『スモール・イズ・ビューティフル』を読んで。

この本は、「脱成長の提唱」の原型であるという。この脱成長というのはあくまで方向性であり、この本は「豊かさ」のための本である(本来ほとんどの経済学の本はそうでなければならないが)。特にこの本は単なる数字だけの経済ではなく、ほとんど全ての経済活動について4部構成で豊かさの観点で語られている。メモしているとき「これは第何章のどこで」などは書いておらず、どの部なのかはここでは述べることはないが、この本をまとめて、またあらためて健康について考えていく。

経済学と英知について

これは1973年に発行されており、オイルショック前に書かれている。この本の後半にエネルギー問題について話されており、その危険性をいち早く説いたために有名になった。次の文章はこの本の冒頭である。

現代のいちばん重大な誤りは、「生産の問題」は解決ずみだという思いこみである。この思いこみにとりつかれているのは、生産現場から遠く離れ、職業上現場の実情にうとい者だけではない。経済の専門家、つまり世界各国の商工業の指導者、経済官僚、経済学の教授や評論家も同様であり、経済記者はいうに及ばない。こういう人たちは、他の問題についてはそれぞれ意見を異にするが、生産の問題は解決ずみで、この点で人類はついに完成の域に達したという点では意見が一致している。今いちばん重要なことは、豊かな国では「余暇教育」、貧しい国では「技術移転」だという。

 特に「完成の域に達した」という悦に注目したい。オイルショック前は、自由主義でありその後は新自由主義を主に採用している。この時点で何が完成なんだというわけであるが、そのような悦を感じてしまうほど盲目になってしまうのである。これはオルテガ著の『大衆の反逆』でも同様の指摘をしている。これは教育のところでまた別に考察する。
 この浅はかな考えによって、この時代は引っ張られてきた。そしてシューマッハはこれを次のように批判する。

現代は彼がいっている「軽薄な者が軽薄な者の手を引く」社会ではなく、軽薄な者が盲人の手を引く危険な社会だといってよいだろう。

また、ケインズの言う経済的進歩というものをこの本全体で批判している。ケインズの「悪いことこそ役に立つ」について次のように批判している。

 私は多くの証拠から判断して、今やこの陳述が文句なく誤りであると考えている。貪欲や嫉妬心のような人間の悪を意識的に増長させるならば、そこから必然的に出てくるのは、理性の崩壊だけだろう。貪欲と嫉妬心で動かされる人間は、物事をありのままに、完全な形の全体として眺める力を失ってしまう。そして、成功そのものがかえって災いになる。社会全体がこの悪に染まると、目を見はるようなことはできても、日常生活のいちばん基本的な問題を解決できなくなってしまう。国民総生産は急速に増えるだろう。統計の数字はそれを示すのに、生きた人間の実感はそれに伴わず、人びとはますます挫折感、疎外感、不安感などに襲われるようになる。やがては、国民総生産も成長を止める。科学・技術の進歩が止まるからではない。社会の中で圧迫されている層だけではなく、大きな特権をもつ層の中にも、さまざまな現実逃避の形をとった反社会的行動が広がり、これがじわじわと社会を麻痺させるからである。

そう、これが最近批判されている経済の悪き部分である。人の不幸によって経済が加速していく。経済成長だと上部で喜び、生の充実を失っていく。さらにその経済成長の過程はストレス、圧力の連続である。これをもって、「豊かさのため」と言うのであろうか?私の最近の経済学への批判は、「数値目標ばかりで豊かさのためという本当の指標を見失っていること」である。

そしてシューマッハは、経済においての英知の中心概念を永続性と説いた。そして、英知は道徳心と通じている。

欲望をかきたてたり、増長させたりすることは、英知の正反対である。それはまた、自由と平和の正反対でもある。欲望が増すと、意のままに動かせない外部への依存が深まり、したがって、生存のための心配が増えてくる。

面白いのは、自由主義において「自由との正反対」と言われていることである。「意のままに動かせない外部への依存が深まり」の文章から見るに、これは広告などの誘導などを「欲望をかきたてたり」の中に含めていると考える。自由に開かれた市場というものは、まるで選択を自分でしているかのように振る舞う。見えざる手とはまた違う、マリオネットのようなものではないか。

