『脳裏を過ぎる』第一章 谷村昌也のパラドックス

この小説は2020年に作った小説です。暇つぶしに作りました。


第一章 谷村正也のパラドックス

 電話は切られた。なんの電話かは内緒。まあ、ちょっと、クラスの低い人への催促の…、おっとこれ以上は迂闊には言えないな。
「なにかないものか。」
 本当に困窮すると人は等しく貧しい考えに陥る。湧き上がる水源を掘り当てて、乾田に水を運用する石橋を作ったり、思わぬ暗号通貨のトレードで全ユーザーのデータを得たり、国から国庫丸ごと貰ってなおかつ、造幣局で造幣される紙幣に自分の顔が印刷され、それで莫大な資産を得たり…。そんな可能性のないものに賽を振っていた。
「席、いいかね。」
 頷いた。カウンター席にはそいつの胴体が見え、合間の音楽は勿論、ビートルズで。バーテンダーはいつも無口。彼は粋な板橋っ子、そんなアベックが席をテーブルに変えたところだ。
「君は何かね、学者かね。」
 夜は好きだが、酒が嫌いなそいつは僕に一枚の写真を、それは彼にとって花束のような、まあ、病室で一人の女性がにこやかに花束を嬉しそうに受け取っている写真、彼の奥さんだそうで、膵臓癌を患い入院しているそうだ。僕は頷いた。ビートルズのアルバム、ラバーソウルの最後、浮気娘がかかったところだ。

 出来るなら、逃げた方がいいんじゃないか、浮気娘。
 砂に頭を隠すといいさ、浮気娘。
 ほかの男が君に、じゃあ、もう別れよう
 
 悪いがちょっと、話を変えよう。「罪滅ぼし。」としか言わない女性がいたら君は信じるかい?白い病室の隅に置かれたベッドに腰掛ける彼女はその可憐さと相まって病的異質が在った。本当にきれいな女性で、暁闇の戸張に風鈴が鳴り、縁側に佇む江戸女として浮世絵師が描きたくなるほどの美貌だ。ただ、残念だ。記憶にないその彼女は何かを、本当に何かを意味ありげに言いに来た来客だった。真っ白なお召し物に華奢な出で立ちで僕との関係性を言ってくる彼女。何なんだろう。誰なんだ。
「罪滅ぼしって?」
 彼女は鞄から真っ赤な手帳を取り出して、開かれた白地に「谷村さん」と書き込んでいるところだった。
「本当に覚えていないんだね。」
 ペンを止めた。僕のうしなわれた時の中で、何か、歯車のようなものが止まった。そんな何か取り返しのつかないような感覚が脳裡を過った。蝉時雨が芳しく外窓を伝って鼓膜に来る。物理学的現象。瞳孔が見開く。
「思い出した。」
 僕は、僕の名前は谷村だった。頭に衝撃が走った。僕は…、まあ、とりあえず、彼女の話をする前に一回、寝ることにするよ。またあとで!

 2中の同窓会での会話
 エミネムがミュージック・トゥ・ビー・マーダード・バイをリリースしたんだって。
―聞いた聞いた。アルフレッド・ヒッチコックはアメリカではまた流行ってるんかね。
 マスター・オブ・サスペンス
―あいつもサイコが好きだった。
 菱川だっけ。あいつって、川口じゃなかったか?
―まあね。途中から二中にきやがった。なんでかね。
 あいつ、銀行強盗して死刑になったよな。
 
 文化住宅に囲まれ、20世紀を代表するアカシアの誉れというオブジェはこの町の立派な記念碑と言えるだろう。銀行も商社も会議所や公民館も一つの通りにまとまってある。この「回礼市(かいれいし)」は桜錦の名産地であり、旅したあの娘は錦の耀きと謳われたほどだ。今や西の天神、東端の札幌、東海の回礼とも称される。ただ、大体市長は禿か、そうでないか、だった。二分の一。確率はいつも同様に確からしい。市長は菱川圭司と言い、三年前の山波銀行回礼支店立てこもり事件で市長を辞職した、確か、2017年だったら、僕がちょうどサイクリングにはまっていた頃だ。息子は留置所の面会室に現れず、記者の受け答えしか応じなかったのも知っている。僕は物知りだから。でも、それがあの二中の菱川だったことは顔写真を見ても、本名が菱川浩二と知っても、ぴんとは来なかった。あいつは二中の中でも影のない奴だった。とりわけ、昼休みになると先輩に体育館裏でしごかれていたから、周りは煙をまくような態度をしていた。その集団に僕もいた。菱川は帰りの会のスピーチでセックス・ピストルズのアナーキー・イン・ザ・ユーケーを大声で、それも途中、嗚咽しながら歌った。周りは笑っていたし、全然スピーチじゃないしで、大盛り上がりだった。その笑いは菱川の超自我を見下すような笑いだった。あはははとかじゃない、本当にそいつの精神の根源を蔑ろにするような悪魔の笑いだった。同調から生まれたその笑いは渦となり、教室を一気に80年代の漫才の舞台に変えた。ただし、笑わせて、金を払っている奴は一人もいない。笑われて、泣いている本当の芸者が一人、迫真の舞台を教室で作っていたのを憶えている。僕一人、冷静に感心していたが、なぜか、隣の子につられて手で顔を隠して笑ってしまった。

菱川はビートルズのwaitが好きだった。放課後、互いに殴り合った後、屋上で煙草をふかしながら菱川は血の噴き出る口元を拭った。僕は頭のたんこぶをさすった。痛みはまだある。この痛みは3年間の学校制度上の虐待との対抗であり、その権化のような存在、一集団の中の元を叩き潰したいという非奴隷への脱却ともとれる行為で凡て僕に一発のブローとして表現された。

Wait till I come back to your side.

