木曜午後二時半

割引あり

 壁と床が白い講義室だったから、全身が真っ黒の赤羽先輩はひときわ目立った。人の少ない講義室で先輩は前の方に座っていて、ぼくなら普段はあんまり座らないところだけれど、何となく先輩の隣に座りたかったから近付いてみた。
 先輩はイヤホンで音楽を聴いているみたいだった。話しかける勇気もないからただ黙って座るだけだ。先輩は向こうの端に座って真ん中の座席に荷物を置いているので、ぼくは床に荷物を下ろして反対側の端に座る。三人がけの席に二人きり。でもきっと問題ないくらい学生の人数は少ないと思う。
 隣に誰かが座ったことに気付いた先輩が頭を動かしてこっちを見た。それからイヤホンを片方だけ外して、東森さん、とぼくの名字を呟く。先輩がぼくの名前を覚えていたどころかこうして呼んでくれるのが嬉しくて、にやけそうになるのを必死で我慢する。変な顔になってないだろうか。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 挨拶をしてみたら普通に返してくれたけれど、先輩の顔からは感情が読めない。誰の顔を見ても何を考えているかなんてよくわからないけれど、先輩は特にわからない。ただちょっとだけ顔を傾けたので、もしかして不思議がっているのかもしれない。
 そのまましばらく見つめられたけれど、ぼくも黙って先輩のことを見ていたら目線を外してスマホを操作し始めた。音楽を止めたらしい、もう片方のイヤホンも抜くと鞄をごそごそし始める。
「結局オカ研はやめたんですか」
「あ、はい」
「新しくどっか入ったりとかは?」
「今のところは考えてないです……」
「そうなんですね」
 何を話したらいいかがわからなくて当たり障りのない返事になってしまう。飽きただろうか、つまらなさそうにしてないか、と思って様子を窺っても先輩は特に変わった様子もなく、ごそごそしていた鞄の中から目当ての物を探り当てたみたいだった。
「東森さん、グミ食べますか」
「いいんですか?」
「もちろん。はい」
 口を開けて待ってしまったぼくと、自分で袋から取り出すと思っていた赤羽先輩の間で少し時間が止まる。どうしてこんなことをしてしまったんだろう、と恥ずかしくなってしまった頃に動き出したのは赤羽先輩の方で、袋の中から一つ摘まみ上げると、ぼくの口に指が入らないよう、どこにも触れないよう気をつけながらそっと舌の上に乗せてくれた。
 きらきらの酸っぱい粉がまとわりついたグミだった。ぼくが食べる様子を観察している先輩の指はさっきグミを入れてくれた時のままだ。その指を見ているとどうしてかはわからないけれど、どうしてもあのきらきらの酸っぱい粉がついた指を舐めて綺麗にしなきゃいけない気がして、棒付きのあめみたいに一舐めする。突然そんなことをされたのに、先輩は嫌がる素振りも見せなかった。ただぼくがどうするのかを、あの眠そうな目でじっと見ているだけだった。
 ぺろぺろ舐めて、吸うように咥える。先輩の指、甘くておいしい……気がする。どこからか香る甘い匂いが少し強いせいかもしれない。心臓がどきどきして先輩のことを直視できない。いい匂い。美味しい。
 先輩はゆっくり手首を返して、上に向いた指をちょっと曲げると、上顎を優しく撫でてきた。今まで全然知らなかったけど、上顎をくすぐられるのってぞくぞくする、勃ちそう。気持ちいい。お腹の奥がきゅんと疼いて、理由はわからないけど涙が滲んでくる。
 舌を挟んだり撫でまわしたり、上顎を撫でたり、気持ちいいところを探るように、気持ちいいところを作るように口の中を撫で回されて、溢れてきたとろとろの唾液を何度も飲み込んだ。抜けていくときに思っていたより長いのがずるっと出ていくからびっくりしたけど、ぼくの唾液で濡れた指を見た先輩が目を合わせて、見せつけるようにその指を舐めたとき、腰の奥が甘く疼いて仕方がなかった。
