2 自分:支援のつまずきを機にカウンセリングを受ける

1 社内:社員の悩みを聞くようになって
https://note.com/welfare/n/n2a4e5790a509



研修の仕事に対してやるせなさを感じるようになった私は、
いつしか自分に「思考の歪み」があるのではないかと思うようになった。


私の思考は、普通の人の思考よりも被害的だと思う。
私は常に、誰も自分のことを理解してくれず、
一人で生きていくしないと思っていた。

前の項でも少し触れたが、
自分の周囲の人を誰も信じることができなかったし、
自分を大事に思えず、
給料をもらっても、「こんなにもらう価値がない」と思ってしまう。

利用者に尽くそうとして、近づきすぎ、甘えを助長したり、
それによって怒りを引き出してしまったり、
利用者の反抗と重なって怒りを受け止めながら、
「自分なんか価値がない」とより一層感じていく。

この思考が悪い方向へと深まっていくと、
私は仕事に対して投げやりになり、
支援の困難さと相まって仕事自体を放棄するようなこともあった。

人を信じて頼ることができず、自分で仕事を抱え込み、
結果としてパンクしてすべてを放棄してしまう。

これまで築き上げてきたものを壊すような行動が目立つようになったとき、私は自分の心の内なる失望や怒りと向き合わなければいけないと感じた。

そうして、
今も受け続けている臨床心理士によるカウンセリングを受けることに
決めたのだった。

私にとって今の職場は、とても大切な場所になっていた。
だからこそ、私は変わろうと思えたのだろう。

カウンセリングを受けたときは、子どもの頃の体験を言葉にしては、
生きていたくない、というような悲観的なことをよく言葉にしていた。

カウンセラーはその言葉に対して共感したり、
なぜ人生に失望するようになったのかを辿ったりしながら、
丁寧に私の気持ちに共感を重ねてくれた。

私なりに心理学を学んできたので、
どういう技術を使って応答しているのかはなんとなく感じられ、
心理学の技術の使い方みたいなものをリアルに学べることができて、
とても刺激的な時間だった。

その一方で、技術で言っている、と感じられたときは醒めたりもした。

しかし、人を信じることができてない、と気づいた私にとって、
自分の体験を隠さずに話すことに意味があるのだ。

話した後は毎回ぐったりと疲れたが、必要なことだと思った。

カウンセリングに行きたくないと思うこともあった。
自費でお金を払い、苦しい思いをして、心情を語る。

わざわざ時間をかけてカウンセリングルームまで足を運ぶ。
でもそれは全て「自分のため」にすることだ。

その苦しみも過程も労力も。自分のためにする、
という気持ちで行うから、意味があるのだ。

そうやってカウンセリングの回数を重ね、
私の気持ちが落ちついてきたころ、
私の心持ちと現在の福祉業界の問題が、
意外なところで繋がっていることに気がついた。

私はこれまで、
毎年のように仕事やプライベートで
何らかの問題を抱え込んでしまっていた。

たとえば、毎回のように困難な生活課題を持つ利用者が入ってきたり、
その対応に追われる最中にも研修があったり、
そうして疲労が重なって体調を崩したり、ということがあった。

「なぜ私だけ、いつも大変な想いをしてしまうのだろう」

と思っていたのだが、
カウンセラーと話をする中で、
私の「自己犠牲」の精神が
そのような問題を引き寄せてしまっていることに気がついたのだ。

カウンセラーの言葉の中にあった「自己犠牲」という言葉には、
響くものがあった。

確かに私は自分のことを後回しにしている節がある。
自分が大事ではないのか、というとそうではない。
でも、自然と自分をないがしろにする方向に、進んでいってしまう。

そうして日々を過ごす中で、自己犠牲にならない生き方とはなんだろう、
と思った。「私はやらない」という選択肢はない。

そういう物事がたくさんある気がしていた。

だから、「自己犠牲をやめるとはいったいどういうことなのか」を、
カウンセラーに聞く必要があった。

そこでの返答は意外すぎるもので、
「自分の本音を無視しない」ということだった。

でも、腑に落ちるものもあった。

私は「仕方ない」ですべてを片づけて、
自分の本音に耳など傾けていなかったのだ。

カウンセリングを終えて、
私が心の中で何を言っているのかにようやく耳を澄ませたとき、
心の中の私は、とても怒っていた。

「僕を無視するな。大変なことなんてしたくない」

子どものような私が、駄々を言っていた。
しかし、心の声を聞いてあげても、
それまで自分の本音と向き合ってこなかった私は、
だんだん疲れてしまう。

私はまたもやどうすればいいのか分からなくなってしまった。

心の声は「聞いてあげること」が目的なのではなく、
聞いて、理解をしてあげることが大切なのだ。

そして大人の自分と子供の自分が一緒に物事に取り組む。

心の中の自分と取り持っている自分が限りなく自己一致できるように、
自己対話を重ねながら、
自分が自身と協力し合う関係を結ぶということだった。

ただ、このことを理解した今も、私は自己との対話を模索中だ。

これを書いている直近では、
私は「しなければいけない」ことで
心が埋め尽くされていることに気づいた。

それはなんて息苦しい生き方だったのだろう。

もしかしたら、誰かの手によって心が損なわれてきた一方で、
実は私は自分の手で自分の首を絞めるかのように
苦しい方へと追いやっていたのかもしれない。

そのことに気づいてからは、
一度立ち止まって、
本音を聞くようにしている。

そして「どうなったら嬉しい?」と自分に聞いている。

とりあえずはそうすると落ち着くことに気づいた。

まだまだ手探りだ。
私は心の旅はもうしばらく終わりそうにない。

ここで少しだけ、私の経験をより俯瞰的な視点で話してみたいと思う。

どういうことかというと、「自己犠牲」の言葉に響くものがあったのは、
自分自身の内面に気づけただけでなく、
福祉業界の性格にも思い至ったからなのだ。
福祉を志す多くの人が「利用者のために」と、熱い想いを掲げている。

利用者のために働く姿勢は間違ってはいない。

しかし、その感情は自分を顧みない姿勢へと促してしまう。

そうすると、自分が何を感じているかがだんだん分からなくなったり、
余裕がなくなってきたりする。

でも、素直な感情が、支援のヒントになることはたくさんある。

利用者とのやり取りの中でイラっとするのは、
幼少期から蓄えた怒りかもしれない。
それは、距離感に気をつけよ、というサインだし、
「何かおかしい」と感じさせる人に対して「何を言うか」を考えるのは、
支援を形作る大事な要素だ。

しかし、「利用者のために」と支援者自身の感情に蓋をして、
利用者の言うことをすべて受け入れたとしたら、
それは支援者の善意と自己犠牲に寄りかかって成立する関係でしかない。

その支援者が欠けたら、
結果的には、
利用者の周りには日々の生活を支える人が途端にいなくなってしまう。

支援者が「自己犠牲」を続けた先に、最終的に困るのは利用者なのだ。

現在の社会は、福祉の技術や知識、利用者の権利ばかりが注目されて、
意外と「支援者自身を大事にする」ということは
関心度が低いのかもしれない。

福祉の技術とはつきつめると、
相手を理解し、自分を伝え、自分を大事にしつつ、
相手も大事にすることを可能にする
柔軟で豊かなコミュニケーション能力へと結びついているといえるのだ。


3 社外:SNSで悩み相談をするようになって
https://note.com/welfare/n/n2bd2ac187883?magazine_key=m8d74f67f43fb

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?