木曜午後四時

割引あり

 動悸。息切れ。青い空気の早朝には似つかわしくない灼熱地獄の悪夢から目を覚ますと、隣で寝ている月子が頭を撫でてくれた。起きてるの、と聞いても返事がない、無意識でこんなことをしてくれるなんて。
 寝ている月子に抱き着くともう一度頭を撫でてくれた。嬉しい。悪夢から起きて甘えられる人がいるってこんなに嬉しい、悪夢なんてなかったことにしてくれるくらい甘やかしてくれる人がいるって嬉しい。月子の胸は脂肪が厚いから心臓の音は聞こえないけれど、呼吸の度に上下するから確かに生きていると思えて安心する。
 どうしたの、と囁く声が聞こえたような気がして頭を上げる。何度か唾液を飲み込み、咳ばらいをし、大きく息を吸い込む。
「どうしたの、うらら」
「怖い夢見て起きちゃった」
「可哀想に……」
 まだ半分夢を見ているような口調の月子が手櫛で髪を撫でる。動物にそうするようにあたしにもしてくれるのが嬉しい。
「月子は夢見た?」
「んー、見たよ。いい夢ではなかったな」
 あたしのことを撫でる手を一瞬止め、重い瞼を開けて無理やり時計を見る。あたしが不満を伝えるために唸ると、ゆっくり手を落として再度撫でてくれた。
「ついさっき寝たばっかりだったから」
「え、そうなの? 人と一緒だと眠れないんだっけ?」
「興奮して眠れなかったんだと思う、お前が寝てる間に煙草も行ったし。気付かなかった?」
「ぜーんぜん! 寝るまでは幸せいっぱいでぐっすりだったから」
「ならよかった」
「よくない! あたしは悪夢見て起きたの! 今何時!」
「四時ちょっと……」
 また寝なよ、と月子は宥めてくれるけれど、あの悪夢がさっきの光景のまま一時停止をしてそこにある気がして、少しでも目を閉じると続きが再開される気がして、月子にしがみついてもその考えから中々逃れられなかった。
 ふぁ、と月子が欠伸して腕や腰を伸ばしたり逸らしたりする。邪魔になるかと思って離れると月子は起き上がって、右手で眠い目を擦って左手であたしを撫でてくれた。
「コーヒーでも淹れようか? 起きたついでにお散歩する?」
「お散歩は嫌。でもコーヒーはいる」
「はいはい」
 子供をあやすような口調で言われるともう心も体も溶けて、月子に甘えることしか考えられなくなる。月子の体温が残る側に体を動かして、同じシャンプーなのに違う気がする月子の残り香を探す。
 ドリップバッグを開けてケトルからお湯を注げば、すぐにほっとするコーヒーの匂いが漂ってくる。ぱぱがいた頃の日曜日の匂い。ままはカフェインがどうのこうのってあんまり好きじゃなかったみたいだから、ぱぱがコーヒーを飲むのはいつも日曜日の朝だけだった。それもほとんど家にいないままを気遣ってのことだったんだから、誰かにあんなに愛される人生っていいな、と大人になってから思った。
 日曜日の朝だけコーヒーを淹れるぱぱ。半熟の目玉焼きをご飯の上に乗せてくれたぱぱ。大きくなったあたしに、ミルクとお砂糖で甘くしたコーヒーをこっそり飲ませてくれたぱぱ。小さな壺になって出張から帰ってきたぱぱ。
 ふわふわの毛布を抱きしめて匂いを吸い込む。月子の香水、甘ったるくて毒々しくて、見た目でわかる月子じゃなくて、もっと奥深い月子のことを表してるみたいで好き。ぱぱの匂いは忘れちゃったし、ままの匂いとは全然違うけれど、あたしを甘やかして許してくれる安心の匂い。
 コーヒーを淹れ終わった月子がベッドサイドまで運んできてくれた。もう完全に目が覚めてしまった体を起こして受け取ると、コーヒーだけじゃない甘い匂いがする。
「カフェモカ……もどき? 概念カフェモカだよ」
「ココア入ってるの?」
「うん。コーヒーで粉を溶かして豆乳で割ったんだ」
 豆乳で割られたカフェモカは熱すぎなくて、お腹の奥をじんわり温めてくれた。月子はいつも通り薄いブラックを飲んでいるみたいだった。
「やっぱね、お散歩行こうかな」
「コーヒー飲んだら有酸素って相場が決まってるもんね」
 月子がコーヒーを飲みつつストレッチ始めたので、あたしも真似してベッドの上で体を曲げたり伸ばしたりする。どこに行こうかな、月子はあんまりこの辺に来たことがないって言ってたし、あたしも実はあんまり詳しくないから、ちょっと遠くまで足を延ばそうかな。
