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C/NE2周年に寄せて、 「口ずさむだけの歌」も大切にしたい話。


休みの日に限ってではありますが、近所のコンビニまでコーヒーを買いに行くついでに新聞を買うという謎の習慣をずっと続けております。

もちろん基本的に情報収集はネットやSNSで事足りているのですが、新聞を買うと10回に1回ぐらいの確率で、自分の興味関心領域の外から飛び込んでくる素敵な記事や寄稿に偶然出くわすことがあり、それが快感で止められないのです。

で、先日アタリくじだったのが、どっかの新聞朝刊に掲載されていた元柔道選手で現オリンピック組織委員会の山口香さんのインタビュー記事。

東京オリンピック開催の是非の議論を巡る中で、経済や政治の理屈ばかりを優先し、市民が主導のスポーツ本来の価値を軽んじ、「何が何でも絶対に開催する!」とゴリ押しを続ける政府やIOCに対して、山口さんが組織委員でありながらも勇気を持って内部から疑問を呈する内容でして、それがまあクリティカルだったのですよ。

ちょいと一部を抜粋します。

「コロナ禍に見舞われ、スポーツ活動が制限されるようになってから、私はスポーツの価値とは何だろうかと考えてきた。

運転中、台所、お風呂で、何気なく歌を口ずさむことがある。人に聞かせるわけでも、うまいかどうかでもない。ただ少しだけ気分がよくなる。歌は私の日常に根付いている。

一方、スポーツ界は、トップレベルばかりに価値を置いてこなかっただろうか。高い目標を持って精進することこそが素晴らしいとされ、口ずさむだけのスポーツは評価されず、勝利至上主義や体罰を生む土壌にもなった。スポーツが楽しいものとして根付いていたなら、五輪をアスリートのためだけでなく、(みなが)自分ごととして考えてくれたかもしれない」

スポーツ本来の価値を論ずる際に、「日常に根付く口ずさむだけの歌」を引き合いに出すセンスに膝を打つと同時に、C/NEが大切にしなければいけないのもやっぱり「日常に根付く口ずさむ歌」の方なのだよなと、いちいち自分ごとに引き寄せながら、しみじみと山口さんの言葉に共感してしまいました。

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C/NEは先日2月16日で無事に開館から2周年を迎えました。昨年1周年記念イベントを開催したのも同時期であったことを考えると、2年目はほぼ丸々コロナ禍とオーバーラップしていたことになります。

自粛要請が続き、行くも地獄引くも地獄で、運営の舵取りが困難を極めましたが、カレーの森さんはじめ、キクタローやなおちゃんらレギュラーゲスト陣の力や知恵を借りながら、騙し騙し、場所を枯らすことなく維持していくことができました。本当に感謝。

リモートワークが推奨され、皆さんの行動範囲が徒歩圏内に集約されたことで、学芸大学周辺に住むローカル勢が「学大にこんな場所あったんだ!」と僕らの存在を発見してくれて、頻繁に遊びにきて下さるようになったことは思わぬ恩恵でもありました。

とはいえ、C/NEの本来の存在意義としては、こちらが企画したものを一方的に発信して、それをお客さんに「楽しい、美味しい」と享受してもらうことだけでは片手落ちでして。やはり、この場所に来る人たちの、それぞれの中にあるカルチャーサイドの活動の機会を創ったり掘り出したりして、それができるだけ続いていくような環境を届けることまで含めての「路地裏文化会館」だと考えております。

上映する映画の作品が入れ替わるように、主役が毎回入れ替わり、さっきまでお客さんだった人が、次は誰かを楽しませる側にまわる。いつも主客が渾然として、いつも主客が反転するような、弾力に満ちた場所。

プロだとかアマだとか、それで生計を立てていくつもりなのか、そうでないのか、フォロワーが多いのか、少ないのかは、どっちだっていいのです。

武道館を満席にできなくても「日常に根付く口ずさむための歌」にも当然に価値が与えられるように、必ずしも経済として回収されなくたって、料理や音楽やスポーツやイラストや詩やZINEや器や古着やビールや写真や建築など、自分が最も自分らしくいられること、自分が真剣に追求したいことを、発信したり誰かと共有したり、それを続けていくことには十分すぎるほど価値があると思っています。

あとしばらく辛抱すれば春がやってきて、コロナとも上手く付き合いながらの、社会活動が再開となるはずです。きっとそれぞれの中に宿る表現欲求や共有欲求がマグマのように溜まっていることでしょう。

どんな些細な企みやチャレンジでも構いませんので、我こそはという方がいれば、ぜひ、C/NEをうまく使ってやって欲しいです。今年は、もっともっとお節介しながら、C/NEの本領を発揮してやりたいです。

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それにしても、もうそろそろ、産業化され収益化されないカルチャーを軽んじ、蔑み、稚拙なものとして見做す風潮は終わりにしませんか?

30代や40代になっても音楽フェスに夢中になる人、多摩川の河川敷でいい歳した大人が必死になる草野球や草サッカー、何年経ってもオリジナルソングの一つもなく往年の名曲のコピーに明け暮れる親父バンド、etc。

経済主導の時代の中では、「未練がましい」「子どもっぽい」「で、それ何の利益になるの?」と、何かと嘲笑され、いちいち後ろめたさを強要されなきゃいけなかった領域が、これからは逆に最も社会に必要とされる領域に反転するのではないかと踏んでおります。

会社や学校といった大きな組織の論理に自分を最適化していくという従来のライフモデルだけではいまいち満たされず、この度のコロナ禍でも旧来の価値体系がスピードを増して瓦解していき、個人が個人として、個人と結びつきコラボレートしながら勝手に学んで勝手に支え合っていく必要性が迫られる中で、カルチャーや市民スポーツはいよいよその真価を発揮する番だとすら思っています。

(そういう意味では、昨今のランニングやハイキング、山登りなどのカルチャー圏は、もう既にして産業から脱却していて、オルタナティブな価値を認め合い、それを純粋に楽しむ仲間が肩書きなど関係なくオーガニックに繋がり合い、ギアを中心にしたスモールビジネスまで勃興したりして、新たな生態系として時代の最先端を切り拓いてるように見えます)

毎度映画の例えで恐縮ですが、「mid 90s」にしても「シングストリート」にしても「ブエナビスタソシアルクラブ」にしても「花束みたいな恋をした」にしても、スケボーにしろ音楽にしろイラストにしろ、いつだってカルチャーはまず暮らしサイドのもので、誰でも受け容れる鷹揚な共有地帯となって、人を然るべき人に出会わせ、然るべき成長を促し、然るべき喜びを連れてきてくれます。何なら行政を介さないセーフティーネットとして機能する気さえします。ビジネスとして成立するかどうかは本来は副産物でしかないのです。

やはりC/NEはどちらかというのなら「日常に根付く口ずさむための歌」の方、シビックカルチャー(僕が勝手に作った造語です、笑)の芽に水を注ぎ続ける存在でありたいのです。

願わくば、そこから小さくても強い意志を宿した個人が立ち上がり、スモールビジネスのような展開が芽生え、そうした個人同士が互いに支え合う循環が街に次々と生まれたら、なかなかイケてる未来だなと妄想しております。

というか、学芸大学だけでなく、どこの街にも大なり小なり「文化会館」が必要だと思うのですが、どうなのだろう、違うのかな。

まあとにかく、C/NEの3年目もどうぞよろしくお願い致します。


館長より。


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