『脳裡を過ぎる』 第三章

 第三章 ダニエル・ジェファーソン・ケリーのパラドックス
 私は物理学者だ。そして、医学者も兼ねている。それに素晴らしい日々を労働の対価で得ている。それは本当に素晴らしい事だ。菱川は私を騙そうとしたが、midi kellyは嘘は言わない。私にだけきちんとブラックボックスを用意している。そこには過去を改変した者のどのような改変、改竄かが見て取れる。それが菱川のことだと思うと居たたまれない。あんな天才を私の作った発明で殺してしまうとは、そして、谷村君のこともそうだ。彼も可哀そうなものだ。途中経過は置いておいて、恨まれると人はここまで鮮明に持っている拳銃で殺そうとするものなのだから。
 だとしても、midi kellyは本当に私の分身だ。私はよく人柄がいいとか言われ、若い女性の助手の方の話とかを聴くが、それに近いのだろうか。midi kellyも愛想がいい。そして、その人の懐にそっと寄り添う。機械ではあるが、知能はある。私が開発した往年の記念碑のような装置だ。この装置がカエサルを殺したブルータスのような…、嗚呼、忌々しい。私は二人の学者を殺したのだ。
FBIに密告したのも私だ。そうするしか術はなかったのだ。許してほしい。菱川の墓には何度も足を運ぶつもりだ。私が行った実験凡てを二人の青年の命を奪うために作られたなら、何のための科学だったのか、いまだにはなはだつかない。
「先生、菱川を政府が暗殺したそうです。」
 助手は神妙な面持ちで言うもんだから、私は遂にか、と心をどぎまぎさせながらそのときを生きた。今じゃ何の足しにもならないこの老いぼれた体も若返らせることができる。もっと言えば、昔の自分に会い、説教することもできる。私は何度自分に自問した。本当にこれでよかったのか。私がしたかった研究はこんなものだったんだろうかと。
midi kellyは道化をみせる。そして、その人の過去をみなの歴史を改変することができる。素晴らしい装置だ。ただ、菱川は完全犯罪のためにそれを使ったのだ。
FBIがやってくる。彼は菱川の経歴について疑問点が多かったらしい。死刑囚になったこと、そして、それを国家ぐるみで抹消していること。気づけば、私は在りもしない虚言に付き合わされたのかもしれない。でも、FBIが言うには、凡て菱川の計算だった、とのことだ。私と会った記憶も改変し、あたかも初めて会ったかのようにふるまい、3度もmidi kellyを悪用した。これほどの者はいない。私は薄暗いニューヨークの街並みを見たのだ。それは何とも下品、殺風景な窓の景色があった。
私は菱川に忠告したのだ。それも何度も、おそらく会っているときには再三言ったはずだ。それでも彼は実行に移したのだ。最初は好青年という印象があった。でも、その時の恨みを思い返す彼は何とも無垢な顔つきだった。トラウマについて話すことはない。midi kellyはその人の深層心理を抉り、見るものをみなそいつの世界線に引きずり込むことができる。なら、私が彼らの仲介をできないだろうかとFBIに言ってみたが、向こうのアンサーはノーだった。これ以上改変されたら困るそうだ。私はしぶしぶ、あの時の菱川を思い出す。彼は私を利用したのだ。そして、この装置を使い、私と会う世界線を消し、病気で倒れている谷村くんを殺したのだ。そして、殺した過去と私と会う世界線が崩壊し、私のmidi kellyは何とも言わなくなった。それでも、私には未練がある。二人の青年を、救いたかった。
私の家族はユダヤ系ドイツ人だった。私は父の代でアメリカに来た、ゆえにドイツ語が話せる。私の妹のセバスチャンも話せるのだ。幼少期の私は化学が既に好きだった。妹はそこまで好きではなかったが、今じゃ、彼女も科学センターに勤めている。兄妹揃って、科学を志した。学生時代は引き籠って、科学雑誌を読んでいた。周りからは「ギーク(変人)」と呼ばれていた。大学に入って、煙草の味を覚えた。そして、酒の味も、大人の味も理解した。あの大学で得たのは知識と音楽だと思っている。そして、精神疾患。私の友達のことだ。彼女は私のことを「健常者予備軍」と呼んでいた。その呼び方はやめろよと再三注意したものだ。私の興味が精神医学に行きついたのも妥当だろう。物理学科を卒業して、私はジョンズ・ホプキンス大学の医学部に学士入学した。そのころには既にmidi kellyの構想はついていた。精神疾患の友人が私が入学したその次の年に自殺したのは何とも言えない思い出だ。彼女おを救いたかった。