 英国上院議員がパーラメントで小銃を天井に向けて5発打ち込んだ。そんな空想に僕らはにやけてしまう。とくにbackのbの破裂音でバンと打ち始めるんだと早口に菱川は言う。ジョン上院議員のスキャンダルに事態が困窮しているとき、議会が閉廷するほんの一瞬の合間に、リバプールからのフォークロックコース101が助けとなる。コミュニティカレッジの最初の授業。英語の入門として外国人は洗礼を食らう。僕は菱川を心中好いていたのかもしれないな。菱川の空想は共有され、もうそんな起こるわけないことが、それは自分にノーベル文学賞が与えられるくらいの非現実的な空想のような話をしていた。気づけば、二人の脳裡を過ったのはただの異常な学齢制度で作られた前倣えの体操をしているようなあの集団行動の中での心理状態。それが二人に殴り合いを仕向けたのか、それは後で話そう。

 それでヘレン。これからのエコノミクスがどうとか言っていたけど、それについて聞かせてくれるかい?クラブハウスでの会話。ヘレンはノイズ交じりに混線するルームで言う。パブリックルームだ。
「今、xxxウイルスのアメリカ合衆国全土での感染は意図的に作られたデータであり、エシュロンが操作し、収集して行っている、私たちを一定の集団行動に陥れようとする策略で、何か最悪なマスタープランだと思うの。だって、xxxウイルスって、風邪でしょ?」
「待って待って。ヘレン、勘違いしてるよ。中世のヨーロッパではペストが流行っただろ?それと一緒で自然発生的に…。」
「信じないわ。絶対に人為的に起こった政略的な現象よ。誰かが裏で得しているの。」
 風が吹けば桶屋が儲かる。ヘレンは永久にクラブハウスを使えなくなった。たまたま僕はそれを病室で聴いていた。ああ、そうそう。罪滅ぼしの女の子が去ったあとだよ。僕に名前をくれた子。可愛い女の子。浮気娘。
 でも、本当、信じるものは自分の書斎だと思っているし、今までの自分の行動を人工知能がビッグデータとして集めて、可視化してレジュメとかで表しても、僕のことには
 SyntaxError
 とかしかでないだろ?辻褄が合わない、一本道をくねくねと、道草を食って歩いた肥満した脳を持つ僕だからそうなるんだろ。純粋なコンピュータじゃ僕を文字とか記号では表現できないな。ゆえに僕は人間であり、人間として補完する。Quod Erat Demonstrandum.
 はは。笑っちゃったよ。僕は滑稽だ。ちょっと今、離人感覚があった。ああ、いま。まるで自分じゃないような笑い。僕の笑いが他人の使いまわしの笑いのような感じ。何だろう。そうだ。あの女の子の話の続きをしないと。ちょっと眠れないんだ。レッドブルを飲みながら、ちょっとばかし耳を貸してほしい。お願い。夜は長いんだし、グレングールドのピアノでも聴きながらさ。でも、不思議だよね。グールドはなんで、あんなに音楽を、クラシック音楽というイエスキリストの誕生から始まる高貴で、神聖な物語を、唸り声とざっくばらんなパッセージで破壊して、創造したよね。凄いな。
 でも、グールドはロマン派音楽は嫌いだったって。僕の母が言ってた。母は音大を出てるんだ。オペラ専攻でフィガロの結婚かな?まだ、旧姓の名前―北田尚子―でyoutubeに残ってるよ。90年代に舞台に立ったんだ。
 僕は89年生まれ。ベルリンの壁崩壊と、平成元年、僕の父方が社会主義者を辞めた年に産まれたんだ。名前は正也。なんでこんなに語れるかって?そりゃあ、歯車さ。歯車が脳内に埋め込まれてて、それが遡及して左回りに歯車が動き出したんだ。気持ちが悪いくらい自分の過去が断片的に入ってきたんだ。
 一寸待って。電話がきた。悪いな。ほら、メモ書きに書いといたよ。

※谷村正也のメモ書き
 平成元年6月9日、板橋区前野町生まれ。板橋区立第二中学校卒業。
 二中時代、菱川と知り合う。
 鉱石ラジオを作る。最初に聞いたのは、Bump of chickenのトーク。天体観測が途中で流れてきたのはいい思い出。
 大学は工学部。神奈川の大学に行った。主に解析工学を専攻したが、重工業の会社に入ってからイギリスの大学院で工学博士を取った。歳は28歳だったっけ。

 神永ユリという名前を教えてもらったのはそのすぐのことだ。腰掛けたその清楚な女性はゆっくりと落ち着いた口調で名を名乗った。僕は軽くわかったふりをするかのような会釈をして作り笑いをした。僕の癖だ。ただ、自分がどういう人物かは自分自身がよく知っている。人前でいい人に見せようとする話し上手なセールスマンのような人間だ。彼女は20代後半くらいの女性だった。同じ大学だったらしいが覚えていない。第一、僕が入院した理由はQ熱に罹患したことで、もう二週間も絶食している。空腹を水と歯磨きで紛らわせて、鏡の前では現代音楽家のような実験的なことをしていた。自分の顔を見たら、食慾が失せるんじゃないかとか、鏡の自分に意志を移すとか、暇だから、いろいろやった。
「昔、レポートにツァイガルニク効果について過去の自身の体験を例として説明しなさいっていうのがあって、私のことを少し書いてたよね。神永さんと話す予定を決めたことは覚えているが、話したことは覚えていないってね。今もそうなの?ほんの数年前よ。」
「じゃあ、ツァイガルニク効果だよ。関係者以外は来ちゃダメなんだよ。」
 神永さんは太ももに肘をつき、腰を曲げて僕の方に体を向ける。カラヤンのような顔つきだ。静寂の間にコンダクトを振るみたいな。振ると面食らう、違うな。でも何か、タイムラプスで言う、ちょっとした揺らぎのようなものがあった。え?何のことだって?僕が入院する前に親戚がアメリカで拳銃自殺したこと、近所のおばさんが江戸川でゴミ箱に火を点けた事、そして、僕の職場の一階にある定食屋で食中毒が出たこと、最近不幸が多い。でも、それも僕の不幸から来る日常だった。この白に囲まれた病室に来るまでは。此処は本当にタイムトラベルしてるみたいに時間が分からない。実質そんな感覚に意識と正常な思考を取り戻した入院三日目に思ったことだ。そして、今神永さんが僕の名前を呼ぶ。何の因果応報かは知らないが、少し思い出した。確か、アメリカに行ったニュースキャスターだった気がする。
「菱川くんって、覚えてる?」
 唐突だった。あいつか。菱川の唯一の理解者は僕だった。
「あいつなら、もうじき死刑台、僕はパラマウントベッドの上、でも、あいつがあんなことを起こすなんて思わなかった。」
 神永さんは何も言わない。姿勢も変えず、じっと、僕の肩辺りに視線を持って来る。彼女とは目線が合わない。
「あいつが英語の時間にドイツ語の辞書読んでてさ、先生がアポロンの辞書にそいつの目線の方に写る単語を指さして、発音させて、みんなはアップルって言ってたのに、あいつだけアプフェルって言って、僕だけ笑ったよ。勿論、ドイツ語の本も一式取り上げられたけどね。」
「お墓参りに行ったの。谷村豊一さんのお墓に、アバディーンにあったわ。」
 僕は目線を落とした。自分の弱りはてた手を讃えた。
「あいつもそうだし、おじさんも、死後の世界に行くんだって思うと、どちらも死に方は違うけど、最後の道は同じなんだって思うんだ。僕らは天国、彼らは黄泉の国。」
「そんなに菱川くんと仲良かったのね。」
 わかったような口ぶりだった。
「帰ってくれ。また、大学の同窓会で会おうよ。今はもう、おじさんのこともそうだし、菱川の話もよしてくれよ。僕もなんでこんなバカみたいな病気になったかわからないし、ラッフィングトラックのある曲を聴くと、嘲笑されてる気分に陥るんだ。」
 少しの間、神永さんもそうだった。
「わかった。私は帰るよ。また来ます。一日後、二日後、三日後、五日後、八日後、十三日後、二十一日後…。」
「フィボナッチ数列か。工学部だからって、そんな冗談はよして。もうnかっこ、nは0より小さいと定義される日数が経った後でいいよ。」
「じゃあ、来てるわ。」
「今じゃない。」
「違う。今、nは複素数でしょ?じゃあ、谷村くんと会ってる今は虚数部よ。」
「じゃあ、二複素数の虚部に等式が成立するだろ?僕の時間に依存する波動方程式における虚数部と神永さんの時間の定義する複素数をa+biの形でオイラー等式でまとめれば、ぴったり釣り合う。」
 僕は腕時計を見せる。
「今は11時4分44秒。神永さんは?」
 神永さんは携帯の時計をみせる。
「同じ。秒数まではわからないけど。」
「じゃあ、もう神永さんは僕の下へ来れない。じゃあね。」
 彼女は笑いながら、立上ると、僕の方に何とも言えない不敵な笑み浮かべた。うんざりだった。
「菱川くんは初恋の人だった。違う中学だったけど、私にとっては意中の人だった。谷村くんは眼中になかったわ。だって、私が今日此処に来た理由もそうよ。」
 そう言い残して去っていった。本当に帰ってくれ。

