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路地裏の雑文集 vol.8 レディバードは青春映画の幕の内弁当


映画の未来を担うのは、きっとグレタガーウィグとノアバームバックだと勝手に思い込んでおりましたが、まさか2人が夫婦になるなんて。


ますます、挫折や寄り道を許容できないマッチョで直線的な世の中になっていく中で、この2人はいつも、本来は不器用で不完全な人間というものを優しく肯定してくれます。

というか、「マリッジストーリー」観ました??


多くの場合、失敗と見做される離婚というテーマをポジティブに描き、新しい家族やパートナーシップの在り方を提示した名作ですので、あれは本当に必見です。


で、今回、路地裏からゴリ押しするのは、グレタガーウィグの初監督作品「レディー・バード」です。たぶんNetflixで配信しています。


「館長の文章、いつも長過ぎる」と、方々からお叱りを受けたので、今回は短くまとめていきたい所存です。

ちゃんと大人になったレディバードに拍手


「愛情を注ぐものほど、注意を払っている。細かく見えるもの」


主人公が散々っぱら、くそ田舎の地元の風景や鬱陶しい母親をディスったあとに、聞き役の修道女の口から出た言葉。この映画一番のパンチラインが炸裂してから、僕の涙腺は徐々に瓦解していきました。


青春映画と呼ばれるジャンルがあるとするならば、それを構成する要素を“全部乗せ”したような、青春映画の"幕の内弁当"的な映画です。それでも脂っこくなく最後まで美味しく頂けるのは、グレタガーウィグのセンスのなせる業でしょう。

主人公は、アメリカの片田舎サクラメント在住で高校卒業を控えた17歳の少女。口うるさい母親との衝突というか、激しいぶつかり稽古を縦軸に、親友との軋轢や恋愛でのほろ苦い失敗、学校という権威への反発、地元への嫌悪、膨れ上がるばかりの夢、などなど思春期特有のイシューが満載に挟み込まれながら展開してきます。


他者との比較、コンプレックスが引き金となり、自分ではない自分になろうと必死にもがく主人公の姿(仕舞いには自分のことを"レディーバード"という芸名で名乗る。マジで恥ずかしすぎる。。)が、痛々しくも瑞々しく描かれていきます。いまをときめくティモシーシャラメ様のムカつく演技ももれなくついてきます。


大人になる。

自分を受け入れ、他者への想像力を獲得すること。

だとすれば、生まれた場所→家庭環境→学校生活→友達づきあい→恋愛と、自分を取り巻く社会が拡張し、他者との摩擦が格段に増える10代後半は、当然ですが「大人」に近づく、またとないタイミングなんだと思います。

とはいえ、勘違いしてはいけないのが、黙って待って生きていれば、誰もが皆、その時期に順番に「大人」になれるわけではないということ。


自分をさらけ出し、内側と外の世界の落差に、苦しみ、もがき、呪い、悩んだ、その領分に応じて成長できるのだと思います。


そういう意味では、果敢に外部へ飛び込み、勝手に傷つき、不器用ながらも他者と全力でぶつかり、何かを掴もうとする、主人公の“生”への貪欲さに、僕は胸を打たれ、大きな拍手を送れずにはいられなかったですね。


そして、大人になることで、慣れ親しんでいるはずの景色が、また違った表情を持った景色として見えてくる。同じ世界が、また違う世界として立ち現れてくる。ラスト、主人公がNYから地元サクラメントに戻って、街中を運転するシーンは抱きしめたくなるほど好きです。


なんで若い時って、自分の近くにあるものや近くにいる人には価値を見出そうとせず、雑誌やテレビで見聞きした、自分より遠くにあるもの、遠くにいる人に、いたずらに価値を与え、憧憬してしまうのでしょうか。


道端に咲く花を綺麗と思えるかどうかは自分次第とはよくいいますが、年を取れば取るほど、目の前にある事物や身近な友人に輝きや尊さを見出せるようになるものですよね。不思議なものです。


僕は、若い時に戻れるって言われても、絶対に若い時に戻りたくない派です。「若さは、馬鹿さ」じゃないけど、若ければ若いほど、短絡的で、視野が狭く、偏ってて、横柄で、身の程知らずで、浅ましく、ただただ恥ずかしいからです。まさにレディバードだからです。


誰もが大なり小なり経験したことのある過渡期の揺らぎ。
普遍的なテーマの直球ど真ん中の映画。
大仰でない、心地よい感動が粋です。

さすがはグレタガーウィグ。

参りました。

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