3 社外:SNSで悩み相談をするようになって

2 自分:支援のつまずきを機にカウンセリングを受ける
https://note.com/welfare/n/nee42a76c28db



カウンセリングを受けるようになって、
一番の変化は、自分の受けたカウンセリングのように、
利用者の話を聞くことができるようになったことだった。

「感情や常識で〇×をつけるのではなく、まずは共感を挟む」
というような心構えができたのは、
意外にも一番影響を受けた部分だと思う。

それができるなら、従業員にも話を聞けるだろう、
と面談でカウンセリングを意識して聞き取ったときに、手応えを感じた。

それによって、
仕事のつまずきの背景にある心理的な問題に目を向けながら
やりとりができるようになっていったのだ。

私の働き方自体が、
誰かのために何かをしようとする動機から始まったので、
これなら誰か困っている人の相談にも乗れるのではないか、
と関心がより外側へと広がっていき、
知り合いの相談も受けてみるようになったのだった。

多くの人が子育てや親との関係、
または恋人との関係や仕事の選択など、
いろいろなことで悩んでいて、
私はその話を聞いて、一緒に考えて、解決できる方法を探してみる。

自分なりの方法を見つけて、取り組んでいく過程を、応援していく。

そういったカウンセリング的な関わりを、
周囲の人に行うようになっていた。

SNSで悩み相談を始めてみると、
これまた、恋愛や子育て、
精神的な病気だったり、仕事だったり、
いろいろなことで多くの人が悩んでいた。

SNSでやりとりをするのは、とても手軽だ。

私がカウンセリングで体験したようなしんどさがあれば、
すぐに切ることもできる。

心の課題に向き合うことを支えるだけの関係性がそもそも作りにくく、
すぐに関係が切れてしまう。

また、「なんのためにこんなことをしているのか」と怪訝な反応をされ、
偽善だ、と批判をされることもあった。自己満足では、と。

また、過度に寄り添ってもらえるものだと期待をされたり、
問題を解決してもらえるものだと勘違いして話す人もいた。
「あなたに話して意味あるんですか?」と言われたこともあった。

私は別に料金など設定していない。働けない。働いていない。収入がない。そういう人にお金がかかるありきで話などきけるだろうか。
と思ったときに、ふと思ったのだ。

話を聞いてもらえる人間関係が周囲にあり、医療機関に通える人は、
その関係性があることで、
将来的には半ば問題が解決されることが見込まれる。

一方で、私がこうして話を聞いている人たちは、
そうした関係性のない孤立した人たちで、
こういう人が多くいて、社会的に注目されず、必要な関わりがなされず、
そして当人たちもどうしていいか分からない。

そのような人たちをこそ、手を差し伸べるべきなのではないか、と。

問題意識を感じたなら、まずは自分がやってみようと思ったのだ。
こういう誰かに手を伸べる働きかけがもっと気軽に、
フラットになればいいと思う。

「無償」にもかかわらず「一度手を伸べたら最後まで責任を」とか、
「丸抱えして面倒を見る」というような関わりは
きっと苦しくなって続かない。

その時々で、手を伸ばせる人が、
「大丈夫?」と声をかけるような気軽さで支え合えたらいいなと思う。

このように、いろいろな人の話を聞いてきて思ったことは、
仕事や人間関係などで悩んだときに、
適切に解決策が分かる人が周りにいない場合、
どうすればいいのか分からないまま
人生が行き詰ってしまいやすくなるということだ。

家族にも友人にも共感されない悩みを
誰もが抱えるリスクがあるにもかかわらず、
そういったことに世の中は無頓着というか、


当事者になるまで無理解でいられてしまうのがこの社会の現状だと思う。
ただでさえ情報は書籍、インターネットサイト、SNSなどで溢れていて、
必要なものが分かりにくくなっていることもある。

ある人の言っていることが、
また別の人と真逆であるというのもよくあることではないだろうか。

そうなると情報を求めても結局どうしていいかが分からないことになる。
理解ができたとしても、本当に正しい情報が分かりにくく、
物事に対して表面的な解決しかできないような状況ではないか。

福祉に関心を払わないまま生活ができてしまうという社会の現状は、
知的に障害のある人に理解を示さない人を多く生み出していく。
この構図は先ほど問題視した内容とどこかで結びついている気がしている。

たとえば、知的障害の人が何か事件性のあることをして、
ニュースで取り上げられたとしたら、その記事を目にした人には、
「知的障害の人は何をしでかすか分からず怖い人たちだ」
という偏見へと繋がってしまうとするなら、
知的な障害のある人への理解の仕方は表面的になり、
彼らのリアルな生活苦はテレビのニュースの向こう側でしか垣間見えず、
実際には当事者は孤立して苦しんでいく。

