水曜日 - 4

割引あり

 眠っている間に雨が降っていたようで、温まったアスファルトから少し生臭い雨の匂いがむっと立ち昇ってきた。十条の駅前は特別空気が綺麗というわけではないけれど、やっぱり朝起きると一番に窓を開けたくなる。
 少し向こうの十条銀座で買い物をする人々の話し声、散歩中の犬の鳴き声、肉屋のコロッケやカフェのコーヒーの匂い。わたしより早く起きてシャワーを浴びた町が、日光を乱反射してきらきら光っている。ぼうっと眺めていると急に夢の中で見たような気がする懐かしいあの顔を、熱くて大きな手のひらを思い出してしまいそうになって、急いで頭を振り誤魔化す。
 鬱を見なかったことにすることはできないけれど、心躍るようなことで塗りつぶすことはできる。原因について考えるのはやめないまま、別のことで塗りつぶしていく。バイト、学校、友達、料理、えすえむ。
 塗りつぶしながらゆっくり噛み砕く。噛み続けていれば飲み込めるようになる、ホルモンみたいに。あ、ホルモン食べたい。給料が入ったらうららでも誘おうかな。重い脂が炭の匂いと混ざって口の中を満たす……想像。お腹が空いた気がする、それも肉以外では満たされないタイプの空腹。
 口の中に食べ物があるとき既に問題は解決されている、とフランツ・カフカが言っていたっけ。そう、とっくに飲み込んでいるのだ。食事も喉を通らないような激しい鬱はとうの昔に通り越してしまった。反芻してしまったり、味を思い出してしまったりするのはまた別だけれど、味がなくなるまで噛み続ければいいだけだ。この苦しみが未来永劫続くわけじゃない、どうせいつかは飲み込めるし、お腹は無限に空く。
 眠気と温もりが残る布団から名残惜しい気持ちになりながらも抜け出し、顔を洗って台所に立つ。今日の朝食にしようと思って仕込んでおいたオートミールに蜂蜜をかけて、行儀は悪いけど台所に立ったまま食べながら卵を割る。オートミールは乳製品と一緒に食べると美味しい、この食べ方が一番好きかもしれない。
 卵黄と卵白は分けて、卵黄だけ先にかき混ぜる。それから砂糖、油、水を順番に加えて混ぜていく。薄力粉をふるい入れるついでに、いつか神谷にもらったけどあんまり飲んでない紅茶のティーバッグを切り開いて入れる。三つくらいあれば充分かな。
 オートミールをもう一口食べて、咀嚼しながら卵白を混ぜる。電動だから泡立てすぎないように、きめが細かくて少し緩いくらい、でも泡立て不足だと穴が開くらしいからしっかり見極める。
 電動の泡だて器、使う機会もそんなにないのに買う意味があるのか……としばらく悩んでいたけれど、やっぱり買ってよかったし、こんなにすぐ使うことになるとは思わなかった。調理器具の多さは料理のバリエーションに直結する。
 シリコンのへらを使って卵黄の方にメレンゲを馴染ませていく。本当にメレンゲの気泡を潰さずにできているかはよくわからないけど、とにかく一気に型に流し込んで焼く。すっかり忘れていたオートミールの残りを少しずつ食べながら、きつね色になるまで見つめる。
 明日まで両親がいないので、家に来て遊びませんか。えっちなお誘い? と冗談半分のつもりで返すと料理を食べてもらいたいからです、と返信が来た。
 神谷が何を食べさせてくれるのかは聞かなかったし教えてくれなかったけれど、まあ何か作ってくれるならわたしも返さなきゃいけないよな、と思いながら材料を買い込んで、こうして朝から甘い紅茶の匂いが漂う台所で爪先を冷やしている。あ、着替えの準備してない。泊まりかはわからないけど、一応。
 洗い物を片付けて、それでもまだ焼き上がらないケーキを眺めながら煙草を巻いて火をつける。副流煙とケーキの甘さが混ざっていい匂い。煙草の匂いが移らないかは少し心配だけど、換気扇もあるし窓も開いているし多分大丈夫。紅茶だけじゃなくてレモンなんかも一緒に入れてもよかった、皮を擦り下ろしたらもっといい匂いになったかもしれない。
