批判していいのは批判される覚悟のある奴だけだ
タイトルの元ネタは「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」
『コードギアス 反逆のルルーシュ』というアニメのセリフだそうです。
(観たことはないのですが……)
どうやら更に元ネタがあるようで、レイモンド・チャンドラーの小説『大いなる眠り』の中の一節から由来しているようです(https://moto-neta.com/anime/utteiinoha/)
他の作品に、こんなセリフもあります。
私の記憶にあるのは、ONE PIECE のこのセリフですが、タイトルを決めるにあたって未履修のコードギアスのセリフを参考にさせていただきました。
批判や反論が必要な場面があります。
例えば、「クリティカルシンキング」は学問やビジネスの世界で必要な姿勢とされます。
日本語に訳すと「批判的思考」です。
学問の世界に片足の爪先だけでも踏み入れた私としては、心掛けている思考の一つです。
「批判」と日本語にすると、少し穏やかでない印象がありますが、「正しさ」や「良さ・善さ」を追求するためには「批判的な姿勢」も必要です。
どんなことにも「そうですか」と無条件に受け入れるわけにはいきません。
たとえ、その発信源が権力や権威のある存在であったとしても、「おかしい」と思ったら反発する勇気も必要です。
そういう認識があるので、特に「強い」とされる相手には、結構噛みついちゃいます。
(怖がらないでくださいね!)
反応は様々で、受け入れてくれる人もいれば、不機嫌になる人もいます。
怒鳴ってくる人もいれば、「もう面倒くさい!」と言ってくる人もいます。
内心では、感情的な反応が来た時点で「小さいお方ですね」って思っちゃいます。
「面倒くさい!」って言われたら「逃げたな」って思います。
おっと、手が滑った(ここだけの話ですよ!)。
これには自戒も込めます。反論に対して感情的になっちゃいけねぇ。
さて、タイトルに帰りましょう。
「批判していいのは批判される覚悟のある奴だけだ」
その覚悟が自分にあるだろうか?と自問すると、必ずしも「ある」とは言い切れません。
私はまだまだ弱い。だから、批判することを躊躇してしまうことも少なくありません。
以下の記事を投稿した時も、かなり勇気が要りました。
最初は有料記事にしようと思ったのも、不特定多数の目に触れることを恐れたからです。
特に「萌え絵批判」や人気漫画の描写に関する主張は、Twitter等には投稿できませんでした。
必要以上に拡散されて、意図しない解釈から批判の的になることを恐れたからです。
つまり、「批判される覚悟」が十分になかったのです。
ここに、発信の難しさを感じます。
何かを主張することは、時に相容れない主張に立ち向かうことでもあります。
議論するためには批判的視点で物事を捉え、冷静に反論することが求められますし、議論の場にはそうした反論が受け入れられる土壌が必要です。
頭ではわかっていても、感情が一致しないのが難しいところ。
反論や批判に対して感情的になる人もいる。
自分だって反論や批判に感情的にならないとは言い切れない。
批判に耐えられる自信や精神力、知識や表現力が十分にあるとも言えない。
まだまだ未熟だなぁと自覚します。
ただ、黙っていられないときもあるもので……
といいますか、黙らない人になりたいのです。
社会の理不尽に対してノイズをたてたい。
上野千鶴子先生の書籍の帯を見て思いました。
* まだ書籍を手に取っていません。まだ受け止められる状態にないと感じるためです。(→ 本当に関心のあることはなかなか読めない)
ひとまず、「社会にノイズ」という言葉は心に残りました。
こうした形でご紹介するのも恐れ多いですが、出典を明記するために引用させていただきました。
長くなりました。
そう、批判を恐れると文章が長くなっていくのです。
当たり障りのない表現を考えていくと、回りくどい表現になったり、言い訳みたいな文章が増えていったり。不本意ながら。
それだけに、スパッと物事を言い切れる方は尊敬します。
覚悟があるのだろうなと。
覚悟がなく、鈍感なだけということもあって、その場合は批判されると感情的な反応が返ってくるのでしょう。そうはならないように心掛けたいものです。
射られます。ONE PIECE の山賊みたいに秒で。
……と、私としては少し強気に記事を書いてしまいましたが、日々、そんなことを考えながら発信をしております(くれぐれも怖がらないでくださいね!)
猫を噛む窮鼠になりたいのです。
たとえ弱くても、自分らしく生きるために、大きな疑問には立ち向かいたい。
誰もが素直に自分の意見を言えて、意見の違いをお互いに尊重できる世の中になることを切に願います。