 ラバーソウルの頃に戻そう。その若旦那は今年35歳、子供はおらず、今はNHKのラジオを聴くのが日課だとか。向こう側に座るアベックは喋喋喃喃と浅い恋愛談をしている。金髪眼鏡の男が女を口説く。君が死んだら、僕は死ぬんだ。君のためなら僕は死ねる、西洋的恋愛観だ。僕はそんなことはない。カウンターをコツコツと一定のリズムでたたく。
「機嫌が悪いんですか。」と若旦那。
「いえ、耳が過敏で。釈迦に説法と言いましょうか、何を言っても聞かない無礼な奴が同じ空間にいるとすぐ空間に動的律動を刻みたくなるのです。」
「静と動、貴方はその空間を崩されるのがお嫌いだと。」
「ビートルズはその両者を愛していた。だから、何もないのがリアルで、そこから生み出すのが自分の仕草で、それを客観的に気付かせるのが、ペルソナであり、もう一つの自分の顔。例えば、ハード・デイズ・ナイトのアルバムでメンバー四人の顔がコマ送りのフイルムみたく、ジャケットに記されていますが、中央だけ真っ黒な顔が一人。それがポールを隠し、ジョンを殺し、もう一人のビートルズへと招き入れる人格。聴衆は熱狂するわけです。」
 店内のBGMがストロベリー・フィールズ・フォーエバーに変わった。バーテンダーはこちらを一瞥すると、またグラスを磨いてはあのアベックにオペレーターを提供する。
「みんな偽善者です。」
 若旦那は煙草を吹かす。僕はグラスに唇をつけたまま、聞き返す。若旦那はジョンが唄っているのを遮って言う。
「結局、神様は善い行いをする者には罰を与え、悪い行いをする者には褒美を与えるのです。人生は飴と鞭、褒美があれば涎を垂らし、鞭をさけ、現行を顧みる。ただし、その現行が仮に極悪非道な悪行でも…。」
 急に感情を出したのだ。人が怒ると顔色が変わるが、若旦那は一気に目を変え、グラスを睥睨するのだ。特に第一アクセントから語気を強める。東京式アクセントにはない九州方言の特徴だった。人は怒ると山の人の怒り方と海の人の怒り方になるが、彼は明らかに山の人だった。僕は彼と歩幅を合わせるようにジャケットの内ポケットから煙草を出し、封を切る。若旦那は一瞬柔和な顔に戻り、なぜか僕の煙草に興味を持った。僕はその表情と関心に一種の病理性があると思ったのだ。僕は軽く頷きながら、煙草を手に取り、一本口に咥える。
「ピースは煙草でも一番うまい。貴方はわかってらっしゃる。昔はチェリーという煙草があって、官製煙草だったが、民営化されてから、品質が落ちた。俺の親父が言ってたことさ。」
 僕は頷きながら、ジッポの火を手で仰ぎ、火をつける。危ない火の元が僕の口近くに悪魔のようにやってきた。僕はその悪魔と煙の靄の中で契約を交わしたのだ。やがて、僕の肺にまでドリップしたその悪魔に啓示をうけるのだ。幻覚と酔い、足るべき時は足らず、在るべき時は在らずという心持を僕に教えるのだ。
「じゃあ、貴方自身も偽善者だと言うことです。」
 若旦那は落ち着いた口調で言う。此処で言う「貴方」とは僕のことだろう。酒も回ってきて、もう何を言われてもそうかそうかと頷くくらいに仕上がっていた一級品の泥酔男がカウンター席に座っていた。
「僕は確かにそうかもしれないな。でも、自慢じゃないが、何人たりととも、人を欺いたことはないし、自分自身もそう。不釣り合いの服を着ている彼女にもそうだし、似合わない流行を追う彼にもそう、いつも一定の気分のいい言葉を贈る。現代人としてのたしなみですよ。それをなんていうか、偽善ととるなら、僕の身辺の言葉とか仕草が悪かったのか、そのように取られたのか、でも安売りして障碍を誇示して金にするようなチャリティまがいのテレビとは足るに足らない気概ですよ。」
 若旦那は黙りこくった。僕は息を飲んだのだ。何か額に冷たい汗がつうっと落ちる。落剝した会話を僕は酒でふたをした。若旦那は僕が一気に酒を飲む姿を見て、つられたのか、ぎこちなく飲んだ。
「ケリー博士にお世話になったんだ。」
 僕はまた記憶が甦る。神永さんとの病室での話だ。あの名前が何かのカギだったんだ。僕が流暢に思い出した時もそうだし、歯車が脳裡を過ったときも、何か最悪なマスタープランが計画されているときも、僕はとりわけ鏡像の自分を見たのだ。何も感情を与えられていない無知な、プロトタイプ型のコンピュータプログラムを想起させる。若旦那は煙草を噛む。口からは白い煙を吐きながら、僕はグラスをカウンターに置いた。何かわからないことを訊ねる前は手は膝に置く性質がある。
「ケリー博士は貴方の同じ研究者か、ご先生か。」
「ええ。貴方は何を専攻されていますか?私は医学、特に再生医療の方です。」
「僕は解析工学です。ロンドン大学で博士を4年前に取得しまして。」
「なら、時間遡及効果については御存じで?ダニエル・・ジェファーソン・ケリー先生のネイチャー誌に寄稿された研究論文ですが。」
「ああ、時間を止めたというやつですか、存じておりますよ。」
「ビッグケリー、彼の渾名です。」
 にこりと笑う。

