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熱いと感じるのは温度が高いから?

この間湯たんぽに沸騰したお湯を入れるとき、手にこぼしてしまった。
「アツ!」と反射的に声がでた。そりゃそうだ、沸騰したお湯は100℃もあるんだから。

…………。

本当にそうだろうか?これだけで終わらせるには勿体無い話だ。

何が熱いのか?

100℃のお湯を手にぶっかけると当たり前だがやけどをする。皮膚はタンパク質でできており、高温だとタンパク質が変性、水膨れもできるだろう。これは65℃くらいより上の温度だと起こるので、そのくらいの温度となるとだんだんと触ってなどいられなくなる。
余談だが生物系の研究をしているとき、培地を作成するときに60-70℃くらいの温度を肌感で測っていた(5秒触れるなら60℃くらいだなとか)ため、多少手の皮が厚くなった気がする。
だが、分厚い手袋をしてしまえば100℃なんて造作もない。製鉄等では分厚い手袋をして100℃をゆうに上回る熱を触っている。
では「アツ!」と言ったから熱いのか。これもまた微妙だ。どうやら熱いと声を出す頃にはすでに手は回避行動をとっている。脊髄反射というやつだ。脳がその神経をキャッチし、口から声を出す頃にはもうすでに熱いという信号は通り過ぎている。
となると、どうやら手に伝う信号が熱いのか?これもなんとも納得し難い。要は電気信号なのでこれ自体が熱いのかどうか。

おそらくこうやって細分化しても未解明な領域に踏み込むだけなので暫定的に結論を出すとすれば

私が熱いと思ったのだから熱い

と面白くない答えになるだろう。

主観的なアツさ

100度のお湯だと人類ほとんどにとって熱いだろうが、27℃という気温はどうだろうか。なんとも微妙だろう。個人的には暑くはない。人によっては22℃まで冷房を使う気温かもしれないだろう。
また、同じ100℃でもお湯とサウナだと全く違う。昔自分はなぜ同じ100℃なのにサウナには入れて沸騰したお湯ではやけどするんだろうと思っていたが、どうやら分子の衝突の仕方が答えのようだ。

ここで重要なのは客観的指標となる温度計が、我々にとって相対的な価値を生み出しているということだ。
例えば都心の27℃と北海道の27℃はまったく意味が違うし、東北人の私とすれば
「今日の東京は最低気温4℃で真冬並みです!」
ってニュースを見ると氷点下超えてもねえのに、とぼやいたりする。おそらく北国あるあるだと思う。

ここで問題としたいのは、我々の指標は温度計なのか、それとも体感なのかということ。我々は温度が表示されるから熱いと感じるのか、皮膚から電気信号が流れ熱いと感じるのか。実際考えることはない。こういった指標が社会に溢れている現状、私たちの直感はおざなりになる。風邪を引いて熱っぽいと熱があるが区別されてしまうように。

所ジョージさんの作った時計で大体の時間しか知らせない時計がある。文字盤に「大体2時」とか出る時計だ。
この時計が面白いのは、我々の体感と近いことだ。例えば大体2時でも1:53とデジタルで表示されようと人に伝えるときは大体2時と答える。この調子で温度計を作ったら沸騰したお湯には「熱い」と出るだろう、これは私が発した言葉とほぼ同じだ。
要は客観的なインターフェースを一つ取り除き、私たちの直感、体感に一歩近いデータを送っている。この発想はとても面白い。時計という特性上、これ以上大雑把にすることはできないだろうが、この技術的な「退化」は客観的指標にだけ囚われた我々をすっと直感に引き戻してくれる。

私はどう思うか?

「今韓国スイーツがアツい!」なんて特集を見ると果たして
韓国がアツいのか
韓国スイーツがアツいのか
スイーツがアツいのか
特集がアツいのか
読者、視聴者がアツいのか
さっぱりわからなくなる。
こう言った熱狂は誰がアツいのか、そのアツさを自分が保有しているのか見ていて心配になる。報道とか特集は主観性の集まりというより熱狂したものが熱狂しているだけで、そこにすでに主観性はない。ここにあとは自分がどう向き合うのか。私は熱狂しているのかを考える必要がある。

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