西洋哲学探究と美学
前回、サルトルの『嘔吐』を読んで虚無主義に陥ったことを話した。
「実存は本質に先立つ」というものを腹の底から理解した時に、本質というもの、真の客観的な善がないのではないだろうか。そんな結論に至った。
西洋哲学の流れ
西洋哲学を学ぶと言ったらギリシャ哲学から入ると思う。その哲学は「この世界はいかようにしてできているのか」という形而上学的な問いが多かったと思う。要は世界の真理、客観性とは何かということだ。代表されるのがイデア論だと思う。
また、倫理学もまた発展した。「人はいかようにして生きるべきか」という考えは2000年経っても必要だ。
だがこれらの哲学的問題に、一種の答えが出たように思う。実際には、私の中でこれ以上納得するもの、根幹が動くものっていうのは生きているうちにないのではないかと思ったものが二つある。
「この世界はいかようにしてできているのか」ということに関しては、「そう存在しているから」という実存主義的な考え方が現代には受け入れられる。
「人はいかようにして生きるべきか」ということに関しては、カントの道徳法則「君の格率が同時に普遍的法則となるように行為せよ」が答えな気がする。
私が虚無主義に陥ったのは、真理だったり客観性だったりどう生きるかという問題に対して、とてもあっさりした答えで西洋哲学が閉じられたことだと思う。まあ閉じたのは私だが。求めてきたものがとてもあっさりと、シンプルに記述されていることが悔しいんだと思う。
何がともあれ「世界はいかようにしてできていて、どのように生きればいいのか」ということに関しては補填的なところを除いて哲学書には当たらないかもしれない。
主観性の哲学
世界がいかようにできているかということ、客観性の哲学に関しては私は限界を感じた。だが、私個人が虚無主義に陥っていることは、客観性の哲学ではなく、もはや個人の哲学のことなのだ。「世界に意味がない」のなら、その世界の中で私はどう生きるかというものはもはや哲学というわけでもなく、美学の領域だと思う。ニーチェのニヒリズムの先の、超人思想ももはや美学の領域だと思う。
美学で生きる
友人とも話したのだが、哲学は生存には必要ない。むしろ絶望して死に至ることもある。だが、それは知の探求を喜びとしている人はせざるを得ないことだ。
そこに生きる意味を見出す哲学家たちはそれでいい。だが私のような中途半端な哲学家には、ここに「生きる意味」を見つけるのは危険な気がする。世界を知った上でどう生きるか。それは哲学とはまったく分離された美学であった方が良さそうだ。
哲学を分離させたのは、あまりにも哲学により過ぎると「私らしさ」が消えそうな気がするからだ。これは哲学の客観性に、自分が飲まれてしまうような感覚があるからだ。哲学的探求をしているとき、自分を対象にしている気がしない。あとはそれこそ、道徳法則や虚無主義を採用してしまうと持つ美学もなくなりそうな気がする。なので美学を考える時にはもうただ何もないところから、自らのセンスで、「どう生きるか」を構築すべきだろう。なんだかんだ、これが「実存は本質に先立つ」を表している気がする。
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