 同窓会での会話
 あいつは親が名大卒だって。官僚をしてたんだ。
―じゃあ、エリートだね。でも、こんな公立に来たのが、運の尽き。あの頃からあいつはいかれてたよ。鬱蒼とした森林に女性の悲鳴、金切り声で目を覚める兵士は不時着した飛行船を探す。その兵士が殺人鬼に襲われる女性を助けるんだ。そしたら、菱川がやってきて、言うんだ。「君も同類かい?なら、遊ぼうよ。」
―ははは。面白い。座布団一枚。
 大変だ。このニュース見てくれよ。
―菱川が死刑執行。早いな。

 二中の頃、菱川の口癖は仲間か否かを品定めするその言葉だった。
「君も同類かい?なら、遊ぼうよ。」
 根暗なあいつに友達はいなかったが、信者はいた。あいつが話すドイツ語はヒットラーの演説みたいだったし、英語は必ず、ビートルズの歌詞を途中で歌って引用するくらいだ。何かと版画とコンピュータに詳しく、僕はあいつが話す次世代のコンピュータ像の一つだったノイマン型コンピュータの話に惹かれて、工学部に入ろうと思ったのもその時だ。工学者とか、介護型ロボット研究とか、人工知能とかもまだそんなに知らなかったが、菱川は人を助けるコンピュータができれば、本当の世界大戦は終結したに等しいと言っていた。
「菱川はどこでそんなに情報を仕入れるんだ?」
 屋上で真昼間の日光の射す中、フェンス越しに見える板橋の街を見下ろしながら、僕らは真夏の青春をやくざな会話で謳歌していたのかもしれない。菱川は奇を衒う。
「風の噂。ベイエリアからリバプールまで、このラジオが教えてくれたんだ。」
 苦笑いを珍しくする菱川に僕は隣で肩を親しげに叩く。菱川は照れという本心を隠しながら、僕の手を払いのける。「東京は河川敷が多い。土木作業者とか、労働者階級の人間はこの地区に住み着くんだろうな。河川敷だけでも6つの学問が出入りするんだ。」
 僕は手を止めて、フェンス越しの網目を手につかんで、顔を近づけ、目を凝らして遠くを見る。河川敷と穏やかな川と婦人の歩く姿やジャージ姿で犬を連れて散歩するおじさん。鉄橋を渡る自動車には排気ガスが遠くから霞んで見えた。夏の熱気がコンクリートからうねうねと立ち込め、僕は制服の胸元を仰いだ。
「やり返したいんだ。あの河川敷で。」
 菱川は真面目な声で言う。もうその連中はだれかわかっている。上級生のことだった。僕は頷いた。菱川は近くに置いておいたインスタントラジオからヒップホップをかける。
「今週の金曜、あいつらを呼び出すんだ。この日だけはギャングスタになるんだよ。」
 制服のズボンからホープを出して、それを吸う。
「僕にとっての希望はあの河川敷で血みどろに倒れた馬鹿どもを見ることだよ。そう思わないか、谷村くん。」
 そのアンニュイな顔は何を現したかは知らない。ただ、あいつの魂胆は落魄したこの学校の制度にある暗澹たる怠慢さを厳正に懲らしめるものだった。その菱川を菱川たらしめるものはきっと、机とか椅子とかをゲバルトに変える帰属的道具からの脱却だったのだ。あいつならやってのける、僕は手を取ってただ頷いた。

 点滴に繋がれたチューブから僕の細い二の腕へと塩化ナトリウム溶液が流入する。体内機関の中で脱水からの医学革命が沈着に起こっていたのだ。そして、その僕の赤い血がチューブに逆流した。ナースコールを押した。3分後には看護婦が慰めの言葉と空に近い点滴液を交換したところだ。夕食の時間になり、僕ははっぴいえんどの風をあつめてをリピートしながら歯磨きをした。鏡の前で僕は細野さんみたく鼻歌を歌いながら、暫く空腹を紛らわせた。

