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完全版、もしくは野暮な話

いつもしらないところへ
たびするきぶんだった

この言葉を口にするところから1日は始まる。それは、祈りの言葉でもあり無機質なチャイムかサイレンのようなものでもあった。

船は穏やかな海を漂っている。視界は良好。頭上には、目玉焼き、と名づけた太陽が燦燦と輝いている。やっとの思いで難を逃れ、得た安息も長く続くとさすがに飽きてくる。あらゆるものに名前をつけたなかの1つが、目玉焼き。
「今日はなにするー?」
マストの上にいる相棒(こっそり「たぬき」と名付けた)から声が掛かっても、すぐに答えは出ない。
「いまそれを考えているところー」
時間はたっぷりある。

いつもしらないところへ
たびするきぶんだった

持て余す時間の中で、言葉を転がしてみる。

いつもしらないところへ
だれもいかないところへ
いまもけせないところへ
あめのふらないところへ
うみの・・・

突風が吹き、驚いた相棒のけたたましい(ここで聞いている分には長閑な)鳴き声が聞こえた。びゅんびゅんという風の音が全身を包み込む。自然と、両手を広げてそれを受け止める。

ここに来る前の、普通の生活(ここだって今は普通の生活だけど、要するに難を逃れる前のこと)を憶えていないわけじゃない。朝の光、昼下がりの公園で見た木漏れ日、手をつなぎながら帰った夕暮れの匂い。ママにはときどき怒られた。いつもは優しいママの声が雨みたいに降っているのを聞きながら、こっそり窓を開けて外を眺めた。最近なぜか、そのことをよく思い出す。ママのことを思い出した後は、きまって猛烈に誰かと話をしたくなる。だから相棒に話かける。今まで出会ったひとや風景のことを。今まで出会ったそれらは、かけがえのない宝物だ。宝物をたくさん集めて、いつか、この船を宝物でいっぱいに埋め尽くしたいと思っている。
今日はどこへ行こう。明日はどこへ行こう。

いつもしらないところへ
たびするきぶんだった

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