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【雑】なにをもってセックス

(雑記)

小説を書いたことがある人なら分かると思うけど、人の書いたものにはどうやってもその人がいて、考えていることが出てしまうから、小説を書いて、読まれて、私も人の書いた小説を読んで、そういうことがあったなら、それってなんかもう実質的にセックスなんじゃないかな。そういうのってあり得ないのかな。

セックスが肉体のやりとりでそれでいて肉体以上に精神的なやり取りの機微だというのなら、もういっそのこと肉体を介さないで精神と精神を直接やり取りした方が早いんじゃないか。
目の前にいるその人がどんな人なんだろうと知っているような知らないような、知りたいような状態でその人が書いた物を読むのって、それはもうエロなんじゃないかな。ほとんどセックスみたいなものというか、そんなのもうセックスそのものなんじゃないか。

神様がアダムの肋骨一本からイヴを創りましたとか、死んだあと復活した人間がいるとか、手が12個ある何何様とか、そんなままごとみたいなうそっぱちが何億人もの間で永遠にまかり通るなら、書いた小説を読み合うことがセックスだと決められている現在もあり得たんじゃないか。

私が神様だったら、セックスというのは小説を互いに読みあうことにしましょうと決めてもいい。生殖のためのセックスを、出産みたいに人生で一度や二度やらなければいけない義務として、快楽のためのセックスをマッサージみたいに好む人だけやる嗜好にして、小説を読みあうセックスをセックスということにするのはどうだろう。それを何か熱狂的な人が広めてまわって、過去何千年にわたって協力してうそを突き通していたら、そっちの方が本当ってことになるんじゃないか。

人の家に行ったら本棚とか見てしまうし、へーこんな本読むんだねとか、思ってしまうのも、人の裸を見る感じというか。
この前とある人が、どんなに優れた小説よりも知っている人が書いた小説が一番興味深いと言っていて、わたしはそれに半分くらい同意するのだけど、それも結局この理論なんじゃないか。違うのか。
それに以前、自分の書いた文章を今ここで読んでと読んでもらったことがあるけど、そのときも「これってものすごく性癖だよね」と言われて、その時も私は妙に納得したのだった。
私がいまやっているような、不特定多数に見られる文章は、バンク的な、巨大冷蔵保管庫的な感じで、目の前にいる人についてよく知ろうとして、小説を読み書きしあうことは。それってもう。一度考えるとそうとしか思えない。

小説を読み書きしあうことがセックスなんだったら、結婚が意味するところは、私以外の人が書いた文章をこの先一生読まないでってことになるのかな。作家のようなプロが書いた文章を読むのはもうどうしようもない生命活動だとして認めるとしても、基本的には私の書いた小説だけを読んでよ。もし他に読みたい本があるなら、私が先に読んでその内容を私の書いた文章でまとめてあげるから、それを読めば。結婚してるなら当然でしょう。こんな感じ?
これは私の思う結婚のイメージそのものだな。実際にAVを見る人とは風俗に通う人の気持ちってこんな感じじゃないか。

だったら図書館とか巨大エロ施設なんじゃないか。無料で興奮し放題。静寂の中の興奮。あれはやばくないか。書店もなかなかやばいけど、やばさのベクトルが違う。図書館は使い古されているけど色んなジャンルの本があって、この棚は死に棚だと思ってもそれは自分の見識が浅いだけで、ある日突然魅力に気付くみたいな、そんな感じ。書店は目新しいものが常にあって、入れ替わりが激しくて、新品だし、でも品数がそんなにない。これはもう完全に棲み分けされた性欲エンターテインメントでしょう。
私は図書館派かな。あなたはどう?とか酔っぱらった男男が話していそう。胸派?おしり派?みたいな。図書館か書店ならジェンダーがないから、初対面の男女でも男男でも女女でも人間人間でも、あらゆる組み合わせでいけるんじゃないですか。

私はジェンダー的な不平等にめちゃくちゃせせこましてしまうし、それを間違っているとも思っていなくてその話は今は置いておくにしても、私の持論としては、セックスのあのパワーバランスがすべての男女不平等の根源だと思っていて、セックスを、セックスとはすなわちここでいう出産みたいに人生で一度や二度やらなければいけない生殖のためのセックスと、マッサージみたいに好む人だけやる嗜好としてのセックスの二つを指すセックスなのだけど、セックスをしている限りは、男女は平等にはなれないんじゃないのか。もうなんかあの構造。体勢。なんか決定的。
セックス、すなわち上の二つのセックスは、もう今の社会構造のすべてを象徴していて、我々は卵による外受精を手放してしまって以降男女平等を諦めてきてしまったのではなかったか。