 とても綺麗な昧爽どきを 通り抜けてたら
 伽藍とした防波堤越しに 緋色の帆を掲げた都市が
 碇泊しているのが見えたんです
 それで僕も 風をあつめて

 菱川は河川敷に中古のスピーカーとマーシャルの乾電池式のアンプを置き、予行練習していた。僕は石ころを持たされた。マイクチェックワンツーワンツー、メーデーメーデーメーデー、SOSがアンプ越しに潰された声として出てきた。かなり音はでかく、川越しに歩いた長老がこちらを何事かとみていたが、「二中文化研究会」と書かれた大きな旗を掲げ、僕らがここにいる正当性をその実験的な試みで示し、長老はその旗を一顧だにせず去っていった。その様子を嘲る菱川はまるで立場主義に対してのジャンヌダルクのようである。
「聴衆が逃げてるよ。見たまえ、僕らはまた一歩邁進したのだよ。初歩的なことだよ、ワトソン君。」
「フレデリック・ワーサム博士へ、僕は元気です。」
「誰の真似事だ。アルバートフィッシュかの書簡か?」
 僕は石ころを川上へ投げた。とんとんとんと川を滑り、ぽとんと落ちて、同心円状の漣を立てた。僕ら、愚者はそれを見た。青い川の中を落ちていく小石を、そして、消えた先の対岸に見えるのは上級生のあいつらだった。こちらの声に気づいていたが、誰かはわかっていないようだった。僕らはひやひやしながら広い河川敷でも鉄橋の方へ旗とスピーカーとをもって、そそくさと歩いた。あいつらは気づかずに談笑しているようだった。
「三人組だろ。イニシャルがNとHとKで非行青年NHKって呼んでるんだ。俺たちはBBCさ。」
「一人足りない。」
「じゃあ、こいつでいい。」
 鉄橋の下の段ボールで寝ていたホームレスを指さす。僕は首をかしげながら僕らのチーム名を文化闘争BBCとした。コークを少し口に含み、喉を潤した。文化闘争にはコークのような自由のシンボルが必要だ。菱川は浸りながらアンプを屈んで見てはコークを飲んでいた。ホームレスが目を覚ます。身なりは悪く、白髪に虱が沸き、口ひげからつま先までが汚れに満ちていた。男が僕らの旗を見る。
「二中。ああ、あんたらはこの近くの中坊か。生意気に文化研究会とは、何やってんだい?」
 菱川は声を上擦りながら、「ええ、僕たちは今、予行練習をしているのです。これは学齢制度に於かれた僕らができるレジスタンスであり、上級生をゲバ棒で殴ると、これと来たら、隣の谷村が拉麺を手で持って啜りながら食うもんですから、それは僕の母が啜り食うお茶漬けみたく思えるので、今度は谷村を殴りまして、そしたら返り血が拉麺に落ちてこれが本当の中華そば、なんちって。」
「何だ、漫才の練習か。にしても早口だなぁ。」
 僕はまたしても首を傾げた。「すみません。僕らは学生であって、河川敷の研究を少々。」
 男は段ボールを蒲団みたく畳みながら、「じゃあ、俺の方が詳しいさ。なんせ、この河川は舟渡から川堀を抜けて高島平へ抜ける長い一級河川だ。俺は昔、ここで働いてたからわかるのさ。まあ、拉麺は食わないが。」
 男は谷村のズボンのポケットから少しはみ出たホープを見つける。
「おい、中坊の癖に煙草吸ってんのか。俺によこせ、一本でいい、もう家を亡くして散財してから3年は吸ってない高級品なんだ。」
 菱川はズボンのポケットからががそこそと取り出すと、一本のホープと安物のライターを手渡した。男は火を点けるが火のつきが悪い。
「ええい。何だこのライターは、全く火がつかないじゃないか。ああ、ついたついた。悪いな、短気なのは江戸っ子なもんで。」とライターを菱川に返そうとする。
「東京はこんな奴しかいないんだ。谷村くん。」そう言って、男からライターを預かる。まるで、銭湯の店主と常連客の勘定台でのやり取りみたいだ。久しぶりの煙草に満足げな男は慣れた手つきで吹かす。煙は鉄橋を越え、排気ガスと混じって外気に溶けていった。
「俺がまた職を持ったら、あんたに恩返しするよ。名はなんていうんだい?」
「菱川です。菱川師宣と同じ姓の。」
「じゃあ、浮世絵師の名なら、俺は彫り士みたいなもんだろ。で、隣のあんたは、さっき浮世絵師が谷村とか言ってたけど。」
「僕は谷村正也と言います。」初々しく名を名乗った。
「俺は鹿目重三、俺の先祖は元は七輪職人で浅草の今戸で竈屋を営んでたんだ、途中でへっついから火災があって年表とかも焼失して、俺の死んだ親父が言うには、商いの今戸は鹿目が通るって言葉があるくらいだったらしい。鹿目ってな、鹿の目と書いて鹿目って言うんだ。うちの本家は会津若松にあるんだが、親父の代で縁が切れちまったんだ。ひい爺さんがこっちに越したんだ。」
「粋な深川、鯔背な神田、人の悪いは麹町ときた、気風が良く、据え膳拒まず、東男は強きを睨むと。」
「そんな浮世言葉もあるもんだな。人の悪いは荒川区だよ、今じゃ。」
「それは偏見です。」と僕。「住む場所に特徴がありますが…。」
「なんだい、あんたは荒川の回し者か?」
 菱川はげらげら笑っている。僕は差別とかが嫌だった。
「この場所はこんな奴しかいないとか、こんな奴しかいないからこの場所は出来たんだとか、そういった邪険な考えがあるから治安が良くならないのです。先ずは異質だと考える其れと和解して、受け入れて、より多くの情報を仕入れることです。情報が少ないと人は嫌悪の感情を抱きます。」
「あんた、治安がどうとか言ったが、俺はそんなこと一言も言ってないぜ。あんたの早とちりだ。それに知りすぎるとまた、嫌いになる。イコールだよ。」
「にしても物知りな人だ、鹿目さんは。」と菱川。鹿目は煙草をおんぼろ靴で潰している。
「けったいなこった、俺も昔から階級が低かったが、今じゃ、社会の底辺だ。予備校生に教える先生が言うわけさ、見てみな、あの河川敷にいるホームレスにならないように大学に行けって、俺がその代表例だ。みな、一様に俺を見ると勉強するんだよ。そして、社旗的地位を得て、また嘲笑する。弱者は元から這いあがる術なんてないように思える、このばかばかしくて、泥臭い日常にはね。」
 まるで、自分が何か大きなことをするような口ぶりだった。そして、菱川の態度は徐々に居丈高になった。僕に対してもそうだ。恐らく、賢くありたいと願う自身への忠誠心があったんだ。でも、それももろとも崩れる、なんせ僕らがやろうとしていることはまさしく鹿目さんが言う「低い階級の人間」が起こす闘争という美しい言葉で書かれた仕返しなのだから。それと彼の中での何かわからない理想という奴が拮抗している、つまりは完璧でありたいと願うが現状は常に否定し、自分の顧みる行動や感覚さえも凡て凶暴で衝動的なものが埋め尽くし、思い描いた理想を破綻させるのだ。僕は投げた石ころを手にした感覚を思い出したのだ。まだ何も起きぬ頃に手につかんだものは一種の風景と化した。それを待ち人が見たとしても河川敷で遊ぶ学生としか捉えられないだろう。今、この掌にある何か狂気にも似た感覚は菱川の完璧で、最悪な計画のエゴの部分を深く掴むのだ。この感覚は一生忘れまい。人の本当の憎しみが僕の掌にあり、彼の掌握する計画が揺さぶられるたびに仄かに人間味のある温かさがあるからだ。3分間のスピーチで彼が涙したピストルズの歌が脳裡を過るのだ。反抗的な態度があって、それがきちんとした、行儀のよい人々で醸成された文化と拮抗して対立して起こったのが、あの超自我を見下す笑いであり、僕はあの時の無知を旧友と僕等と同じ貉の男の前で恥じたのだ