 疼きにぶるっと震えたぼくのことを見た先輩は片頬を上げて笑う。さっきまでは何を考えているかわからなかったけれど、今ならよくわかる。先輩、嬉しいんだ。先輩の鋭い目と目が合って、なぜか安心と同時に背中がぞくぞくする。
「犬みたい」
 ウエットティッシュで指を拭く赤羽先輩に正面から見つめられてそう言われると、急に恥ずかしくなって黙り込んでしまう。最近はあんまり上手にオナニーができなかった。どうにかして気持ちよくなろうとしても疲れるだけで、あと一歩のところで刺激が足りなくてやめてしまうことが多くなっていた。
 そうして赤羽先輩が過呼吸のぼくを抱きしめてくれたことや、茶道部室で手を握ってぼくのことを落ち着かせてくれたこと、部室で実際に何をされたかはあんまり覚えていないけれど、そんなことばかりを思い出すようになっていた。先輩のことを考えて、そのまま眠りにつく。
 だからこんなことをしたのかもしれない。先輩に媚びたかっただけ、先輩に……甘えたかっただけ? でも人の指を舐めたのは初めてだし、赤羽先輩にだけです。全部上手く出てこなくて胸の辺りに詰まって、段々呼吸もできなくなってくるような錯覚に陥る。
 赤くなった顔を見られたくなくて、詰まった言葉が吐き出せずに苦しくて、下を向いてできる限り縮こまる。髪の隙間から先輩が少し首を傾げてぼくを見ているのがわかる。謝らないと。突然変なことをしたから謝らないといけないのに。
「大丈夫」
 大丈夫? と尋ねるんじゃなくて、断定の大丈夫、だった。大丈夫。決して大きくないけれど力強い声にそう言われて、胸の詰まりが少しずつ消えていく。大丈夫、大丈夫。
 先輩は凄くいい声だけれど、ただ声がいいだけじゃなくて、説得力があって脳に直接響く。何にもないのに泣きそうになる。鼻の奥がじーんと痛くなって、でも泣くわけにいかないから、溜まってない唾液を何度も飲み込む。赤羽先輩にじっと見つめられて恥ずかしいし、早く大丈夫ですって言わないと。言いたいのに。
「気分悪い?」
 慌てて首を横に振る。
「上手に言葉が出てこないだけ?」
 見透かされて心臓が止まりそうになる。どうしてわかったんだろう、とにかく反応をしなきゃいけないと思って頷くと、そっか、といくらか優しい響きで先輩が返してくれる。
「大丈夫ですよ」
 何が、とかどうして、とか具体的なことは何も言わない。でも大丈夫、と言われる度に安心する。大丈夫、先輩が大丈夫って言ってくれるから。そう考え続けると本当に大丈夫な気になってきて、涙もいつの間にか引っ込んでくれた。
 気付けば講義室にはぼくたち以外の学生が増えていて、そうしているうちに先生がやってきた。チャイムが鳴って、講義の説明が始まる。
 文学の講義だと思って取ったけれど、音読がメインらしい。優しそうな先生だったけれど、少人数とはいえ人前で音読することに抵抗を覚えて、どうしよう、この講義取るのやめようかな、と思い始めた。
 でも今日からもう作品を読むらしくて、短編が印刷されたテキストが僕のところにもまわってきた。テストやレポートはないらしい、それは楽だからよかったかも。でも音読、音読はちょっと自信がないかもしれない。
 国語の時間が嫌いだった。物語を読むのは嫌いじゃないけど、音読をするのは嫌だ。初めての漢字や連続した文章を読むのにつまずいて、ふりがなが振ってあってもイントネーションが正しいかわからなくて、もし間違っていたら笑われるんじゃないかって思うとまた胸の中に不安が詰まり始める。息が苦しくなる。
 先輩の隣に座りたかったのはそうだけれど、こんなに前に座らなきゃよかった。先生の目の前、こんなに近くで、後ろの人からも視線を感じて、こんな環境で読まなきゃいけないなんて。それに多分、前の席のぼくか先輩から音読を始めるんじゃないだろうか。週によって変わるだろうか。