彼女は自分のアパートで自らを拳銃で射抜いたのだ。私には何も守れない、科学をやっていてもだ。それがmidi kellyを作らせた。つまりは、統合失調症の彼女のための献辞のようなものだ。それも開発した3年間で一気にバグが生じた。試験者の知能に合せた世界になったり、共和党支持者の学生がヒラリーにみな投票する世界線を作ったり、それはもう大変だった。トランプが大統領になったのも、midi kellyを操作し、暗躍した学生がいたからだ。アメリカの政治を変え、人々の慣習を変えるその装置は、科学の中では第二の原爆と言われたものだ。ただ、人を滅ぼす爆弾ではなく、世界線をよくする装置なのだ。そして、今日、私はmidi kellyを処分しようと心に決めたのである。それは私の考えでは妥当だった。もういいのだ。本当にこれでいい。
「ありがとう。夢を見させてくれて。」
 midi kellyを撫でながら、私は煙草を吸い、電源を落とした。FBIも菱川も谷村もいない世界線がそこにはあった。誰も何も傷つかない世界、midi kellyの電源をショートカットして生まれた世界、それは私の望んだ世界ではなく、妥協と正当性を兼ね備えた、哀れな世界だった。みながアカデミックに在籍し、書を愛でて、古きを否定するインターネットをつなげた仮想現実の世界、x realityだった。
誰もいない教壇に立ち、一人数式を書いた。数列は理路整然として、脈々と式は長く続く。それはまるで今まで歩いてきた一人の人間のようだ。色褪せていく追憶に私は夢うつつに黒板を眺める。窓辺からの夕焼けが射し込める、なんとも美しい情景がそこにはあったのだ。
「この世界を壊したのは、私ではないか。」
 手を止める。そして、数列を黒板消しで消し、きれいさっぱりになったその複雑だった世界線は今や、一枚のキャンバスに早変わりした。私はこれでいいと独り決めし、消えた世界を思い返す。嘗て、菱川と谷村が存在した世界と存在しない平和な世界。そこには彼らのいざこざも殺人もない、隠す必要のない情報が瀰漫していた。
「これで私も退官できる。」
 研究室から車に乗り、私は20km離れた集団墓地に行く。そこにはあったはずの菱川浩二の墓が跡形もなく消えていたのだ。消えたその面影に影おくりして、私は夕闇を楽しんだ。暁闇の帳に私は菱川の子供時代を思い返す。彼は何も知らない、「死」とか「恐怖」とかを顧みない、顧みる必要ない時代があったのだ。私もそうだ。そして、私はそれを克服した。自我とエスと超自我のはざまにある黒い部分は今も我々を正常さから遠ざける。その三つの人格においてはさほど議論は必要ないだろう。ただ、エスと超自我の間にあるスコットランド神話の神様のようなそれは今も侘しく踊る踊り子なのである。それを見たものは精神が崩壊し、現実の中で秩序を見出そうとする。それが架空の友人であり、嘗てのそれも凡て架空の、虚像に移り変わってしまうのである。神永ユリにすり替えて、人を殺した菱川のエスはまさに理性のストッパーだった。その止めるまでの発作がおどろおどろしい精神病理としてあったのだ。私は何度も自分を責めた。彼を救う手段はテクノロジーではない、ヒューマニティだったのだと、人間中心主義は死んだ、認知対話療法は消えた、パターナリズムが残り、父性の威厳さが残り、またそれと日々拮抗し戦ったフランスの哲学者たちが横たえるのだ。私はあったはずの墓場に礼をした。今はこれしかできないのだ。
「闘争の果てにあるものは虚構だ。」
 60年代、東大全共闘のある男が悟ったことだ。私はジャパノロジーが好きで、大学の講義にもそれを選んでいた。日本に興味があったのだ。特段、私にメールを送った菱川もその対象にあった。武士道を知り、寿司を食べ、江戸を生きた血がそこにあったはずだ。それが日本人であり、私が考える民族性である。ただ、彼はアメリカナイズされた視点で西洋的哲学感を持ち、死んだのだ。西洋人の特権、拳銃は菱川のような奴にあるのかもしれない。ただ、私が思う理想は三つのバランスを整え、受容することだ。それがなぜダメだったのか。菱川にとって、なぜその三つの調和を私に示さなかったのか。midi kellyのエントリーの際に最初、具合が悪くなるほどの精神汚染が来たはずだ。普通なら2週間から1か月は向精神薬を飲むはずだが、彼はどんどんと道化の中に入って行った。夜の舞踏会で、彼の作った世界線であったことがある。神永ユリとの馴れ初めの時だった。私にはそれが不思議でしかなかった。あれも菱川が作った世界だ。私は談笑するわき役に回っていた。彼に気づいたのは、彼を知ってから思い返した時だ。midi kellyは一度使うと頭の中に歯車が入る感覚に陥る。それから過去を遡及して戻ることができる。そりゃあ、彼は主人公だ。機械を使ってるからだ。ただ、私はわき役として演技をさせられていたのだ。そして、彼の最後が脳裡を過ったのだ。バーで、FBIに話しかけて、殺される菱川を、あの紳士が振舞っていた笑顔が、ひきつった顔面と、恐怖する心に包まれる感覚を私は先に味わったのだ。その時にはもうすでに助手から菱川処刑の話を聞いたころだった。
