【構造分析2】レイヤー2(神様 vs 地上人)/『いちばんここに似合う人』
『いちばんここに似合う人』作: ミランダ・ジュライ は短編小説であり、その全体レビューと、そのうちの一つの短編「共同パティオ(The shared patio)」についての構造分析を記載する。この記事においては、表題の通り、構造分析第2弾を記載する。
神様 vs 地上人(レイヤー2)
この小説に出てくる特徴的なモチーフとして神様がある。冒頭でいきなり神様が、と言っているし、途中でいきなり、私は神の祝福を受けるようにしてヴィンセントのことを「赦す」。癲癇の治療薬を取りに行ったとき、写真に写る子供とくじらに向けられた生命体全体へのやさしさ、慈愛。
何と言ってもこの小説には、前述のあらすじからは省略したもう一つの階層がある。主人公の投稿だ。
主人公は雑誌、いやパンフレット「ポジティブ」に投稿を送っている。そう、主人公は「ポジティブ」の関係者ですらなく、イチ購読者として投稿を送り、採用されるのを待っている立場だ。その投稿が、主人公の語りを分断するように脈略もなく挿入されている。太字で強調された、掴みどころのない自己啓発本のような文言が繰り返し挿入されている。
挿入は何度か繰り返されて、最後には主人公はコツを掴んだと言う。「ポジティブ」で採用されるようなアドバイスは、名言や格言となるような気分を明るくするアドバイスであるべきだが、聖書や禅の本から引っ張ってきたような説教ではいけない。もっとオリジナリティのあるものでなければならない。死の病にかかった人をポジティブな気持ちにさせるのは難しいから。主人公があと一歩で採用されるところまで来たと言っているアドバイスというのは、人々の内なる光を褒めたたえましょう。東を見ましょう。空を褒めたたえましょう。自信なんかなくたっていい。すべてのものを褒めたたえて。褒めたたえて。褒めたたえて。
宗教である。格言や聖書の中のお説教というよりは、神目線のお言葉である。主人公は「正しい」と「間違っている」の認識のずれに葛藤することなく、現実と乖離が広がるままに進んだ結果、最終的には神の立場にまで昇ってしまった。
主人公はチビだそうだ。ヴィンセントと奥さんは背が高くて、私はチビで、かれらの視界から一段低いところにいるのだという記載もある。主人公は彼らを見上げなければならない。物理的に「下」にいるのだ。ヴィンセントと主人公の仕事の対比もそうだろう。少なくとも雑誌の制作という切り口で見るなら、ヴィンセントはプロのデザイナーで、主人公は印刷会社の事務員で、雑誌製作者ではない。こういう言い方はよくないかもしれないけど、雑誌制作に関して私はヴィンセントよりも「下」だ。
主人公がヴィンセントの発作時に眠りこけてしまうという不自然な設定も、新約聖書のモチーフから考えれば、ヴィンセントがイエス・キリスト的な高い立場で、私が弟子のように一段低い立場にいることを示唆するためではないかと思ってしまう。ゲツセマネの祈りという新約聖書のエピソードがあって、イエス・キリストが十字架にかけられる前夜に苦しみながら神に祈る。キリストは弟子たちを連れてきていて、見張っているようにいうのだが、弟子たちは眠りこけてしまう。キリストが何度注意しても眠りこけてしまう。明朝にはお師匠さんが残酷な刑に処されるというのに、一番弟子のペトロであっても眠ってしまうのだ。
発作を起こしたヴィンセントに死の影が迫っていても、何の危機感もなく眠ってしまう主人公は、神様のモチーフの中で読めば、キリストの死の淵においても眠りこけてしまう弟子を思わせる。ヴィンセントが上で、私が下だ。
だがこの上下関係は簡単に逆転する。発作の直前、主人公は自分勝手なヴィンセントに許しを与える。注射器をもってくるおつかいの途中で、子どもたちを愛し、死にゆくクジラに話しかける。ヴィンセントが注射を受けて癲癇の発作が収まったとき、夫婦は二人の世界にいるのを遠くから見ている私は、もうすでに高い視座を獲得しているから天使みたいに見える。地上を見下ろす天使である。そういえばマンションで、1階はヴィンセント夫婦で、私は2階だ。初めから私は彼らの天上に居て、恐れ多くも、共同パティオに降りて来なさっただけだったのかもしれない。
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