 先生が赤羽先輩のことを指名する。一番最初がぼくでなくてよかった、よかったけど先輩は大丈夫だろうか。先輩は緊張しないんだろうか……と思っていると、先輩は落ち着き払ったまま、普段よりも大きな声でゆっくりと文章を読み始めた。先輩、やっぱりいい声をしてる。ずっと聞いていたい。
 しばらく読んで、それから先輩の後ろの人に移る。そうするとぼくが最後だろうか。どきどきしながら順番が回ってくるのを待つ。今どこを読んでいたのか一瞬わからなくなる。緊張する。失敗したくない。知らない人の前で恥をかくのはいいけど、赤羽先輩の前でかっこ悪いところを見せたくない。
 とうとう次がぼくの番というところまで来て、急にどこまで読まれたかがわからなくなってしまった。先生は別に急かすことも怒ることもないけれど、一人で勝手に焦って頭が真っ白になる。
「ここ、『どうせ、私は不仕合せなのだ。』から」
 先輩の黒い爪が文章を指す。どこまで読まれたかがわからなかったから黙っていただけだけれど、自分の読む場所と、ついでに読めなかった漢字も先輩の声で教えてもらえて、さっきよりは少しだけ落ち着いた。
 喉がかすれて声が震える。心臓の音で自分の声がかき消されて、ちゃんと読めてるかどうかさえわからない。熱が出た時みたいにぼうっとしたまま読んでいるといつのまにかぼくの番が終わり、また赤羽先輩に順番が回る。
 今気付いたけれど、先輩の読む時間は他の人に比べて長い。先生がはい、そこまでと言うまで読まなきゃいけないから、先輩は時々そろそろ終わるだろうかと窺いながら戸惑いつつ読んでいく。いい声だし、ほとんどつまずかずにさくさく読んでくれるし、ぼくとしては嬉しいことしかないけれど、先輩は大変じゃないんだろうか。
「ああ、いい声だからついたくさん読んでもらいたくなりますね」
 やっと先輩の番を終わらせた先生がそう言って、赤羽先輩が少し恥ずかしそうに肩をすくめる。ぼくは心の中で何度も先生に同意した。
 先輩の声は素敵だし、文章を読むのが上手い。途中までは平坦に読もうとしているみたいだけれど、途中から物語に入り込んでしまうのか段々抑揚がついて、場面が頭の中に浮かんでくるようになる。たくさん読んでもらいたくなるし、ずっと聞いていたい。
 赤羽先輩の番が終わって少ししたらもう講義が終わる三十分前だった。先生は簡単な自己紹介と講義の感想を書いてください、と言ってから感想シートを配り、さっきまで音読をしていたのが嘘みたいに静かになった。赤羽先輩は赤い万年筆で滑らかに字を書いていく。
 凄く綺麗な字、というわけじゃない。でも青っぽいインクは綺麗だし、少し崩れているけれどそれも個性だ。赤羽先輩の字、赤羽先輩だけの字。先輩の字がほしい、とよくわからない欲望を抱きつつぼくもどうにかして書き上げる。
 同じく書き上がった赤羽先輩と目が合うと、先輩は左手を僕の方に差し出してきた。一緒に持っていってくれるんだろうか。ありがとうございます、と小声で言いながら手渡すと、先輩は返事をせずに持って行ってくれた。
 まだ帰りたくない。もう少し先輩と一緒にいたい。先輩の声を聞いて、先輩の目で見つめられたい。安心したい。大丈夫って言われたい。荷物をまとめて、先輩が帰る準備をする様子をじっと見る。
 先輩ならきっとぼくが何を言っても笑わず優しくしてくれそうだと思うけど、それを言い出すのも下心満載でよくないかもしれない、と思って口に出せない。でもこのまま先輩とお別れは嫌だ、もう少し話していたい。先輩の声を聞いていたい。
 立ち上がった先輩の後を追って講義室を出る。先輩は駐輪場に向かっているみたいで、ストーカーみたいで嫌だけど、でも声をかける勇気もないへたれだから、黙って後をついていく。先輩、嫌じゃないだろうか。気持ち悪く思っていないだろうか。

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