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幸せな一日

私が今日幸せだったこと3つ。

・検査結果が少しよくなっていた。
・緑が目に鮮やかな街を歩いた。
・ドーナツを食べた。
・ハープを弾いた。

4つあったな。

ひとのしあわせ。どう感じますか。何も思いませんか。

弱っている時にひとのしあわせがなだれこむときがある。
私はほほえみながらみている、ひとのしあわせはうれしいが、しあわせは、サプリメントのような心地だ。1日3粒が目安です。過剰摂取にお気をつけください。しあわせのおすそ分けとはしばしばきくが、摂取しすぎると自分の根幹がぐらぐらする。私はこれでいいのか?私はもしかして不幸なのだろうか?私とは?……と。

ひとの不幸がなだれこんできてもそれはそれでつらい。
大変な災害をニュースで見て、SNSでとてもハッピーな光景を見て、深刻な社会問題を新聞で読み、人が「楽しかった!」と言うLINEを確認して返事する。どこにどう心を寄せたらよいのかわからず、すべてにぼんやりした目を向けていたら、しっかりしなさいと叱咤激励が飛んでくる。こちらはとっくにキャパオーバーなのだけれども。幸も不幸もしっかりと飲み込めない状態で社会に参加するのはいささか不安が募るが、しかたがない、自分の足で立つ。食べていく。

お世話になった親戚のおばさまが亡くなってさびしい。私の両親は存命で、家族内にすこやかなやりとりがある。祖母もいる(ふたりとも)。年老いていく人たちに私が一番心配されていてありがたくて縮こまる。私は何も出来ずに横になっているだけの日があるけれど「それでもええやんか」と励まされて、嬉しいどころかこわい、とてもこわい。
愛は得難い。
身内からの優しい言葉は大変に得難いものという場合がある。「それでもええやんか」の一言を渇望する人にとって私はサプリメント、いや、毒かもしれなかった。幸せな毒?そのように見えるのか?


私の不幸を誰も知らない。知らなくていい。

あなたの不幸も知らないようにします。知ったとしても、そっとしておきます。それで良いのではないですか。


自分と他人はちがう。同じ世界にいながら違う世界を生きなければいけないことがある。ありますね。「ひとのくるしみを自分のことのように思ってあげましょう」、を、しすぎた。「自分のくるしみをひとが引き受けてくれます」ということはないのだから、逆も、ない。なくていい。それでいい。私のしあわせもくるしみも他人に影響されて決まるものではないのだと、やっと、やっと、その思いに近づいてきたのか。

私は幸せであっていい。それだけを思うことができればいい。それだけ。
その先にひとへの優しさがあるのだろう。


向かいのおうちに灯りがともっているのをゆるやかな夜風に吹かれながら見ている。生きている。私はひかりがすきなのだろう、ひかりは生きていることのようだから。生きていることがなによりもしあわせだと思う。あまりに月並みな表現でしょうか。しかしそれは、ずっと変わらずに思うことです。

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