 焼き上がったケーキを取り出し、真ん中の円筒部分に普段は花瓶にしている瓶を刺して立て、完全に冷めるまで待つ。ちゃんと冷まさないと型から外れないらしい。その間に宿泊用の鞄に最低限の荷物を詰め、身なりを整え、手を二回洗う。きっと煙草の匂いは落ちたはず。
 ケーキ用のナイフなんかないから、食事用のナイフをさし込んで型から外す。成功した……んだろうか。でも少し潰してもちゃんと元に戻ったから、成功したのかもしれない。とりあえず乾いたお皿に乗せて、ラップで固定して、袋に入れて、鞄と一緒に後ろのコンテナに積む。倒れたって問題はないだろうけど一応。
 神谷の家がどこかは覚えていないので、とりあえず戸田駅を目指して走る。戸田に着いたら神谷が送ってくれた住所をもう一度見て確認しよう。途中まで迎えに来させてもいいし。
 まだ日中は夏みたいに暑くて、羽織っていたスカジャンを信号待ちの間に急いで脱いだ。ほとんど後ろを見ずにコンテナと鞄の間に押し込んでから慌ててギアを入れる。きっと本当はこんな軽装で二輪に乗るべきじゃないんだろうけど、まあでも原付だしな、と思いながら荒川を越える。荒川を越えたら戸田はすぐそこだ。
 川沿いの住宅街に段々スーパーや飲食店が混ざり始めて、信号待ちの度にどこかの家の昼食の匂いが漂ってくる。ああ、お腹空いた。神谷は何を作ってくれるんだろう。
 夏休み前に行ったラブホの近くで路肩に寄り家の位置を確認する。まっすぐ行ってコンビニの手前で左、突き当りを左、三つ目の曲がり角。一応今着くよと連絡を入れてまた走り出す。
 大きな団地の近くで二回曲がった辺りで見慣れた人影がうろついているのが見えた。あの身長の高さに若干猫背の姿勢、神谷だ。
「赤羽さん!」
「おはよう、神谷」
 エンジンを切ってから押して歩く。神谷は尻尾を振りながら家の前まで案内してくれて、やっぱり犬だな、と思う。家の前に停めて、荷物は神谷に持たせる。
 人の家に来たのっていつぶりだろう。うららの家にはよく行くけど、一軒家だとなんだか友達の家に来た気分になる。小学生の頃みたいだ。同級生の親に編み物を習うためにうちの母親を含む何人かが集まっていて、部活がない日はその同級生の家まで一緒に行って、母親の編み物が終わるまで待つ感覚。同級生の部屋で読んだ少年漫画、誰かの親が持ってきたお菓子の味、他人の家の匂い。
「こっちのリュックは部屋に置いてきますね、えっと……こっちは」
「ああ、それは神谷んちにお土産」
「え、そんないいのに、赤羽さんはご主人様なんですから」
「わたしがサディストであることと常識を持ち合わせていることはまた別の話だから……」
 部屋に鞄を持って行った神谷が戻ってくる前に袋からシフォンケーキを出しておくと、戻ってきた神谷がそれを見て嬉しそうな悲鳴を上げた。
「嫌だった?」
「嫌なわけないじゃないですか! 美味しそうです、ありがとうございます!」
 今すぐにでも食べたいくらいだと言うので、お昼ご飯の後に食べようか、と返したけれど、どうやらこれから餃子を包まなきゃいけないらしいので先に食べることにした。神谷にコーヒーを淹れさせてわたしはケーキを切る。わたしもお腹が空いているし、餃子を包む間我慢できる気もしないし。
「お、美味しい……赤羽さんが僕のためにこれを……」
「ご両親にもね」
「嬉しすぎます、ありがとうございます」
 簡単だったからまた作ってあげるよ、と言うと神谷の後ろで見えない尻尾がぶんぶん振られた。催眠では猫になったくせに、こう見るとやっぱり犬なんだよなあ。でも確かに美味しくできてよかった、絶対にまた作ろう。
 お互いに一切れずつ食べて少し空腹を凌いだところで餃子を包む作業に入る。前回のゼミ会のときに作り方を教えてもらっていたらしく、手作りの生地を小さな綿棒で伸ばしていくので、わたしはそれをネットで見た包み方で適当に包み、ぐらぐらに煮立ったスープの中にどんどん放り込んでいく。
 残りは焼き餃子にしましょうと言うけれど多分普通に焼いても無理だと思うので、火をつけたらいつもより早く多めの水を入れて様子を見る。でもゼミ会で食べたやつ美味しかったし、きっと焼いても美味しい。
