【構造分析1】あらすじ・レイヤー1(正しい vs 誤っている)/『いちばんここに似合う人』
『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライは短編小説で、そのうちの一編「共同パティオ(The shared patio)」について、あらすじと構造分析(レイヤー1、レイヤー2、レイヤー3)を行う。この記事ではあらすじとレイヤー1までを掲載している。あらすじはネタバレを含む。構造分析上、ネタバレを過度に警戒する読者層に気を遣うだけの余裕がこちらにないためである。
ひとつ前の記事では全体レビューを書いた。そこでメインストーリーを追うことだけが文学の楽しみではないことについて皮肉っている。本作も、というかほとんどの芸術作品はネタバレをしても面白いようにできている。もしあなたがネタバレを聞くとその作品の価値が下がってしまうように感じているなら、それはその作品の価値がその程度のものであるか、あなたの感性がその程度のものであるかのいずれかだろう。
前置きが長くなったが、以下はネタバレを含む。こういうことは倫理上断っておかなければならないようなので断っておく。ネタバレを先に読んでから本作を読んだとしても、その面白さは損なわないと私は考える。
また以下および後続の記事において、構造分析は本作を読んでいなくてもあらすじ以降の記事を読めば理解できるよう、できる限り配慮して書いた。それでは本題を始める。
あらすじ
ヴィンセントが好き。というかヴィンセントは私のことが好き。薄れていく意識の中で、私たちは通じ合った。こういうのは意識がない方が有効だ。意識がないあいだ、人は神様に導かれるままに正しいことをして、正しい人を好きになる。
意識があると人はしょっちゅう間違ったことをする。ヴィンセントには奥さんがいて、二人で私と同じマンションに住んでいる。彼女は医療助手をしていて、ヴィンセントは雑誌のデザイナーをしているから、仕事の点では私の方が彼と同業だ。私も雑誌関係の仕事をしている。私は印刷所で事務の仕事をしていて、そこで『ポジティブ』っていう雑誌を印刷してる。雑誌っていうかパンフレットに近いかな。『ポジティブ』っていうのはHIVポジティブの人たち向けの雑誌だ。
あの日、私たちの間に決定的なアレが起こったあの日、私はマンションの共有スペース(共同パティオ)に居た。ヴィンセントと私は二人でローン・チェアに座っていた。共同パティオはヴィンセントと奥さんが住む1階の部屋の勝手口からすぐに出られるようになっていて、傍から見たら彼らの庭みたいに見えるが、大家さんが言うには2階の私にも使う権利がある。同じ家賃を払ってるんですからね。そう言われた。だから私は積極的に共同パティオを使うようにしている。カレンダーに印をつけて、彼らの使用頻度と私の使用頻度が毎月ほとんど平等になるように、たまに遅れを取って月末に駆け込み使用をしなければならないこともあるが、とにかく私はその日、月のパティオ使用頻度を揃えるためにヴィンセントが一人でいるパティオに座りに行った。
ヴィンセントと私は同業者だから、typo(誤植)の話ができるし、した。彼は仕事で何かやらかしたらしい。どういう状況だったのか、彼は説明する。一方的に説明ばかりする。僕は間違っているんだと思う? 彼はほとんど自動操縦モードで、それがどういう状況だったのか話し続ける。ねえ、君も僕が間違っているんだと思う? それは私が期待していた詩的な叙情を共有する類の会話ではなく、ヴィンセントは自分のことを一方的に話し続けて、私に質問することもなかった。そんなヴィンセントのことを――ねえ、僕は間違っているんだと思う?——、私は一瞬空を見て――こういう感じのことを一度やってみたかったのだ――、太陽の光を浴びて胸の中に湧き上がる悦びが神の祝福みたいで、そのとき私は思った、許します。わたしはヴィンセントのことを許します。こうも言った。ヴィンセント、あなたは何も悪くないわ。
そのときだった。ヴィンセントに癲癇の発作が起きた。私は気が動転して、とりあえず彼を椅子に座らせて呼吸を確認して、それ以外どうしていいのか分からなかった。意識を失っていても呼吸は思ったよりも規則的だったから、私は気が動転するまま、なぜだか一緒に眠ってしまった。そのとき私は夢を見た。夢の中でヴィンセントと私は愛し合った。どちらかというと、私のほうがそうされた。彼は私を愛してるといい、僕が妻と一緒に住んでいてもそれは変わらないのだと言った。
気付くと私はヴィンセントの奥さんに揺り起こされていた。ちょっと。ねえ発作はいつから。というか、あんたなんで寝てんのよ? 彼女は医療助手だから慣れた手つきで処置をした。私にも指示を出した。ビニール袋取ってきて。冷蔵庫の上。それで私は彼らの家に入った。冷蔵庫には二人の友人の子供たちの写真が沢山貼ってあった。私はその子供たち全てを愛したい気持ちになった。子どもたちの一人一人を眺めていたかった。カードのひとつはクジラの写真だった。その賢そうな小さな目にも見入った。海の底に沈んでいくクジラ死にゆくクジラのことを想像して、思いを馳せた。それから言った。あなたは悪くない。