そもそも私は昔から人間の三大欲求に性欲が含まれているのがずっとおかしかったんだけど、だって食欲と睡眠欲と比べて性欲だけ異質じゃないか。生殖のためにというけど、性行為の中でこれだけ厳密にbirth controlしているのに、その日常の性行為を繁殖と絡めて必須の欲求に絡めるのはさすがに無理がないか。そんなのもうウソじゃないか。食欲と睡眠欲に並べたいのなら排泄欲とすべきだと思う。無いと生きていけない感じ。排泄欲が正しいんじゃないか。ここまで何世紀かにわたって、排泄欲と性欲がイコールだとされているのはあまりにも男根的すぎて。女性の性欲って排泄欲ではないしな。誰かがそこは違うと言わなければならない。
欲求と快楽ってそもそも同じではないよな。同じだということにして、決定的にみんなで団結して嘘をついている感じがする。取り決めとして決まっているからそう、という感じ。もしも性欲が生きていくのに必須なのだと言うなら、去勢された犬がすやすやと気持ちよく眠っていることを説明して。睡眠と摂食は無いと即ち死なのに、性欲だけはそうではない理由を説明して。

代わりに好奇心を入れるのはどうだろう。食欲、睡眠欲、好奇心。こっちの方が素敵じゃないか。正しいとか間違っているとかじゃなくて、単純に素敵じゃないか。排泄は生命活動にカテゴライズできるから、消化とかそっちのグループに入れるとして、なにか受動的なよう衝動のようで創造的なもの3つを三大欲求グループに入れる。好奇心はいい要素なんじゃないか。どう思いますか。
そもそもエロってただの条件付けというか定義だと思っている。女体をエロいと決めましょうという前提。胸=エロという記号。目がエロいとか、唇がエロいとか、髪がエロいとか、肩がエロい腰骨がエロい足首がエロい筋肉がエロい、これが全部嘘だったらどうするんでしょうね。考えたことないですか。

例えば今から私が中指の爪がエロいと決めたなら、明日からみんな中指の先にキャップみたいなのをして生きていくんかな。特別な時にだけそのキャップを外して、好きな人の中指の爪を見たときに、君の中指の爪はサイコーやな、とか思うんかな。

私はたまに、沢山機会があるわけではないけどたまに、海外の美術館とかに行って、宗教画の前後の時期(中世であってますか)の絵画の部屋とかに行くと、もう裸体裸体の応酬で、見渡す限り肌色しかないし、太い体、細い体、背中の長い体、真っすぐな体、ねじった体など、ありとあらゆる女性の裸体の標本があって、いつも純粋にキモイな、異様やな、好きじゃないな、居心地が悪いなと思ってしまう。ロジックがめちゃくちゃなんだよな。
①裸(ほとんどの場合女体)は卑猥やで。服着や。

②たまに見る裸ってエロイな。

③エロい裸を見たときの衝撃を何かに残したい!絵にしよう!

④女性の裸は美しい。書いたもの皆に見せよう!これは芸術だ!

①裸(ほとんどの場合女体)は卑猥やで。服着や。

乳首開放運動も④→①がおかしいってことだよね。考えてみれば当たり前で、女体を持つ者としてはエロいときもエロからざるときも乳首も胸もなにもかもがいつもそこにあるので、エロいも卑猥も何も、お前さんらが何を騒ごうがという感じで、やはりエロというのは集団で信じ込んでるウソの要素が強い。

そこでやっぱり最初の話。私は書いた小説を読みあうことをセックスと決めてしまおうと思う。
エッセイや詩では足りない。エッセイは他人の言葉でごまかせる。詩は何も伝わっていなくても成立しているように見せられる。小説は違う。もっと人間のポリシーとヘキと感受性が出る。何百ページも自由にものを書けと言われて、普段考えていないことを出さない方が無理なので。

関係ないけど予備校の時に仲の良かった男の子がいて、国語の問題文に出てきた小説の一部が面白くて、これ面白いよねと言い合って、その子が翌日にその本を買って持ってきて、私に貸してくれたから読んでたんだけど、次の日に会ったらお前はまだあの本を読み終わっていないのかと聞かれて、500ページくらいあったしまだ半分くらいだと答えたら責められた。俺は本を読むのが遅い低能な人間のことは受け付けないんだ的なことを言われて、その時は私もまだ人に賢く思われたいという欲もあったので慌てて読んだんだけど、現代文の題材になっていた箇所は良かったのに、それ以外の部分の話の筋書きは妙年の男性の主人公があらゆる女性とセックスしまくるというもので、なんか妙な気持ちになったことを思い出した。あれは何だったんだろう。通りがかりに精液かけられる的な感じのやつかな。

作家の書いた小説を面白いよねと言い合うことがデートに近いのかもしれない。好きな小説を交換しあうのは素敵なことだと思いませんか。時間そのもを交換している感じがするし、感性も分かるし、別にそんなことはないんだけどなんか考えていることが分かる気がする。占いみたいな感じ。それで本番のセックスは自分たちの書いたもんでやりましょうということですか。間違って一方的になったらそれは暴力。確かに一方的に自分が好きなものとか良いと思っているものを話し出す人っているし、私も満たされないときやってしまうな。

この話を小説にしてみたらおもろいかなと思ったけど、小説を読まない人からしたら何一つ意味不明なんでしょうね。でも小説を読むのは小説を読む人だけだから、小説を読まない人のことは気にしなくてもいい気がするな。

最後まで読んでくれてありがとう。おやすみなさい。私は別れ際にするおやすみなさいというあいさつが結構好きです。おやすみなさい。

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