 病室での意識の介在が明白になったのは救急搬送された3日後だ。なぜわかったって、そりゃ、看護婦が言うもんだから、彼女を信じるしかないだろう。それに僕が病気で倒れたときは見事に人通りのない並木道を独り散歩していた時だった。僕は中央病院に搬送されて、意識が戻るまでは集中治療室にいた。惨いものだが、会社とか、大学の同期の人には病気の連絡は出来なかった。会社は僕が救急車で運ばれたその日にリコール問題で倒産したらしくて、唯一連絡の取れた女性社員の方からその旨を知った。僕は空腹を覚え、鏡の前で思考を凝らしているときには無職になった。こんな僕を大学の同期が知ったらなんというだろうか。今は口が裂けても言えない。親しい間柄らの奴はみな一流商社に勤めているし、政治家の秘書を務めたあと、参議院に当選した奴もいる。そんな花形の彼らに合わせる顔などなかった。こんな弱弱しい腕に痩せこけた頬で貧相な顔の、嘗ては英国で工学博士を取った人間が今じゃ、不正を起こし、倒産した会社の元社員で就職口は病室のベッドで見る転職サイトだなんて、とてもじゃないが、周りには言えない。自信もやる気も何もかも空腹でもぎ取られていく。まるで僕は酸っぱい葡萄ではなかった完熟の実のなる木のように狐狸に食べられる運命に思える。
「谷村さん。」
 顔を上げると看護婦がカルテをもって僕の前にいた。僕は頷いた。 
「大分血液の値がいいですね。今度からは軽い流動食にしようかと思うんですけど、どうですか?」
 喜ばしいことだった。発汗や歯磨きで空腹を紛らわせた僕には飯と言う飯がなかったからだ。手はまさに喜びを噛み締めるオリンピック選手のようにやり切った、出し尽くした感覚があった。すると、看護婦の後ろには人影があった。それは看護婦の背後を奪い取り、今にも地縛霊として登場しそうな出で立ちだ。それが良く見ると神永さんだったことは言うまでもない。看護婦が病室を離れ、隣で騒いでいる認知症患者の元へ小走りした。神永さんは僕のベッドの横にある丸椅子に座り、また、赤の手帳を広げる。
「もう来るなと再三言ったはずだ。」
「あなたには申し訳ないけど、真実を伝えなくちゃいけないの。」
「真実。」僕は嫌な予感しかしなかった。「菱川は死んだのか?」
 なぜか、神永さんはくすりと笑った。意味不明だった。
「あいつが死刑判決を受けたのも、ニュースなんだよ。でも、僕は今も信じられないんだよ。あいつが本当に襲ったのかって。」
 怯え切った口ぶりで言う僕を嘲る。神永さんは耳にした赤のリング状のピアスを外しながら、髪を左右に振る。ピアスを鞄の中に入れる。
「菱川くんは生きてるわ。」
 また、歯車が遡及する感覚に襲われた。僕の知らない間に地球の隅っこで知らない人が知らない人に話しかけているんじゃないか、そんな考えが脳裡を過る。
「菱川くんは確かに絞首刑になったけど、死んではないよ。」
「ニュースじゃ、令和3年最初の死刑らしいじゃないか。」
「そうかもね。でも、私は会ったのよ、菱川くん。」
「拘置所まで行脚してご苦労だ。僕もQ熱が治ったら、面会したいものだ。あいつの墓場にね。」
「いや、だから、私、菱川くんと結婚してるのよ。」
 とうとう神永さんは頭がおかしくなった。獄中結婚ですかと聞いても、首を横に振る。いつ結婚したか、その問いは彼女にとっては単純だった。
「子供がうまれたから。」
 授かり婚というやつだ。菱川とは中学以降会うことはなかったが、まさか一応身近な人物と結婚するとは思わなかった。
「結婚しているのに、銀行強盗か。愚の骨頂だ。」
 神永さんは呆れていた。ただ、その感覚がまるで相手をだましているかのような反応だった。何か裏にカメラが回っていて、今の僕の言行を逐一レポートされているみたいだ。ふと、病室の扉の方を見るが、すりガラス越しには特に人の気配はなかった。
「菱川くんはでっち上げたの。」
「でっち上げたって、何を?」
「銀行強盗の映画を作って、それをもとに実際に裁判官をだまして、自ら死刑囚になったの。」
「どういうことだ?なんで死刑囚になりたいんだよ?」
 神永は拍手をし始めた。僕の前でぱちぱちと、なぜか慶祝に僕を尊ぶ。異常な真っ白の病室の一部屋に彼女の拍手が異様に響いた。目がくらくらする。目を擦り、視界が遮らないように彼女を凝視するがきつくなる。彼女は拍手をぴしゃりと止めた。静寂が僕のめまいをよくする。だんだんと回復する視力に彼女はなぜか頷き、話し始めた。