 焼いている間に火が通った水餃子を二人分器によそい、神谷が切ってくれた少し太めのしょうがを上に乗せる。わたしが苦手だと言ったからセロリは入っていないらしい。入っていても美味しく食べられないことはないけれど、気遣いはありがたいので黙っておく。うーん、いい匂い。
 いただきます、と言い合ってからまだ熱いままの餃子を吹いて冷ましながら口に運ぶ。猫舌の神谷はもう少し待つらしいけど、私はとにかくお腹が空いて仕方がない。つるつるもちもちの厚い皮、味がしっかりついた肉、じゅわっと溢れてくる肉汁。かなり美味しい、多分ゼミ会で食べたのよりもずっと。
「ど、どうですか」
 緊張した様子の神谷が恐る恐る訊ねてくる。
「美味しいよ、凄く」
「よかった、えへへ……嬉しいです、喜んでもらえて」
「本当に美味しい、わたししか食べないのがもったいないくらい」
「あ、そうですね、次は青山さんや吉田と一緒でもいいかもしれません」
「でも今日のところは二人きり?」
 真っ赤になって下を向く。ああ、わたしのマゾが今日も可愛い。こんなに可愛い。そろそろ冷めたかと思って少しかじってみるけど全然熱くて食べられてないのも可愛い。可愛いなあ、神谷。
「れんげの上で割ったら早く冷めるんじゃない。小籠包みたいに」
「れんげの上でですか?」
 そういえばこいつ不器用なんだった、と思い出して立ち上がり、椅子をずらして神谷の隣に座る。そうして神谷の手かられんげを奪い取って、箸先で割ってみせる。そうしてついでに吹いて冷ます。
「ほら」
「あ、う……ご、ごめんなさい」
「えっ何で……?」
「駄目駄目だなと思って」
 何がきっかけでそう思ったのかまるでわからないよ、と思いながら餃子を半分に切り分けて神谷の口に突っ込む。
「熱い?」
 ちょっと驚いたらしい神谷がわたしを見ながら首を振り、熱くないです、と返す。
「別にどうだっていいんだよ、神谷が駄犬でも。わたしが補えばいいさ」
「駄目ですよ、僕だって赤羽さんの役に立ちたいですもん!」
「一人で飯食えるようになってから言いな」
 もう半分を神谷の口に入れ、自分の分も食べる。それはそうですけれど、とか何とかもごもご言いつつも嬉しいみたいで強い反論はできず、次の餃子を割って冷ましている間も大人しく座っていた。
 あ、焼き餃子の様子を見てない。確認すると水分は蒸発していい具合に焼けていたので、大きめのお皿にまとめて出す。手作りの皮だからか自然と羽根つきになった、美味しそう。
「焼き餃子、もう少し頑張って皮を薄くしたらよかったですね」
「そう? でも餃子って本当はご飯と一緒に食べるものでもないしね、このくらいが普通じゃないかな」
「そうでしょうか……」
「いいんだよ。わたしは好きだよ」
 神谷はまだ自分の作った皮の出来に納得していないようだったけれど、わたしが美味しいと言いながら食べたら気にならなくなったみたいだ。実際美味しいし。
「この後どうしましょうか」
「んー……何かしたいこととかある?」
「いえ、特には」
「じゃあ部屋でだらだらしようよ、早めのお風呂に入ったっていいしさ」
「お風呂!」
 お風呂の話をすると神谷が今までよりも嬉しそうな反応をした。二人で入れるだけの余裕があるかはわからないけれど、まあ駄目だったらあのラブホに行くのもありだろうな。今日は暖かいから歩いて行けるだろう。
 わたしが食器を洗う間に神谷がお風呂を掃除してくれるらしく、わたしは他人の家の台所に立つことに少し変な気分になりながらも洗い物を済ませた。お風呂場の方からはお湯を溜める音が聞こえてくる、掃除が終わったらしい。
「あの、お風呂で煙草吸ってもいいですよ」
「え、いいの?」
「はい、この前のTwitterの写真見ていいなと思ってて……」
 Twitterに写真なんか上げたっけ……あ、媚薬風呂の時かな。宮野先輩と一緒に写真を撮ったような気もする。ふーん、羨ましかったんだ。可愛いじゃん。気持ちいいことの方よりも一緒にお風呂に入ったことの方が羨ましいんだ。

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