逢瀬

「貸出期限は来週の水曜日までです」
 藍色に赤いラインが入ったジャージを着ているということは一年生なんだろう。肌が白く小さな手がボールペンで刻んでいく文字は、『刻む』と形容するのがこれほどしっくり来たことはないと言えるほど筆圧が高い。一定の秩序とバランスを保ちながら僕が上限いっぱいまで借りた本の名前を書く彼女の胸元には、赤羽という名字が刻まれている。
 下を向いて本の名前を書き、下を向いたまま貸出期限を呟くように、しかしはっきり聞こえる声で告げる。図書局のローテーションを確認できるわけではないから彼女がいつカウンターに座っているかはわからないが、今のところは水曜日の昼休みに来ると確実に会えるとわかった。
 登校時にも下校時にも彼女の姿を見ることはない。毎週水曜日の昼休み、図書室のカウンターに座っていることしか知らない。彼女の何が僕をこんなに惹き付けるのかはわからないが……しいて言うなら声、だろうか。彼女の声、アルトより少し低い声が耳に柔らかく響くのが心地よく、もはや本を借りるというより彼女の声を聞くために図書室に通っている。
 柔らかく冷たい声。決して愛想がよいわけではない。でもその無機的な、こちらに少しも微笑みかけないような冷淡さを実感する度、背筋に生えている産毛が一本ずつ逆立っていくような感覚が走る。
 赤羽さん。珍しい苗字だ。図書局ということは彼女も本が好きなのだろうか。いつからあの声なんだろう。聞きたいことはたくさんあるものの、話しかける勇気はない。あの、いつもカウンター越しに聞くのと変わらない声で「そんなこと先輩に関係ありますか」なんて言われてしまうだろうかと考えると胸が不安で締め付けられ、いつもカウンターの前に立つと何も喋れなくなってしまう。そうして彼女が強く刻んでいく文字に見入る。
 最近はよく彼女のことを考えてしまう、それこそ夢に出てくるほどに。夢の中でも彼女の顔は見えない。僕が知らないから。しかしあの声で囁いてくれる。耳に唇が触れるほど近付いて、僕の名前を呼ぶ。好きです、と微笑みながら言う。そんな夢を見た朝は決まってシーツまで濡れるほど汗をかいており、体内に残った彼女の言葉の余韻で腰が浮くほど震える。
 少しでも。何か少しでも、彼女と話すきっかけがあれば。ほんの一言だけでも、普段とは違う言葉をかけてもらえたら。しばらく彼女の夢を見られていない、テストや塾の勉強が忙しくなって彼女に会いに行けていない。木曜日の昼、金曜日の放課後、いつ行っても彼女には会えない。どうしてこんなに足りないんだろう、何が違うんだろう、早く彼女の声を聞きたい。赤羽さん。
 そうして迎えた水曜日の朝、ホームルームの途中で今月の図書局だよりが配られた。大まかなデザインは変わらないが、新刊紹介の文面がいつもとは違う気がしてつい読み込んでしまう。先生の話が切れ切れに聞こえ、代わりに紹介文が彼女の声、赤羽さんの声で読み上げられていく。
 普段は新刊紹介なんか読まないのにどうして、と思いながら最後まで来ると、『文責:赤羽 月子』という文字が目に入り、突然視界が明るく開けたような気分になった。
 赤羽月子。彼女の名前は月子というらしい。月の子供、落ち着いた低い声の彼女によく似合う綺麗な名前だ。月子。彼女の名前は月子なんだ。この紹介文は彼女が書いたんだ。
 もう一度最初に戻って紹介文を読み直す。彼女が読んだ本をどう見つめているのか。どんな単語で紹介するのか。ああ、この図書局だよりは絶対に綺麗なまま持ち帰らなければ。冷淡で大人びた美しい文章の羅列を何度も読み返す。
 脳に血液が集まったように音が遠ざかり、先生の話が完全に聞こえなくなる。同じ教室内にはいないはずの彼女の姿を目だけ動かして探してしまう。赤羽。赤羽月子。赤羽、さん。今日に限って昼は小テストの準備をしなければ、英語はあまり得意ではないから勉強をしないと追試になってしまう。放課後は塾があるし、それだけは避けたい。
 ああ、今週に限って赤羽さんに会えない……先週以降あの声を聞いていないのに! いや、塾だ。塾を休もう。あんな塾なんて一回休んだくらいどうということはない。それより赤羽さんに会いたい、放課後……放課後に彼女がいるか、そもそも一人でいるかどうかもわからないが、放課後も貸し出しはしているのだから会いに行くしかない。どちらにせよ貸出期限は守らなければ。
 最後の授業が終わると急いで教室を飛び出る。図書室に行くには階段を上がらなければ、その時間さえも惜しい。図書室のドアを開ける――いた。赤羽さん。本を返却し、まだ借りられていない新刊を手に取る。彼女が読んだ本。彼女が紹介した本。ゆっくり図書室内を見て回り、なんとなく目についた本を数冊持ち、カウンターに戻る。
 あ、と彼女が呟く。借りる本の一番上に彼女が紹介していた新刊を置いていたから、それに気付いたのだろう。声をかける。声を。どうしても。今日。
「あ……の、あの、図書局だより」
 声が裏返ってかすれる。僕が声を発したせいか彼女が顔を上げ、僕のことを正面から見据えた。声と遜色ないほど冷たい、眠そうな三白眼だった。彼女が三白眼だということをここで初めて知った、僕の次の言葉を待つ彼女は相変わらず僕のことをじっと見上げており、目が合う度に顔どころか脳が熱を孕むような感覚になっていく。
「図書局だよりの、君の新刊紹介……読んで」
「あれを読んで借りてくれたんですか?」
 ありがとうございます、嬉しいです。彼女は右頬だけで微笑み、それからいつものように俯いて、今日借りる分の本の名前をあの高い筆圧で刻んでいく。僕はそれ以上何を話せばいいかもわからず、本を受け取ってから机の前に座った。
 自己嫌悪に苛まれながらテキストを開く。塾はサボってしまったけれど、その分少しでも長く彼女と一緒にいたい。サボった分ここで勉強して、それから帰ろう。どれだけ息を吸っても、吐く息が全てため息になってしまう。赤羽さん……胸の苦しみがじゅわ、と溶け、代わりに安心で満たされていく。