 菱川と出会ったのはニューヨークの舞踏会でヒールの鼻緒が取れて片足立っている神永さんの手を取ったのが始まりだった。1992年9月11日、彼女は東京都板橋区に産まれる。高校は東京の名門女学校、大学は英文科だった。トランプが就任した年、神永さんはニューヨーク支部に遷される。そして、VIPの社交場で菱川がいたのだ。菱川の役職は医者だった。東京大学医学部を卒業後、大学病院の助手として勤めていた頃、キャスターから報道記者として転身したキャリアウーマンでもあった神永さんは菱川とは中学以来会っていない久しい存在であった。まあ、二人は最初、軽い自己紹介をした。経歴を語る菱川に愛想を満遍なく周りに振りまく神永さん、まさに二人はこの時から夫婦のような関係であったに等しい。男の足らぬ部分には女が足し、女の足らぬ部分もまた然り、二人はその舞踏会を楽しんだ。ぎこちなく踊る菱川と淀みなくすぐに要領よく踊るが、それが侘しく時計の針の調べとともに踊る踊り子のように思える神永さんの踊りは世の常か。二人は何人かを経由して踊ろうとしたとき、鼻緒が取れ、菱川の方に躰を寄せたのである。
「大丈夫ですか?」
「すみません。」
 ヒールを恨む神永さんをそっと菱川は慰めたのだ。
「これは何かの縁かもしれませんね。」
 運命の悪戯に二人の男女が躍らせれる、なんとも戯曲的で抒情的だろうか。介抱してもらいながら、二人はラグジュアリーシートに腰を掛ける。
「どこからいらしたんですか?」と菱川。
「ニューヨークの郊外からです。大統領選以降のアメリカのジャーナリズムを報道せよと上から言われたもので。あなたは?」
「僕は医者です。ワシントン州の病院を掛け持ちで。」
 菱川は鼻緒が取れたハイヒールを見る。
「見栄を張っちゃったんですよね。」
 彼女は華奢な足首をみせる。鼻緒に力が加わりすぎたのが原因であることは少し見ればわかった。目の前のラウンジには多くの著名人が談笑していた。神永さんを知るアメリカの報道部もこちらを見ては手を振っていた。神永さんは申し訳程度に会釈をして、ヒールの先を指さし、歩けないことをアピールしていた。
「車で送りましょうか?」
「国際免許持ってるんですか?」
 菱川は頷いた。ふと笑みを溢す神永さんに菱川は立上り、名前を聞いた。敢えて彼女の方向を向かずに、談笑する紳士淑女の方を見ながら言う。神永さんは肩につかまると「神永ユリです。」と言って、おんぶさせた。周りが驚きながらも談笑を続けた。菱川はそのまま彼女をおんぶさせたまま、地下の駐車場に案内した。
「ここまでどうやって来られたんですか?」
「友達の車よ。」
「その方は男性ですか?」
 地下駐車場でも奥の漆黒の高級車がある。ポルシェカイエンだ。そちらに神永さんの目線が近づく。
「あれ、あれがあなたの車なの。」
 助手席に介抱して座らせて、運転席に菱川は座った。エンジンを点け、ラジオが流れる。
「夜は好きですか?」
 そう言って、アクセルを踏んだ。深夜0時ニューヨーク市を颯爽と駈ける。誰かがDJを殺してくれ、そんなギャングが叫ぶ街、ニューヨークで外車のスピーカーから ビートルズをかける。アップテンポのit won`t be longが車の外から漏れている。菱川は灰皿をセットすると煙草を吸いながら汚くて、綺麗すぎるニューヨークのストリートを駆け抜ける。
  毎晩、みんなは楽しんでるとき
 僕はここに一人座っているんだ
 君が去ってしまってから、僕は独りぼっち
 今、君が来てるんだ、帰ってくるんだ
 当たり前だけど、優しくするさ、
 君が帰ってくるんだから
          It won`t be long ザ・ビートルズ

「でも、鼻緒がとれるなんて、こんなの初めてです。」
「剛体だよ。」
 神永さんは首を傾ける。「ごうたい?」
「力と長さの掛け算は常に一定、それがモーメント。どっちかの脚に力をかかると切れますよ。」
「そうなんだ。」脚をきちんと閉じ、その上に鞄を置いている。菱川は煙草にまた火をつける。
「私にも頂戴。手慰みが必要なの。」
 咥え煙草にマルボロを彼女の方へ、神永さんは受け取ると器用に火を点けた。慣れた手つきで口から煙を出す。窓は開かれていて、真夏の涼しい外気と煙草とでまるでクラブハウスのようだった。ハイウェイを抜き、彼女のホテルがあるホテル・カリフォルニアに着いた。菱川は彼女の肩を持つとそのままロビーの案内役の方にバトンを渡した。
「待って。」
 菱川が振り向くと彼女はドレスのポケットから一ドル紙幣を渡す。
「ちょっと持っといて。」と案内役に紙幣を持たせる。内ポケットからマジックペンを取り出すと、YURI KAMINAGA 1992と電話番号を書いたドル紙幣を菱川に渡した。
「名前は?せめて、名前だけでも。」
そう言う彼女に会釈して背を向け、ゆっくりと歩き始めた。まだ、ホテルまで送ってくれた紳士。その背広の後姿の男らしさに神永さんは急に自分の心に嘘を憑けなくなった。
 
 狭く小汚いゲームセンターに僕と菱川はいた。目線の先にはクレーンゲームに難癖をつけ、店員を謝らせる上級生がいたのだ。僕は菱川から渡されたカメラを上級生に向ける。
 パシャリ。
 一枚のシャッター音が店内の騒がしいBGMと紛れて消えた。菱川はよこせよこせとフイルムを見る。
「いいじゃないか。」
「これでどうするんだよ。」と僕。不安がった僕の前には英雄のごとく鼻息を荒くする菱川がいた。菱川はにやけていた。あいつの中では何か魂胆があるのだろう。ゲームセンターには格闘技ゲームや両替機、プリクラと一式はそろっていた。僕はプリクラの方を指さす。
「ちょっと写真でも撮らないか?折角だし。」
「なんだよ、そんなものはなくていい。写真は虚像なのだよ。ワトソン君。」
 僕はまた首を傾げ、ゲームセンターのエントランスへ行こうとする菱川の後を行く。
「それでも、あのホームレスの人にも応援をするなんて。なんか、地域一丸の復讐劇みたいだな。」
「まあな。」と菱川。顎をしゃくる。「ゲバ棒とか催涙ガスとかで目を節穴にしたいっていう思いがあるんだよ。それに俺達には高校受験があるんだ。いい高校に行けば、あんなカスどもと会わなくて済む。」
「でも、それを凡て水泡に帰す行為がそれなんじゃないか。生産性の中で生まれた事物をゲバルトに変える、一種の構築された資本形態をお前は自らの手でなし崩しにしようとしてるんだ。」
 菱川は立ち止まる。
「悔いはないな。」と僕。
 背を向けて、暗いゲームセンターの扉の先にさす真昼の日光が菱川を照らす。
「ああ。」
 それはノーに近いトーンの口調だった。鹿目さんが河川敷でこんなことを言っていたことを思い出す。
「あんたらに手伝えるのなら手伝うぜ。なんなら、ガマの油売りでもやってやりましょう。」
 その返答は等しく僕らに冷静さをもたらすものだった。僕は鹿目さんが何処かで僕らを止めてくれると思っていた。だが、計画的な足取りで僕らは時を進めた。それは非行するものへの見せしめであるが、それを脅し取って形勢を取った僕らが彼らを陥れようと言う魂胆でもあるわけだ。ゲームセンターを出た後、菱川はこんなことを言い出す。
「これで計画はひと段落だ。あとは電柱に…。」
 蹲る菱川をそっと介抱する。彼が何かに怯えているのは目に見えた。
「先輩が怖いのか。」
「違う。キーンってなるんだ。今もだ。聞こえないのか?」
 耳を澄ましても何も聞こえない。
「何だよ。フルートだよ。吹奏楽の奴の安いフルートの音。聞こえないのか?」
 聞こえなかった。菱川はすっかり怖気づいた。僕は体重68キログラムの菱川をおんぶしてあの河川敷に行った。鹿目さんに会いにだ。その際にも菱川はフルートの馬鹿野郎、此畜生と嘆いた。僕はせせら笑いでのろのろと歩いた。そして、あの鉄橋下の段ボールで畳まれた敷地には前まではなかった段ボールハウスが出来上がっていた。目線くらいの高さには表札と思しき「鹿目」と手書きでマッキーペンで書かれたものがあった。僕の跫で鹿目が通る。僕と肩に顔を埋める菱川に明るく受け答えるのだ。
「やあやあ。どうしたんだい。男色家?」
「いや、菱川が嘆くんです。」
 菱川は僕の肩から手を放し、地面に着地する。そして、また蹲る。
「フルートだ。此処も聞こえる。」
「そんな馬鹿はいない。」と鹿目さん。
 僕は何か可笑しな気概で菱川の肩に手をやる。まだ、フルートの音があるらしい。鹿目さんはこんなことを言った。
「菱川くん。君は嘘をついてるんじゃないか?」