そして、知識人の英知の欠如に至る。現代の、一般的に「頭がいい人」に、英知はあるのだろうか。

 英知は無視されるどころか、拒否されてきたので、知識人の多くが、英知とは何なのかについてはほとんどわからなくなってしまった。だから、知識人は往々にして、病気を治そうとしてかえってその原因を作り出してしまう。英知を閉め出して、代わりに小利口さをもってきたために病気が起こっているのだから、いくら小利口な検査をしても、病気は治るものではない。(中略)
  この洞察によって人は、精神をないがしろにして物質的目的を追い求める生き方がいかにむなしく、本当の満足を得られないものであるかを知ることができる。欲望には限りがなく、無限の欲望は物質世界では満たすことができず、精神界でしか達成できないのであるから、このような生き方では、どうしても人が人と対立し、国と国とが対立する事になる。

では、この英知はどうやって育てられるのか。これはのちの教育の項につながる。

経済学の立ち位置

経済学に、英知が必要なことは述べた。では、その経済学はどのように使うべきであろうか。政治経済学の科目の設置について昔議論があったらしい。

ナッソー・シーニア[1790~1864]は、低い地位に甘んじる人ではなかった。就任講義で早くも彼は経済学の将来を予言して、次のように述べている。「それは道徳学の中で、誰からも魅力があり、効用も大きい優れた学科だと評価されるだろう。」彼はさらに、「富の追求は人類にとって道徳的向上の偉大な源泉である」と主張した。
(中略)ジョン・スチュアート・ミル[1806~1873]による経済学の性格づけは次のとおりであった。すなわち、それは「一つだけ切り離されたもの(学問)ではなく、より大きな全体の一環、他の全ての部分と密接にからみ合った社会哲学の一部門、したがってその固有の領域内での結論も、一定の条件つきでしか正しくない、それらは直接経済学自身の範囲内にはない諸原因からの干渉や反作用に制約される」のである。(中略)ケインズですら、それと矛盾したかたちで、「経済問題を重大視するあまり、もっと大切なことがらを経済学の必要の犠牲にしてはならない」と戒めている。

つまり、経済学というものの影響力についての懸念である。しかし、このような懸念はいつしか聞かなくなった。その代わりに、「経済的」なニュースを耳にするようになった。つまり、形だけの通貨である。元々経済というのは豊かさを円滑に巡らせるための方法であったのが、所得=豊かさと変化し、個々が所得を増やすことばかりを考えるようになった。よって、ほぼ全ての行動が「経済的」となったのである。この「経済的」というのはゲーム理論とほぼ同義である。自分がどれだけ損をしないように立ち回るかということでしかない。その裏にある物語や環境、というものは全くない。このことを次のように批判している。

このようなわけで、市場は社会の上っ面にすぎず、その意義はその時々の瞬間的な状態を示すことである。モノの背後にある自然・社会の事実にはまったく関心が払われない。ある意味では、市場というものは個人主義と無責任が制度化されたものといえる。買い手も売り手も自分だけにしか責任を負わないからである。

よくよく、「自己責任」「騙される方が悪い」などとある。確かに皆賢くなった方がいいとは思うが、そんな弱肉強食の世界を繰り広げたいのか。そもそも、そんな状況が作られているというものはおかしいとは思わないのか。

まあ資本主義では「努力して得たもので何が悪い」という風潮があるが、その努力によって人の何を奪ってきたか、ということである。また、「人のために」と謳っている人は一度でもカントの道徳法則を思考しただろうか。

続いて、ゼロ成長について。次のように述べている。

ごく一部の経済学者だけが、有限な環境の中で無限の成長はありえないことが明らかである以上、今後どの程度の「成長」が可能なのかという疑問を抱き始めている。とはいえ、この人たちとても、純粋に量的な成長の概念を脱却できてはいない。質的差異の優位を説かずに、彼らは成長の代わりにゼロ成長を主張しているにすぎない。つまり、一つの虚無の代わりに別の虚無をもってくるのである。

ゼロ成長とは、成長の枠組みの中でしかなく、これも豊かさという目的を見失っている。それがまた別の虚無である。私が思うに、脱成長というものはこのゼロ成長であってはいけない。脱成長を謳う本において、「豊かさ」の議論は失われてはいけない。それは、経済の話に限らない。人に影響を及ぼすもの、人に干渉する時、それは「豊かさ」のためであるべきではないだろうか。極論すぎるかもしれない。