 墓地はもう既に真っ暗闇だ。私は煙草の火で顔を温める。私が求めてきたものは、こんなものだったのか。
「そうじゃないですよ。」
 聞き覚えのある声だ。周りを見渡しても、誰もいない。
「ケリー博士、お久しぶりです。」
 その声は…、菱川か。私は思わず声を出す。
「菱川…、なのか。」
「………。」
「誰なんだ、聞いたことはある。私の名を知る者よ。名を名乗ってほしい。」
 ふと、後ろに気配を感じた。私が振り返るとタキシード姿の男が私に背を向けて墓地の奥へゆっくりと歩いていくのが見える。私は財布に違和感を覚え、ポケットから取り出して紙幣を見た。一枚の一ドル札にこう書かれていた。
KOUJI HISIKAWA 1989 電話番号000-000-0000
私は神永ユリのことを理解した。あの瞬間、あいつは…、菱川は元来、そういう奴だったのか。くすりと笑い、私は車の方へ、あの男が去った方向へ足を進めた。背を向けた集団墓地に誰かの視線があった。それもきっと…、まあいい。また来るよ。私は死ぬのも悪くないと言うチャップリンのような心情になった。カナダに別荘をもって、それでもってカナディアンハウスで暖を取り、好きなだけ書物を読むのだ。それはツァラトゥストラも望んだ生活だろう。そして、ファウストが悪魔と契約した、あの老いと若さの交換であり、契約は旧約聖書と新約聖書の続編を意味する。自分だけの世界。車に乗り、私は灰皿に煙草の煤を落とす。感慨深い感情を味わい、私は一服した。それはもうない、私の最後の瞬間だろう。私は南へ車を走らせる。Green dayのwake me up when September endsをかける。まるで映画を見ているみたいだ。私は名わき役。主人公は二人、谷村と菱川だ。ヒロインは神永ユリ、そして、私が騒動の発端の発明をする、そんな話だ。カーラジオからグリーンデイがかかる。
夏が過ぎ去った
もう無邪気ではいられない
9月を過ぎたら起こしてくれ
父が去ってしまったようだ
瞬く間に7年が過ぎた
9月を過ぎたら起こしてくれ
  Wake me up when September ends グリーンデイより
 学会に私はmidi kellyの話はなかったことにした。周りは勿論反対した。そして、私自身がmidi kellyを装着して、今までの世界を凡て改竄した。私は徐々に意識がなくなる。意識が機械の中に…、徐々に、徐々に、だんだんと、消えていく。私が量子コンピュータの中で永遠の命を得るためには、これしかないのだ。
「また遊ぼうぜ。」
「ああ、いいぜ。」
 菱川は谷村と河川敷で笑いあっていた。二人はまだ中学生、高校受験を控えていた。菱川には好きな人がいた。
「誰が好きなんだよ。もしかして、神永さん?」
 谷村はにやけながら言う。菱川は気恥ずかしそうに「そうだよ。」と。
「じゃあ、告白するしかないな。」
「おいふざけんなよ、いやだよ、なんで、絶対フラれる。」
「大丈夫だって、お前、ルックスはまあまあだし、高校入ったら変わるかもよ。」
「いや、それでも。」
 河川敷には電気工事士で働いていた鹿目が地面に胡坐をかいて話を聞いていた。
「青春だな、お二人さん。」
「違います。」
 谷村と菱川が同じセリフを言った。鹿目は笑った。「仲がいい事。」照れくさそうに三人は河川敷で笑いあった。そんな鉄橋下の河川敷に一人の男が遠くで見ていた。
「タニムラマサヤくん。君と出会ったのは菱川より先だった。これが君の望んだ世界なんだね。」
 男の名前は谷村正也だった。もう一人の谷村は遠くではしゃいでいる三人をしり目に煙草を咥えて、河川敷とは真逆の方向へゆっくり、ゆっくりと歩いて行った。

             (終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?