 若旦那はビッグケリーの論文をみせた。バーは27時に締まるが、今は25時、東京の夜は長い。僕は彼から手渡され、英字論文をまじまじと見た。
 Interpretation of quantum mechanics is converted into various aspects of particle physics. for instance, many-worlds interpretation…(量子力学の解釈は素粒子物理学のさまざまな側面に変換される。例えば、多世界解釈…。)
 多世界解釈、若旦那は白紙とペンをバーテンダーに持ってこさせた。二本の直線をフリーハンドで書くのだ。今いる僕らはAの線、上だね。下がBの線。ここが交わることは何か量子の揺らぎがあってこう交わるんだとAの線の途中でBの方に斜め線を入れる。僕の世界線と君の世界線があって、今も見えぬ量子の揺らぎで僕らの未来が変わろうとしているんだよ。今の出会いもね。あの不愛想なバーテンダーもね。ケリー博士は歯車を作った。それも脳内に幻覚として起こる、統合失調症の患者の幻覚を試験例にして、一種の幻覚を起こす頭部装着型マシンを作ったんだ。名前はmidi kelly。合言葉はfor you。世界平和を願ってさ。オッペンハイマーとかアインシュタインのような悲劇を起こさないように、我々物理学者は罪を背負った、今その贖罪が晴らされようとしている、世界線の書き換えとともに!僕は若旦那からmidi kellyを装着している被験者の女性の写真を貰った。何処かで見覚えのある躰つき。
「彼女がアメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学で被験者になった日本人、ユリ・カミナガだ。」
 そんな馬鹿な、ユリ・カミナガって、神永ユリのことか。耳元で若旦那がほくそ笑む。
「君の見ている世界は全部、ユリ・カミナガの世界さ。」
 僕の瞳孔が見開く。
「どういうことですか?」
「わからないかい?谷村正也くん。僕の名前も同じ、谷村正也。」
 照明が暗転し、バーテンダーが消え、僕ともう一人の谷村正也の匂いが隣に、さっきまで話していた後ろのテーブル席のアベックも消え、空間がやけに広く感じた。この感覚は…。僕は暗室に、誰かの思考の中に閉じ込められている感覚に陥った。
「神永ユリ、あんたの世界か?」
「ひ・し・か・わ・ゆ・り・ヨ。今はね。」
 彼女の声が僕の躰の芯から聞こえる。僕は殺されるんじゃないかと思ったのもいいとこだ、わけのわからない人の思考の中はエスと自我と超自我がおどろおどろしく鬩ぎ合い、僕の血流を早くする。そして、何か体内に注射針で塩化ナトリウム水溶液を注入されているかのような異物感があった。これが人の思考に入るということなのか。僕は罪人のように怯え切っているとスポットライトが当たる。
 うっ、と目を覚ますとベッドの上で主治医が僕の肩を叩いていたところだった。僕は勢いで起き上がると自分の顔を抓る、髪を触る、肌を摩る、感覚は、ある。
「どうされましたか、谷村さん。」
 医者に名前を呼ばれて驚いた。何で名前を知ってるんだ。すぐに思考が動いた。主治医だからだ。
「菱川は。」と言葉が詰まる。「菱川浩二、ひしかわ…、菱川もと、菱川元死刑囚は?」
「悪夢ですか?」
 乳母のあやす声のような歪な揺らぎが僕の中であった。誰かに飼われているような感じだ。赤子の頃、僕はシーツの上であやされていた。その時とは違う、異物感、落ち着きがない、何か拳銃を米神に突き付けて、常に死を悟る自殺志願者のような、言葉にし難い感情、医者は落ち着きを払った。
「Q熱でも、幻覚を起こすこともあります。変わったことはありましたか?」
「神永ユリ、いや、菱川ユリがここに来たんです。そして、彼女の思考の中で、ビッグケリーの歯車の遡及と多世界解釈による…。」
「難しいですね、それそれは。」と医者は看護婦から面会リストを見る。「ああ、菱川ユリ…、ああ、来られていますね。」
 僕は絶句した。すると、医者がこんなことを言いだす。
「そう、夫の菱川浩二さん。あなたの中学時代のご友人がアメリカから来られると予約の電話があって…。」
 僕は話の途中から点滴セットを左手にスリッパを履いて立上り、医者の制止を振り切り、歩き出す。途中から少し走り出した。少し、注射されている部分が揺れて痛む。恐ろしくなったんだ。あいつが来る。この非現実的な場所にあいつが来るんだ。僕は大広間のエレベーターに途中から乗り込むと最上階を押した。上に上がるにつれ、人の往来がひっきりなしにある。そして、僕の鼓動が高鳴る中、屋上についた。僕は見慣れない中央病院の大都会東京の世界に感嘆した。息を凝らしてフェンスの方に行く。ふと、肩を叩かれる。僕は何気なく振り向いた。主治医が追ってきたかと思った。
「久しぶりだね。谷村正也くん。」
 あいつだった。死刑になったはずの嘗ての友人、菱川浩二がそこにいた。相変わらず、顔は若々しく、童顔だった。大人びて、少し美青年を帯びていた。叩いた右手、そして、左手には拳銃が、僕は絶句した。
「なんだ、ひし…、ひしかわ、菱川か、久しぶりだな。」
「本当、久しぶりだね。」
 菱川は僕の米神に拳銃を突き付ける。僕は訳もなく動けなくなった。呪術的な、もうここで僕は死なないといけないという感があった。僕は腹を括った。唾を飲む。
「俺は…。」僕は何かを発しようとした。
 バン、一発の銃弾が打ち込まれた。

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