教育という資源

富の基本的源泉が人間の労働であるという点については、誰しも異論はないところである。さて、現代の経済学者は「労働」や仕事を必要悪ぐらいにしか考えない教育を受けている。雇い主の観点からすれば、労働はしょせん一つのコストにすぎず、これは、たとえばオートメーションを採り入れて、理想的にはゼロにしたいところである。労働者の観点からいえば、労働は「非効用」である。働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。したがって、雇い主からすれば、理想は雇い主なしで生産することであるし、雇い人の立場からいえば、働かないで所得を得ることである。

まず、教育と経済学が当たり前のように結びついていることが嬉しい。前述の英知と教育というものと繋がっている。というより「-学」というものはあまり好きではない。「-学」というものは、その範疇を外れることができない。専門性というものは、素人のレッテルをむしろ許すものではないだろうか。専門性を追求することにより、他の分野の無知を許しているのではないだろうか。これはオルテガ著の『大衆の反逆』でも指摘している。

専門家は、世界の中の自分の一隅だけは実に良く「知っている」。しかしその他全てに関して、完全に無知なのだ。
(中略)彼は知者ではない。なぜなら彼の専門領域に入らない全てのことについてははっきりと無知だからだ。かと言っても何も知らない人間ではない。なぜなら彼は、一応は「科学者」であり、世界の中の自分の極小部分についてはよく知っているからだ。私たちは彼のことを学者馬鹿とでも言わなければならないのだろうか。事はかなり深刻である。これが意味しているのは、彼は自分では知らない全ての問題に対しても、無知な者としてではなく、自分に特有の問題について知者である人間として衒学的な態度丸出しで振る舞う御仁ということだからだ。

これはかなり強い文章だが、「この分野は専門家に任せたい」という文章はとても難しい文章である。無責任な発言はできないという立場を考慮したという見方(特にオルテガに言われせれば一般人ぶる)が一般的ではある。と同時に、無責任であり、さらにその専門だけが専門家(他に関しては全く無知)の人間に任せるだけである。しかしながら、その専門家の言うことはおそらく別の専門家の言うことと対立するだろう。その専門を立たせる方法は知っているが、他の何かを犠牲にする可能性がある。しかしながら、それはあるベクトルの幸福でさえ失わせる。では、幸福、豊かさを解く、さまざまな「専門」が混じった方程式を誰が解くことができるのだろうか。

 話が大幅にそれた。つまりこの本の大きな特徴は、単純な「経済学」ではないことにあると思う。何が大切で、何を動かさなければならないか。その点をしっかり見極めている。

さて、上記の文章では完全なオートメーションを理想としているが、それには機械化が必須である。現代においても機械の導入やAIによってオートメーションが進められているが、これについて次のような文章がある。

仏教徒の立場からすれば、機械化には二種類あって、それははっきりと区別しなければならない。第一は人間の技能と能力を高める機械化であり、第二は人間の仕事を機械という奴隷に引き渡し、人間をその奴隷への奉仕者にしてしまう機械化である。この二つを識別するには、どうしたらよいだろうか。

この文章は、イヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』ととても似ている。イリイチは分水嶺という言葉を用いて、さまざまな道具に対して1段階目、2段階目の区別をつけた。その第一の分水嶺は「問題解決」、第二の分水嶺は「依存、副作用、目的の転換」などと区別している。
 このように、どちらも同じ解を出している。

続いて、科学について。

スノー卿といえば、『二つの文化と科学革命』について語った言葉が思い出される。この中で卿は、「全西欧社会の人びとの知的生活はますます二つの極端なグループに分かれつつある……一方には文学的知識人がいる……他方の極には科学者がいる」と述べている。そして卿は、この二つのグループの間に「おたがいの無理解の溝」のあるのを嘆き、なんとかそれを埋めたいと語る。
 「溝を埋める」方法について卿が考えているところは非常に明快である。その教育政策のねらいは、第一に「できるだけ多くの最高級の科学者を養成すること」、第二に「一級の科学・技術専門家のもっと厚い層」を訓練して、補助的研究や高等の設計・開発に当たらせ、第三に並の科学者、技術者を「何千人となく」育て、最後に「科学者がどんなことを問題にしているかがわかるぐらいの科学知識をそなえた政治家、行政家および市民」をつくることである。

