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Kyoto Creative Assemblage: 「社会をよく見て、時代を表現する」時代背景編

Kyoto Creative Assemblageの前半にあたるPart1「社会をよく見て、時代を表現する」の講義のうち、時代背景にあたる内容をまとめました。講義からの学びの整理を目的にしているため、講義資料内で明記されている引用/参考文献を本記事では詳細に記載していません。また、山内裕先生の趣旨/主張を正しく汲み取れていない可能性もありますので、あくまで一人の受講生が受け止めた内容とご理解ください。

時代背景(と関連する用語)

  • 近代、現代

  • 文化、文化的エリート

  • アート、美学的資本主義、エステティック

  • 価値転換

近代、現代

・「近代 modernity」とは、(主張はさまざまあるが)18世紀末から1960年代ごろを指す(と捉えると理解しやすい)。

・18世紀末以降、後述の事象が背景となり近代を形成していく。政治革命(アメリカ独立、フランス革命)、産業革命、資本主義(アダム・スミス『国富論』)、啓蒙主義(カント「コペルニクス的展開」=人間が世界を構成する)、ニヒリズム(ニーチェ「神は死んだ」)、主客二元論(拠り所は人間の内面=主体であり世界は対象となる)、そして社会への批判的衝動としてのロマン主義(理性よりも感動、反逆者としての芸術家)。

・近代を総括すると、“人間中心の重く激しい近代”といえる。有限な人間が中心となったことで、本質(物自体)への憧憬や、到達できない深淵に駆り立てられる様を生み出した。

・現代(ポスト近代 postmodern)となる契機は、「大きな物語」の終焉である。その背景には、ベビーブーマーに富が流れたことによるブルジョワ支配構造の解体や、(生活への浸透の意味合いでの)技術進歩の成熟がある。大きな物語という枠組みに信憑性がなくなったことで、個人は社会のしがらみから自由になり「原子状」になった。これにより、個人は自力でのネットワーク構築に追われていく。

・現代を総括すると、それは“近代の持っていた重さの否定”である。権威は批判され、起源や本質は幻想だとみなされ、ひとつの世界に閉じられない。それゆえに、新奇ではなく「反復」、オリジナルではない「盗用 appropriation」や異質なものの組み合わせなど、“軽さ”が前面に出てくる。つまり、時代は“重さ”から“軽さ”の方向へと流れている。

文化、文化的エリート

・(KCAがいうところの)「文化」とは広い意味で私たちの“生活の様式”を指す。それゆえに、文化は私たち誰もの深い部分に根差している。

・文化は異文化(他者)との関係において現れる。例えば、食事で箸を使うことは、箸を使わない他者から指摘されない限り、当人はそれを文化とは意識していない(当たり前となっている)。

・つまり、文化とは他者との関係の定義であり、自分を/他者をどう定義するのかが焦点となる。“AさんのもつXという文化を、Bさんが説明する”という客観的にみえる行為自体も、Xという文化を構成して(しまって)いる。

・この他者との関係や定義づけのなかには、権力や「政治」が必ず潜んでいる。文化を扱おうとするのであれば、それを自覚的し、注意を払う必要がある。

・60年代、支配層/ブルジョワなどのエリートは、大衆という他者に対して正統文化を定義した。これを社会学者ブルデューは、自らを他者と差異化しそれにより自らを卓越したものとして呈示する「差異化=卓越化 distinction」という概念で説明した。

・しかし、この文化的エリート像は時代を経て変わってきた。高尚な正統文化を好むエリートから差異化=卓越化しようとする現代のエリートは、「雑食 omnivore」で、シンプルなものを好む。ここに“差異化=卓越化(60年代のエリート)を否定する差異化=卓越化(現代のエリート)”の構図が読み取れる。

・このような他者に対する差異化=卓越化は、エリートだけでなく誰もがして(しまって)いる。なお、ここでいう他者とは、支配的な文化・正統文化を定義する層だけでなく、直前の世代など多様な設定がありうる。

(以上のことから、“文化をデザインする”ことは、“既存の自分と他者の定義を変容させ、新しい自分を感じることができるような様式を人々に提案すること”といえます。なお、KCAでは、“文化をデザインする”ことを「新しい世界観をつくる」というフレーズに統一して言い換えています。)

