインドコントロールでしょう。」
「あなたが自分が人質でアパートにいると自らをおとりにして、犯人と被害者の関係をでっち上げた。霧立の携帯の連絡先に非通知が何件もあった。おそらく、警察は借金の取り立てだと思うはずだ。でも、違う。君が音声加工して、横浜港までおびき寄せて、彼氏の給料袋と引き換えに彼氏の命を返すと言って、仕向けた。そして、誰かわからないような服装でフィッシャーナイフで霧立を軽く刺す。すると、どうだろう。出血の状態で犯人から彼氏がアパートに軟禁されているとしたら、きっと、戻るはず。そして、霧立さんは犯人の思惑通りにアパートに戻った。そして、とどめの一撃を食らわせた。被害者が最後に見たのは計画殺人を企てたボーイフレンドのカミヤくんだった。」
 僕は手を小刻みに震えながら、ビールを飲んだ。
「まあ、よくこんなことが思い浮かぶね。君も大した頭脳だ。警察も欺くほどのね。わざと借金させて、非通知の電話を連絡先に入れて置き、横浜港である程度の人脈も持った。ただ、なぜ横浜港で殺したか。それだけが気がかりなんです。そして、気づいたんです。職場だから、タイムカードで打診して、会社にいるように仕向けたんだ。そしたら、時間のずれが生じる。午前4時には会社にいたが、その時には霧立さんは刺されていた。そして、胸を刺された状態で彼女はアパートに向かった。彼氏の安否が気になるからね。そして、最後、合鍵っで先に入っていた犯人は霧立さんをその場で殺し、居間のドアに凭れさせ、カギを閉め、密室の状態を作り上げた。」
 僕は声を震わせて言う。「じゃあ、なんだ、合鍵だったら、僕が一番疑われるはず。合鍵が僕しか持ってないなんてありえないだろ。」
「あなたのすり替えで合鍵までたどり着かなかったんです。自殺に見せかけるために遺書まで書かせ、そして、ジ・エンド。
 霧立朱音の遺書
 私は死にます。彼氏を助けたい。イサムくんだけは元気でね。
 これにもつじつまが合う。どうです。この論法。」
 僕は常山が不敵に笑うのにつられて笑った。「僕は死刑ですかね。」
「まあね。計画殺人で第一級殺人に相当する。刑法199条殺人罪。あんたの負けだ。」
 僕は頷いて、煙草を灰皿に押しつぶした。すると、女性の声が隣でする。川島さんだった。
「カミヤさん…、ですよね。」
 常山は僕の肩をぽんぽんと叩いて勘定台で僕らの精算をクレジットカードで済ませていた。僕は苦笑いしながら、川島さんの話を聞いた。
「実は好きな人がいて、その人が超クールで、かっこよくて。」
「良いですね。誰ですか、会社の方?」
 僕に目線を合わせる。唐突の告白だった。

 6月9日 水曜日
 霧立を殺した理由は一つだ。彼女と別れたかった、すり替えのトリックは明大替え玉受験のニュースを聴いて思いついた。まさか、僕が自首するなんて、誰も思わないよな。マネキンを弔ったのは霧立で、僕は死んだんだ。でも、マネキンの真似をしても、彼女は別れようとはしなかった。

 さようなら。僕の人生。拘置所から処刑台に僕は法務大臣の命令を受け、牢獄から引きずり出されて、絞首台に着く。首縄をかけ、目隠しをされ、お経をお坊さんが唱え始める。この文化住宅のような拘置所で僕は死ぬんだ。
「最後に言い残すことは?」
 刑務官がしっかりとした口調で言う。
「天国で謝ります。」
 死刑執行。スピード執行だった。こうして僕はマネキンになってタイムトラベルして、また、霧立に手紙を貰うのだった。僕の遺書はこうだ

 カミヤイサムの遺書
 僕の死体は熊本の須屋の線路沿いの墓地に埋めてください。

 それだけで十分です。ありがとうございました。この手記も、1月2日のことも全部私が書きました。私の名前は川島ユイ。常山利一の従妹です。これも警視庁に頼まれた仕事なのでやりました。此処に病的死を記す。

             (完結)

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