この時期、科学というものはかなり崇拝されている。だがここまでの崇拝は、なかなか今は聞こえない。聞こえないだけで、その傾向はまだまだ続いている。それは教育委員会で理系重視になったことからも言える。このIT社会で、理系がいらないなんていう人間の方が少ないであろう。しかし、この理系偏重はとても危険である、というのが主張であり、私も同意する。その理由を説明する。

だが、政治家や役人などを含めて、一般の人たちは本当は役立たずの人間、あえていえば落第生なので、少なくとも教育によって、いったい科学・技術の分野では何が起こっているのかとか、科学者が__スノー卿でいえば__熱力学の第二法則について語るとき、その意味ぐらいはわかるようにさせるべきだといった、不愉快な響きが卿の言葉にはある。そういう響きを与えるのは、科学者が、科学の成果というものは常に「中立」であって、それが人間社会を豊かにするか破壊するかは、もっぱらその利用の仕方によるのだと、いつもいっているからである。利用の仕方は、いったいだれが決めればいいのだろうか。科学者や技術者が受けている教育の中には、それを決めるための教科は一つもない。それがあったとしたら、科学の中立性などありえないだろう。

 私は科学の人間であるし、科学技術を否定することなどないと思う。しかしながら、その科学技術を使う人間というのはやはり大事である。私のいたところでは、技術者倫理という科目はあったが、むしろそれだけしかなかった。もちろん、退屈に聞くことだってできた。そのような状況で、科学技術を使う人間がまともに育っているかというととても疑問がある。そう、この単純な理系偏重は危険と警鐘を鳴らしているのである。

スノー卿は、熱力学の第二法則とシェークスピアの詩を同格にみている。しかしそれに対してシューマッハは前者は科学的探究の仮説以上のものではないのに対して後者は人間の心の成長についての重要な観念・思想が詰まっているとした。

人間が生きていくための思想は、科学からは生まれてこない。もっとも偉大な科学思想でも作業仮説にすぎず、特定の研究目的には役立っても、人間はいかに生きるべきかとか、世界をどう解釈したらいいのかという問題には役に立たないのである。したがって、人間が疎外感を味わい、迷いに落ちたとき、生きることを虚しく無意味と感じたとき、助けを教育に求めてみても、自然科学、つまりノウハウの研究からは解答は得られない。科学の研究に独自の価値のあることを私は過小評価したくはない。科学は自然界や工学的環境の中でものごとがどのように動き、働くかに関しては、多くのことを教えてくれる。だが、生の意味については何も教えてはくれず、人間の疎外感や内面の絶望をいやしてくれるものではない。

これが、万能に見える科学の最大の弱点ではないだろうか。だが危険な点はそれだけではない。

この期待が純粋な科学教育では満たされないことは前に述べた。世界を理解し、人生をいかに生きるべきかを学ぶことが必要なのに、科学教育ではただノウハウの観念・思想しか扱えないからである。特定の科学を学んだとしても、それでは人生の幅広い目的には特殊すぎる。そこでわれわれは、現代の大思想をはっきりとつかもうとして、人文科学に目を向けるのである。ここでも、自然科学の場合と似た、役に立たない狭い観念しか与えてくれない、専門化された学問に足をとられてしまうだろう。あるいは運よく、__これが問題なのだが__大先生にめぐり会って「洗脳」を受け、さまざまな思想__前々から精神が受け入れている例の普遍的「大」思想__を解き明かされ、世界の意義を教えてもらえるかもしれない。
 それがまさに「教育」の名に価するプロセスである。では今日、教育から得ているのは何であろうか。それは、世界は意味も目的もない荒地であり、その中で人間に意識というものがあるのは宇宙の偶然の不運というべきで、不安と絶望とが唯一の避けられない現実であるという思想なのである。かりに本当の教育によってオルテガのいわゆる「現代の頂上」ないしは「現代思想の頂上」にたどり着けたとしても、落ち着く先は虚無の深淵である。

長々引用したが、これほど気持ちのいい文章はなかなかない。先述の科学批判はもちろん、教育についても懸念を示している。特定の科学、物理学や化学、ロボット工学、情報工学、流体力学何でもいいが、人生はそれだけではない。つまりそれだけでは人生を語ることはできない。一部の人間は生物学を人生に当てはめるが、人間は生物学に簡単に収まるような人間ではないことは生物学者がよくわかっているはずだ。その対局、人文科学でも哲学、文学、考古学、歴史学といったものでも同様に語れない。