アート、美学的資本主義、エステティック

・「アート」は18世紀中ごろに生まれた近代の概念である。それは技術体系であり、機械的アート(身体技術)と自由なアート(学問など)に大別される。「芸術(美しいアート)」は後者に包含される体型の一部であり、現在の「(芸術としての)アート」のように独立してはいなかった。

・18世紀まで芸術家は権力者の庇護のもの活動していたが、ロマン主義芸術により緊張関係が生まれ、19世紀のブルジョワ批判やアート市場の成立(新聞小説や演劇など)によって、芸術家/アートは自律していく。

・芸術家が権力や資本家への批判的態度を表明するなかで、3つの芸術が拮抗していた。①ブルジョワ受けする低俗な芸術(支配者と結びつく)、②社会的・政治的役割を果たす芸術(被支配者と結びつく)、③「芸術のための芸術 lʼart pour lʼart」(前者両方を拒否した新しい運動)。

・「芸術のための芸術」においては“市場での成功が芸術での失敗となる”、つまり経済原理を反転させた。その後の歴史はこの延長にあり、アートは資本主義を批判していく。

・効率のよい生産を第一義とする資本主義もアートを排除したが、その揺り戻しとしてアーツ・アンド・クラフツ運動が起こる。その後、商品に装飾を付与するなど、使用価値におさまらない過剰な価値を人々は重視するようになっていく(資本主義の美学化 aestheticization)。

・1960年代以降にこの流れは加速し、「美学的資本主義 aesthetic capitalism」と呼ばれる段階となる。人々は個性を求め、市場に取り込まれていない“外部”を求めた。その“外部”の源泉がアートであったが、それも徐々に枯渇し、批判性そのものまで商品化されていった(社会的マイノリティの発信するスタイルの取り込みなど)。

・市場やブランドというものに対する信憑性が薄れていき、2000年以降には“資本主義批判”が資本主義においての価値となった。それは、資本主義を批判するアート、そしてアートの持つ「エステティック/美学(=既存のフレームワークの宙吊り)」に価値が出ることを意味する。

・つまり、昨今のビジネス界隈で期待されている「アート思考」が本来為すべきは、創造性の獲得ではなく、資本主義の原理を宙吊りにしてしまうような自己破壊であろう。

価値転換

・価値とは、“何がよく、何がわるいのか”であり、そこには価値基準がある。イノベーションとは価値基準の転換であり、「〜なのによい」から「〜だからよい」へと転換する。

・「価値転換 transvaluation」を提唱したのは思想家のニーチェである。ニーチェは『道徳の系譜』のなかで、ユダヤ・キリスト教によってつくられた「君はわるい、ゆえに私はよい」という反動的で復讐心を持った怨恨(ルサンチマン ressentiment)の論理を批判した。この怨恨が内面化すると、自分に苦痛を与えることがよい、という奇妙な転換が起こってしまう(さらに、僧侶が発明した「罪」の概念がそれを助長する)。このような否定・反動は、復讐が目的となっており、自ら価値を創造してはいない。

・これを価値転換するためには、否定ではなく肯定しなくてはならない。たとえば、サイコロをふって期待した目がでなければ、また何度も振ろうとするだろう。そのとき、“次こそは期待した目が出てくれるはずだ”と超越的な原理をみてしまっている。ニーチェは「神は死んだ」、つまり世界は目的/真理を持たないと言ったが(ニヒリズム Nihilism)、サイコロのひと振りで出た目、その偶然性を軽く・遊ぶように肯定しなくてはならないと説く。

・冒頭の「〜なのによい」は、何かの真理を見いだし、否定的な反動のうえに成り立っている。他方で、「〜だからよい」は、そもそもこちらの方がよいと能動的であり、肯定している(比較は避けられないが、価値の原理は否定にない)。ニーチェが「偽なるものの最高の力」と言ったように、目の前の偽りに見えるもの(真理/本物から外れて偶然生まれた、と私たちが認識しているような事象)を軽視せず、「救済」することが重要である。

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