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医療人類学者と健康対話の難しさ

  • 医療人類学者を名乗ることにしたという経緯

  • 医療人類学者とは

  • エスノグラフィーという探求方法

  • 自分という区分

哲学的に健康について考えていく、という自らの探求が、どの学問に当てはまるのだろうと長らく考えてきた。自分の興味の始まりは予防医学だったが、決して予防医学の実践手段ではない、もっと生き方のことだと思って数年が経った。「健康の哲学」っていう分野があればいいのだがどうやらそこの層はあまり厚くなく。そんな中で出会ったのが医療人類学という分野だった。哲学的思想も含めて、社会の医療健康と呼ばれるものを統括して研究している分野だ。おそらく医療人類学の教科書的立ち位置である本、『医療人類学のレッスン』の中で

もし本書を通して医療人類学という学問分野に興味をもたれたら、わたしはあなたに医療人類学者になってみたらいかがでしょうか、という提言をしたい。

とのことだった。よって私は勝手に医療人類学者を名乗ることにした。これは人類学者様などから「失礼だ」と言われるまで自称しようと思う。

まず医療人類学とは何か

そもそも、医療人類学という分野がかなりマイナー分野だと思うので説明する。とはいえ素人ではなく、二人の医療人類学者から引用する。

・健康と病気を対象にした人類学的研究を医療人類学と 呼ぶ。
・人文社会科学に対しておこなった医療人類学の最大の 功績は「人類にとって医療とは多様な顔をもつ実践の 集合体であり、西洋近代医療はそのひとつの姿にすぎ ない」ことをさまざまな具体的事象(=医療民族誌) の提示を通して明らかにしたことである。(池田光穂)

人が生まれ、死んでゆく過程において、人々は自ら及び他者の身体をどのように気遣い・考えるのかを、それぞれの人の視点及びその人を取り巻く社会・文化、政治・経済的、歴史状況を鑑みながら、観察、聞き取り資料調査を駆使して明らかにし、その知見から人が身体とともに生き、死んでゆくことの意味を包括的に明らかにしようとする学問。(磯野真穂)

http://blog.mahoisono.com/whatismedicalanthorpology/

池田さんの文を解釈し、平易にしたのが磯野さんの定義となっている。私は工学の出身なので人類学の正しい定義はわからないが私が捉えるに「一人ひとりの、その人にとっての世界を考えていくこと」だと思う。池田さんのいうように西洋医学はある集団の採用しているいち医療でしかなく、世界の集落や村にはその独自の医療が存在している。それを非科学的だと否定するのではなくなるほどと認め、分析することが医療人類学のロールだと思う。

研究論文で主に引っかかるのは海外のある地域の健康思想が多く、日本はあまり対象にされていないように見えるが、それこそ日本も西洋医学の一枚岩ではない。地域はもちろんコミュニティ、健康法、そして個人の健康観ももちろん医療人類学の研究対象になりうる、と思う。

人類学者とエスノグラフィーと疑問

私の興味は海外の離れた農村というよりもネットで健康情報に困惑している方であったり、もしくは仲良くさせてもらっている地域の方々を対象に医療人類学的研究を行いたいな、と思う。で、人類学の研究手法としてあるのがエスノグラフィーである。
私も今住んでいる岩手県一関市について調査を行っている。こればかりは専門家に聞きたいのだが、医療人類学者とは、その地域で一緒に過ごし、観察して調査を行っていると思う。では、その医療人類学者はどういう立場なのか。地域の人か?それとも研究者か?そして完成する論文というものはどういった立場なのだろう、中立者か、それとも研究者か。

どうしてこんなことを疑問に思うかというと、繰り返しになるが私は工学、バリバリの理系出身で、書いた論文は謝辞以外は私事を絶対に持って来れない。完全に客観的立場から述べている。もちろん人間が書いているので真の客観性というものはないのだが、この医療人類学をはじめとした人文的な学問というものは、この真の客観的立場を取りうるのか、ということだ。正直、事実以上のことを書くとその人の味が出てくる。

医療人類学者と自分

どうしてこんな疑問を持つのかというと、その地域に住んでいても自分は自分だからである。医療人類学者として客観的にいる上で、自分が同時に存在している。
そもそもの自分というものは何か、というとレッテル的にはパーソナルトレーナーだ。科学的な情報をもとに、ダイエットのお手伝いや病気の予防の手助けを行う。しかし医療人類学、というものは決して科学に囚われない。フィールドワークで、その人が考える健康というものに寄り添う。数年前は「スピリチュアルだ、幻想だ」と頭ごなしに否定して浮いたものにも寄り添う。「あなたの健康に寄り添う」ことはもちろんいいことだと思う。しかし同時に私は科学的健康を提案したくなる。テレビなどでみたその情報はかなり信憑性が低く、怪しいぞと。元々私はおせっかい、もしかしたら相手にとってはありがた迷惑なことをやっているかもしれない。それこそ民族の健康観に他国の医療人類学者が口を出すものではない。そんなことしたら信頼関係を損なう可能性もある。それは日本でも例外ではない。人によっては、一種の宗教観に踏み込むようなものだ。
宗教観、これは健康の難しいところの一つである。初対面や、あまりしゃべったことのない人とどんな話題で会話すべきか、という問題がある。難易度が低い順から天気の話、普段の仕事の話で、最も難易度の高いものは政治、そして宗教だ。さて、健康の話題というのはどうだろうか。

健康の話題の難しさはどこから

難しいか簡単かを分析するには例の4つの特徴を理解したほうがいい。どうやら天気や日常というものは意見の食い違いなんてものは起きないが、政治宗教は意見が違うこともあれば、それが正しいという確証を持つことができないからどちらかが正しいという議論も終わらない。

健康はどうだろうか。まるで正しさがあるようで、実際は正しさはわからない。健康はどうしても結果がわかるまで時間がかかるため、そしてわかったとしても他人に当てはまるかは定かではないため、個人としての意見対立が起こる。これは昨今の状況を見ればわかるだろう。どちらかが正しいかを争ってしまうし、初対面でその話をすればもしかしたら弾かれたり、村八分にされてしまう。

健康についての話題っていうのは簡単そうで実は難しい。大っぴらに健康について語れるのは、同じ健康を共有しているグループだからだ。ヨガ教室っていうものであれば間違いなくヨガはその人たちに健康だろう。そこでの健康の会話は天気のように全員が共通認識でいるため難しくない。しかしその教室から、物理的にも仮想的にも足を踏み出した瞬間、そこは各々の主張が入り混じる空間が広がっている。しかも多くの人は自分の空の天気が彼方の天気と同じだと思い込んでいるようだ。医療人類学を学ぶと、どうやら世界は広く同じ天気ではないことがわかる。しかし天気が違うからと言って話せないわけではない。お互い歩み寄るために、医療人類学は存在すると私は思う。


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