そのような流れはありはしないだろうかと私は危惧をしている。

社会福祉とは人への理解と悩みの解決を目指したものだが、
そのために必要なことはとても多くある。

障害について、心理について、制度について、
いろいろなことを理解する必要があるというのは、
これまでの章で書いてきたことだ。

障害の理解だけでは表面的なわりになってしまい、
結局課題が解決されないままで
困っている当人の人生の時間だけが過ぎていく、
ということが起こってしまう。

もしくはより一層利用者の状況は悪くなってしまうことがある。
私も失敗をしてきたが、
知的障害の分野の支援のやり方には
知的障害の人は見通しを立てるのが苦手だから、
日々の計画を立てれば支援ができる、という考えがあるように感じていた。

でも、考えるべきは、問題点そのものではない。
問題が起こる背景となる、これまでの育ちや心の在りようの方なのだ。

福祉とは、人に対して多角的に理解をして関わるということで、
それが障害や児童や各分野に枝分かれしているというだけで、
基本的にはどの分野にも共通するものはあると思っている。

総合的に人を理解する、
という視点は万人に通じるものがあるのではないだろうか。

実は悩み相談を募集したときに、精神的な病気や、
障害のある子供の育児など、福祉的な悩みを扱うことを想定していた。

しかし、実際には仕事や恋愛や人間関係や進路で悩む人が実に多くいて、
驚いたことに、その多くが、周りの人たちから孤立を感じていて、
一人で悩んでいた、相談はできている(人もいる)のだけれど、
答えが表面的で、何か明確になったような感じがしない。

悩みに至るまでの経緯に理解をしながら共感して聞く、
という社会福祉士からしたら基本的な傾聴を実に多くの人が求めていた、
ということだったのだ。

研修や面接に携わっていること、そして福祉的な支援などの経験から、
それらの悩みの解決を手伝ってこれた、
というのが私自身でも意外だったが、
いろいろな人の悩みを聞くというのは、
福祉の可能性を感じた体験でもあった。

このような、
話を聞いて悩みなどに答えていく技術は
会社からもらったのだと思っている。

つまりは社会との繋がりから得られた能力なのだ。
だから、できることなら、それは社会に返していきたいと思う。

一般の人の話を聞くことで、そういうことに寄与できるなら、
それはとても豊かな循環だと思うから、
私はこれからもいろいろな人を理解していきたい。
願わくば、私との対話を通して、
福祉の考え方に興味を持ってもらえたらうれしい。

可能なら、優しくされたり、理解をされた人が、
悩める他者に寄り添えるようになれたら、
社会は巡り巡って優しくなっていくのではないだろうか。

きっと、
この本を手に取ってくださった方は
福祉になんらかの興味がある方だと思う。

もしかしたらこれから福祉の仕事をするかもしれないし、
実際に仕事をしているかもしれない。

福祉を学校で学んでいる最中なのかもしれない。
そうした方は、きっと想いがあるのだろう。
福祉業界の実際は業務が忙しく、余裕がない日々かもしれないし、
自分の熱量と現場に温度差を感じることもあると思う。

私が言いたいのは、決して自己犠牲をよしとせずに、
自分の人生の幸せについてもあきらめないでほしいということだ。

自分が幸せだからこそ、他者の幸せも応援することができると考えている。

そして、福祉を仕事として見たときに、
たとえ想いが形にならない(評価されない)としても、
支援に磨きをかけることはどうか忘れないでほしい。

もしかしたら
技術と理想や現場の理解の仕方が
かみ合っていないだけなのかもしれないのだから。

前述したように、
福祉の技術というのは高めれば誰しもに通じるようにもなるのだ。

つまりは自分の力量としてちゃんと還元されているはずなのだ。
だから思ったようにいかないとしても、自信をもってほしい。

自分を信じてあげられるのは自分だけなのだから。

社会や他者から受け取る声に埋もれがちだが、ほかでもない自分の声も、
大事にしていいのだ。

福祉を善意だけが支えるボランティアにしてはいけないのだ。
だからこそ、福祉に携わる人は専門性を求めるべきだと思っている。

それは働く個人を、そしてその業界を、
関わる利用者を支えるために必要な、根幹となるものだと思う。

あとがき 技術と人間性の間にある支援を探して
https://note.mu/welfare/n/na39ffdb9f69f

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