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陰謀論者とゆかいな陽測論者

平沢進+会人
「HYBRID PHONON 2566」

ライブ1日目を終え、本日2日目。

Xでは色々な感想が飛び交っており、ライブの余韻とともに楽しんでいた。

しかしその中で、今回演奏された『1778-1985』という曲のアレンジ(歌詞変更)が不評で、その内容がまた露骨な陰謀論かガッカリだと話題になっていた。

人間の認知行動は、考えるより先に直感に従うという説があるらしい。
つまり、結論が先にあり、そう思ったり考えたりした理由は全て後付けであるというものだ。

わたしは直感的におそらく、こういった感想に反感を抱いた。ただファンである平沢進を擁護したいというより、単純にその言論に対して反発心を抱いた。

その“後付け“の理由をここで書いてみようと思う。


陰謀論とはそもそもなんだろうか

私は特別、陰謀論に詳しいわけでもない。
しかし、ナノチップやレッドピルなどが、陰謀論者と呼ばれる人々がよくそれらの言葉を使うことはなんとなくわかる。


免許証のチップで監視されているから電子レンジで破壊しろという投稿がこの間も槍玉に上がっていた。


しかし、『陰謀論』とはそもそもなにをさすのだろう?
たとえば相対性理論であれば、アインシュタインがこういった論を唱えたという具体的な理論があるが、『陰謀論』は内部の人間が使うというより外部の人間が、ある志向性の特徴をもつ総称して揶揄する際に使われる蔑称のようなものではないかという感じが私の中にはあるのだが、間違いだろうか?

平沢進氏も自分のことを陰謀論者であるとは言わない。
HSPもヴィーガンであることも自称しているが、そんなことは言っていないのだ。むしろ陰謀論者ではないとやんわりたまに言っている。
にも関わらず、どうせあれだろう陰謀論だろうという、共感のもてない思想に対する決めつけに過ぎない。

信仰の自由が適用されない陰謀論

前述した、免許証に監視用のチップが入っているという件だが、それはただの早とちりでしかないというのが正しいと私は思う。

陰謀論が、誰かの陰謀によって世の中は悪くなっていて、それから自己防衛しなくてはならないというのがあらましの信仰であるとするなら、私はその姿勢には賛同する。
なぜなら、人間社会は様々な人間の思いや行動や願いや意図で形成されており、知らぬところでコントロールされているということは正しいと私は思うからだ。

陰謀といえば、鰻屋がタレの匂いを外に放つのも客寄せの陰謀だし、テレビショッピングなどは手練手管で射幸心を煽り買わせるための陰謀だ。そこで財布紐をきつく閉じようと思うことは自然な防衛機能である。


しかし、私個人はマイナンバーや免許証に監視用のチップが埋め込まれているとは考えない。監視の方法が非効率的で動機がないからだ。

例え何らかの方法で秘密裏に監視されているとしても、私の自由な人生に干渉しないものであれば、便宜上管理や監視されるというのはソサエティに置いては当然だとも思うからそもそも問題ない。

5Gが人体に悪影響かどうかは、私には分からない。しかし、5G等電磁波除けとしてメルカリでただの金属片が売られているものを買おうとは思わない。

そういったものを買うのは陰謀論者というよりは、“騙されやすい人“くらいの感じでいいのでは無いだろうか?

それでは陰謀論者は事実と妄想の区別がついていない人達というなら、キリスト教を初めとする宗教や霊能力者などはどうなのだろう?

天国や地獄や幽霊が本当に存在するというエビデンスはどこにもない。
つまりは科学的に言えば間違いである点において、陰謀論者と言われている人々と同じだ。

何を事実と信じるか。
何を真実だととらえて生きていくかは人の自由であり、保証された権利。

それはちょうど人々が行き交う時、マスクをしてる人がいたりしてない人がいたり、髪を染めていたり、ヒールを履いていたり、音楽を聴いていたりする個人個人に最適化された信仰の体現と何ら変わりがない。

結論を言ってしまおう。


歌詞にレッドピルやナノチップという言葉が入っていたから、その意図や文脈もまだ読み取れてないけどこれは明らかに陰謀論で、それは芸術性が低く、くだらないという風に決めつけているあなたがくだらない

表現者がどんなものを聞いたりみたりして、どう思ったか感じたか、それをどう表現したのかを考えずにエッセンスやフラグメンツのみで裁判するという作品にリスペクトのない上から目線の下卑さが私は憎いのだと、ここまで書いていて判明しました。

昨今は陰謀論に傾倒しててガッカリという人は多く、

「じゃあユング心理学や神秘主義礼賛や超自然学的な頃の歌詞はなんで賞賛されてたわけ?」

と思うのだが。

無意識の海でみんなが繋がっているという考えはなんか美しいからOK!だけど今の陰謀論はありふれている頭の悪い人達の一味になってるからキモイ!
みたいな感じだろうか?

当時、ユング心理学も流行りで、色んな人が傾倒し始めた頃があったことを知らないだけなのだろうか?
同時期にフロイトの夢判断なんかも渡来してきて、フロイト派とユング派はお互いに理解し合うこともあったがバチバチやるときもあった。
それは個人のふるまいの問題であって、陰謀論がとか陰謀論者がとかって話ではないと思うのだが、私が勉強不足なのだろうか。

属性や見た目や立場で人の価値を測り、浅はかなレッテルを貼るという行動自体が、ありきたりな差別ではないかと私は思うわけだが。

もちろん創作というものは批判も自由であるが、それにもきちんと様式やロジックがなくてはそれこそ下らない。クレームに値しない。

それはただの罵詈雑言である。

おわりに

わたしはどちらかといえば陰謀論者と呼ばれている人よりも、陰謀なんて無いという悪魔の証明的エビデンスもなくそれに対してヘラヘラしてる人々が嫌いだ。
その無根拠な傲慢さや、尊大さ、下卑た眼差しが不快でならない。

ただ無理解な人種を虐げているようにしか見えない。その人種に対して、私が直感的に怒りを滲ませるのは、今まで理解されてこなかった私自身の人生の経験からかもしれない。

それを自省し、理解しながら私はこれからも生きていく。人が善意や悪意を裁く時、直感に従って二元的な立場を持とうとしてしまうものだと意識して。

『対局にかかれたひとふで書きの虚像』とはまさに時に狂人、時には陰謀論者として他者から貼られたレッテルなのだと私は解釈する。

対局にかかれたひとふで書きの虚像 虚像
私の虚像

『LOOPING OPPOSITION』の歌詞より


繰り返しを拒絶するという直訳のこの楽曲は、平沢進氏自身へ繰り返されるレッテルや無理解の目線への反発が描かれているように思える。

繰り返し繰り返される人々の決めつけや複雑な表現を簡略化しようとして圧縮して壊れる非可逆的なメソッド。
それに繰り返し繰り返し弁明をするも、相手からすれば決めつけきった平沢進への関係性は決して変わらない。
従順なものは従順に、陰謀論者だと思うものは陰謀論者であるという目線は変わらない。

それはその人達が、他の世界にも同じ目線を向け続けるということだ。

その繰り返しの悲しき連鎖を断ち切りたい。彼はそう言ってるのでは無いでしょうか?

共感します。


『LOOPING OPPOSITION 』の話から、最後にはこう締めよう。

私は陰謀論と非陰謀論もOPPOSITIONする。

どちらでもなく、私は今日の2日目のライブをただ自分の考えに準拠し楽しみ、平沢進氏の表現のウイルスと私の免疫機能の相互作用の火花をもって発火し、今後の私の人生や行動の糧にしたい。

という気持ちだ。

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