ドアがバンと開いて、奥さんが慌てて入ってきて、冷蔵庫の上のビニール袋を取って急いで出て行った。彼女はヴィンセントに注射をし、生き返ったヴィンセントは彼女のキスを受け、二人は二人の世界。私が横を通ったことにも気づかなかった。
弁解
このあらすじは物語の筋に沿って、文体は元の雰囲気だけが残るようにして、私が書き直した。ホンモノは文体も凝っているしユーモラスでおもしろいのだが、それを部分的に損なうことを厭わずにあらすじとして書き直したのは、この小説が包含する階層構造を考えるためだ。メインとなるレイヤーを切り取って書き直した。
正しい vs 間違っている(レイヤー1)
冒頭には、神様に導かれて人は「正しいこと」をする、だとか、意識があると人は「間違う」とあるし、パティオでヴィンセントが執拗に「ねえ、僕は間違っていると思う?」と聞いてくる辺りなど、物語の全体を通して強調されているのが正しい/間違っているの対立概念だ。
だが主人公のいうことは基本的には信用できない。彼女の言うところの、神様に導かれるようにして想いを通わせ合った「正しい相手」とは、自分のことを気にかけてすらいないヴィンセントで、ヴィンセントは既婚者で、想いを通わせたというのは私の一方的な夢の中だし、その夢というのも、主人公が彼の癲癇の発作に対処することもできずに彼を放置して眠りこけてしまった結果でああるうえ、奥さんに指示されて注射器を取ってくるというおつかいすらまともにこなせていない。主人公に関しては始めから終わりまでなにもかも間違っている。
主人公がヴィンセントと同業者だと言い張るあたりも典型的だろう。デザイナーと印刷会社の事務の仕事はふつう同業とは言わないし、それらを繋ぐ唯一の共通点であった「雑誌」も、本当のところは「パンフレット」であった。Typoという言葉は日本語話者の私ですら誤記の意味で普段使用するほど、英語圏ではより一般的な言葉のはずだが、それを主人公が出版関係の専門用語だと言い張っているところも、主人公の認知のずれを際立たせている。
Typoやヴィンセントのミスといった小道具も面白い。間違っているのは私だけではなくて、ヴィンセントも大いにミスを犯しているのである。出版された雑誌のデザインで何やらミスを犯した上に、自分の間違いを正当化するために、ほぼ自分達の庭のようなパティオに一人で乗りこんできた風変わりな女を相手に一方的に話し込んで、「ねえ、僕は間違っていると思う?」と問い詰めることまでする。男性が女性に対して一方的に話し続ける現象は、マンスプレイニング(Mansplaining)という名前も付いているように典型的なマッチョ的行為であり、女性蔑視的だとして世間的にはアラートされているものだ。つまりヴィンセントもそれなりに間違っている。
私とヴィンセントはどちらか一方だけが間違っているわけではなく、互いにそれぞれの方法で間違っているのが特徴的だ。正しいと間違いの間に、主人公とヴィンセントの間に、共同パティオが置かれているというのも何とも気の利いた場所の設定だ。共同パティオでは、正しいと間違っているが混在し、入れ替わる。
共同パティオは、ヴィンセント夫婦の部屋のある1階にあって、ほぼ彼らの庭として機能しているが、主人公は大家さんから使っていいのだと言われている。彼らと同じだけ家賃を払っているのだから、その権利があると保証までしてもらっている。だから主人公が共同パティオを使うのは「正しい」。夫婦が自分の庭のように使っているのも「おかしい」。主人公の主張は正しいのに、彼らと平等にパティオを使うことに拘泥して、カレンダーに印までつけているのはかなり「おかしい」。パティオは物理的には夫婦の部屋と地続きにあって外見上ほぼ他人の領域に、一人で果敢に何度も突撃する主人公の様子を想像すると滑稽で笑ってしまう。ましてや主人公は、パティオ使用頻度の遅れを取り戻すために、ヴィンセントの居るパティオに一人で乗りこむことまでする。あらすじからは省略したが、その時のシーンには小ネタも沢山仕込まれていて私は爆笑した。一つだけ挙げるとすれば、主人公はパティオで日焼けをするために全身にサンオイルを塗って登場するが、季節はもう10月で肌寒く、服装を完全に間違っていた主人公は、ズボンを履きに部屋に戻る。戻ってくるとチノパンにはサンオイルの染みができていて、ヴィンセントは(批判的ではなく)そのことに言及する。
主人公のいう「正しい」は大抵間違っている。大家さんの保証してくれた「正しい」は行き過ぎた結果、「間違い」として出力される。だがそのさじ加減が本当は難しいことを、私たちは誰でも知っている。そうでなくても人は間違ってばかりいる。意識がある限り人は間違う。妄想ばかりの主人公の語りがそれでもリアルなのは、こうした人間のままならなさがあるからだろう。
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