その次の段落に関しては、完全に理解できていないが自己流に解釈している。今日教育から得ているもの、というものは「専門」ではないだろうか。その理由として、前段落は専門の批判であり、現代の教育は「-学」の研究が最終目的、またその過程で勉強することになる。高校の文系理系から始まり、大学では学部に分類されるためである。本当の教育というのは「専門の完成」ではないだろうかと考えている。しかしその先にあるのは「虚無の深淵」である。
 では何が必要だろうか。シューマッハは次のように述べている。

われわれの世代の任務は形而上学の再構築だ、と私は確信する。まったく斬新な形而上学を創り出すべきだというのではない。また同時に、ただ過去の倫理学に戻ればすむというものでもない。われわれの課題__あらゆる教育の課題__は、今日の世界、現にわれわれが生き、選択を行なっているこの世界を理解することである。

これは多くの人間を導くためのものではないだろうか。私たちは、形而上学を再構築し、大人子供関係なく、この考えを広めるべきではないだろうか。

我々の今と、本当にすべき経済

さて、また経済の話に戻っていこう。今まで書いていたような、理想とは遠く離れている現実だが、特に現代はこの文章が興味深い。

成功した実業家が概して驚くほど単純な人間であるのも、偶然ではない。今述べた還元のおかげで、彼らは単純化された世界に住んでいる。彼らはこうした単純化された世界像によく合っているし、それに満足してもいる。ところが、真実の世界が時として顔を出し、彼らの目に新しい側面、彼らの見方には欠けていた側面を示すと、お手あげになり、まごついてしまうのである。

昨今では成功した実業家というものがネットで強い発言力を持っている。しかしながら、私はその大半は尊敬していない。その理由は上記の通り、単純だからである。能力はあれど、その使い方、振る舞いに「英知」や「道徳」を感じない。感じるのは「利己心」ばかりである。そしてその周りにいる人間も「利己心」「虚栄心」に溢れているようにしか見えない。

話が逸れてきた。単純な人間というものは、次のケインズの言葉のとおりであると思う。

あと少なくとも百年間は、いいは悪いで悪いはいいと、自分にも人にもいい聞かせなければならない。悪いことこそ役に立つからだ。貪欲と高利と警戒心とをまだしばらくの間われわれの神としなければならない。

この悪が、現在の実業家の多くに見られる。だがそれだけではただの炎上の的だろう。実際そういう人間も多いが、会社はそうもいかない。そのため、イメージ戦略をする必要がある。それについては次のようなことが言われている。

換言すれば、今日の資本家は、その活動の究極の目的が利益だけだという点は否定したがっているのである。資本家はいっている。「とんでもない、われわれは本当はしなくてもよいことを、労働者のためにたくさんしていますよ。田園の風致の保存にも努力してますし、採算を度外視した調査研究もやっていますよ」といった調子である。このような主張は耳にタコができるほど聞くが、正しいものもあり、正しくないものもある。
 ここでの問題は次の点である。いってみれば「旧型」の私企業は、利益だけを追求し、それによって企業目標を強引に一本化することができ、成功不成功の完璧な物指しも手に入れた。一方、「新型」の私企業は複数の企業目標を追求し、多面的な生の全体を考慮に入れ、けっして金もうけだけに専念しない(はずである)。だから、目標は徹底的に単純化されることもなく、成功不成功を測れるいい物指しももたない。

最近はこの「労働者のため」が「SDGsに沿って」とかに置き換わっていることだろう。結局、それが正しいかはきちんと見極めなければならない。少なくとも、我々は上部だけの「いいこと」をするわけにはいかない。

まとめと感想

長々と書いたり引用したが、まとめると次のようなことである。

・経済は、豊かさのためではなくなってしまった
・豊かさの研究には形而上学、そして非専門的に幅広い知識を得る必要があり、 今の教育にはない
・何のための経済か、行動かをあらためて考える

この文章を読んでいて、正直健康のことを忘れてしまった。思い返せば、この文章には健康について書いていない。達観的であるからだろうか。

しかし、そうであるからこそ健康は大事なのだろう。この文章にはなくても、これらは健康であるという前提がある。つまり、健康であったとき、何をすべきかの理由を提示してくれる。

健康を届けるものとして、健康を考えるものとして、重要な文章が多かった。



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