 肩に温かいものが触れる。とんとん、と叩かれて、それが手だということに気付く。
「先輩」
 ふ、と目を開ける。いつから眠っていたんだろうか、今日の範囲は終わらせたらしい、予習は半分程度だろうか……家に帰ったらまたやらないと。突っ伏しているからだとは思えないほど薄暗い、もう夕方になったらしい。
「すみません、今日はもう閉めないと……」
 覚醒した脳にさっきより鮮明に響いてくる。彼女がいる。赤羽さんが。このまま寝たふりをしていたらもっと長く声を聞いていられるだろうか。
「塩川先輩。図書室閉めたいんですが」
 彼女、僕の名前を知っていたんだ。よく来るから覚えてくれたんだろうか、ああ、本当に彼女に名前を呼んでもらえるとは思わなかった。嬉しい。
「起きて、もらえませんか」
 思ったより耳の近くで彼女の声が聞こえて、ふる、と背筋が痙攣する。きっともう彼女には知られてしまったはずだけれど、それでも彼女が離れていく気配はない。僕が震えるのを見た彼女が長いため息のように息を吐いたと思ったら、脇腹に指か何かを優しく突き立てられ、それがゆっくりと脇まで上ってくる。くすぐったさに声を上げそうになるけれど、いや、僕は寝ている、から。
「せーんぱい」
 温かい吐息が耳の奥までくすぐっていく。抑えきれなかった吐息が漏れ、そんな僕の様子を見た彼女が鼻で笑った……気がした。脇まで上ってきていた指は同じ道を辿りながらゆっくりと戻り、他の四本の指も合流して再度ゆっくりと上ってきた。背中が汗ばみ、くすぐったさで反射的に足を閉じてしまう。
 彼女の指先が左胸を包み込むように置かれ、中指が優しく乳首を掠める。呼気だけ漏らすはずが声帯まで震えてしまい、上ずった声が思っていたより大きく響く。広がっていた指は胸から離れないまま半分回転するように合流し、軽く握られた指の背で再度優しく撫でられる。
「う……っ、は、あ」
「起きてるのはわかってるんですよ」
「あっ……」
 軽く指を添えるように乳首が挟まれ、さっきよりも強い快楽が体の芯を駆け抜け、甘く腰に響く。乳首で感じるなんて、今まで思ってもみなかったのに。それとも自分以外の指で触るからだろうか、彼女の声を聞いているせいだろうか。
「ね、もうすぐ先生が来てしまうので。その前に出ませんか」
 そうして乳首を優しく弄んでいた熱い手は机に突っ伏していた胸の中心を捉え、そのままぐっと力を込めて僕の背中を背もたれに押し付けた。相変わらず熱のこもった脳は視界まで滲ませ、僕を見下ろす彼女と目が合う。相変わらず眠そうな目に見下ろされて嬉しい、喜んでいるんだ、僕は。彼女に見下ろされて嬉しいんだ。嬉しい。赤羽さん。
「終バス行っちゃったんですよ。駅まで一緒に歩きませんか、と思って」
「あ……うん」
 腕を下ろし、完全に無抵抗の状態になって彼女を見上げる。赤羽さんは胸から手を離すとずれてしまっていた眼鏡の位置を直し、それから首を傾げながらジャージの袖口で僕の口元をぐっと擦った。
「ふふ、よだれ」
 他の誰でもない彼女にこんな姿を見られるなんて! 顔から火が出そうなほど熱い。こんなに情けない姿を見て幻滅されてしまったかと思ったのに彼女は嬉しそうに微笑み、僕の目をじっと見つめる。
「塩川先輩って、思っていたよりずっと可愛らしい人なんですね」
 ああ……歓喜と羞恥で今すぐにでも死んでしまいそうだ。

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