 近くに公園があるよ、そこに行こう、と月子が股関節をほぐしながらスマホを見せてくれる。公園の中に池があるみたいで、確かにあたしも気になる。きっと綺麗な風景だろう。公園の中を通って池を見て、それから明治神宮外苑にでも行こうかな。
 コーヒーも飲み終わって、ストレッチも充分やった。家の鍵とスマホだけを持って外に出ると、どことなくひんやりしてるみたいだった。まだ太陽も昇ってないからかもしれない。
 全身にまとわりつくひんやりとした空気を感じながら歩く。胸いっぱいに吸い込んでみる。岩手に比べたらお世辞にも綺麗とは言えないだろうけど、あたしがずっと憧れていた都会の空気、大好きな東京の匂いだ。
 月子に時々道順を確認してもらいながら、でも地図を見続けたまま目的地に向かって一直線なんて真似はせず、まだ開店してないお店や時々通り過ぎる車を一つ一つ確認しながら歩く。
 公園は思ったよりも近い場所にあった。それに思ったよりも小さなものだった。都会の中に自然豊かな公園があるって変な感じ、岩手や沖縄で見た公園は都会に馴染む人工的なものか、大自然の延長上にあるアスレチックみたいなものばっかりだったから。でもやっぱり池は綺麗で、でも座る場所なんかないから、あたしたちは突っ立ったままぼうっと水面を見つめた。
「あの辺は桜の木らしいよ」
 スマホで画像を確認した月子が指をさす。もちろん今は九月だから桜なんか咲いてないけど、あたしもそこに桜が咲く様子を想像してみる。
「素敵。きっと池に花弁が散って綺麗だろうね、来年引っ越してきたら一緒に見れる?」
「引っ越さなくても一緒に見られるけど、そうだね、見に来ようね。今日みたいに早起きしてさ」
「夜でもいいね、満月で月が明るい日にお酒買って歩いてここに来るの」
 わたしは酒より煙草がいいな、と月子が言う。時々月見煙草だ花見煙草だって言って写真を上げてるの、あたしも知ってる。
 こういう心の字の形をした池は他にもあるらしい、と月子が教えてくれたけれど、あたしたちには何をどうしても、地図で確認をしてもどこが心なのかわからなくて、首を傾げながら公園を出てきた。目の前に美味しそうなレストランがあるね、いつか行こうね、と言い合いながらホテルと大学の間の通りを抜けて、赤坂御所の外側をぐるっと迂回するように歩いて外苑に辿り着く。
 外苑とはいってもあるのは野球場とかテニスコートとかそんなもので、別にそこまで興味があるわけじゃないな、という意見が一致したあたしたちはすぐに青山一丁目の駅に向かって歩き出した。
 銀杏並木らしいところもまだ全然緑色で、嬉しい発見といえば美味しそうな中華料理屋さんを見つけたくらいだった。あとピザのチェーンもあった。とはいえやっと六時になったくらいだからどこも閉まってて、でもコンビニでご飯を買う気にもなれなくて、とりあえず昨日買ったもので朝食にしようか、と月子が欠伸交じりに言った。
 散歩から帰るとまだコーヒーの匂いが残っていて、朝日が部屋の中にさし込み始めていた。月子はあたしがソファーに向かうのを全く気にせず台所に立って、昨日の残りのキャベツを刻んだ。
 ざくざく、とんとん、料理が好きな月子の包丁はリズムが整っていて気持ちいい。切り始めは速くて、食材が小さくなるにつれて遅くなっていく。催眠みたいだ、月子の催眠はゆっくり始まって速くなっていくから逆だけど。
 ゆっくり始まって、絶頂に近付くにつれ速くなっていく。月子は小さな火種の育て方をよくわかってる。最初は小さな木くずに着火して、段々小枝を足していって、大きな薪に燃え移る。
壊れ物を扱うようにそっと全身を愛撫してくれる。くすぐったいけれど、それが何より丁寧に気持ちいいの回路を繋げてくれる。気付いた頃には全身が敏感になっていて、指の一本、視界に映る微笑みだけでもイけるようになる。
 昨日殴られた子宮がきゅうんと疼いて、いてもたってもいられなくなって台所に行く。月子はちょうど卵焼き用の四角いフライパンに卵を割り入れようとしているところだった。隣の片手鍋ではキャベツがぐつぐつ煮えていて、二品を同時進行で作っているらしい。料理ができる人って器用だ。
 いつもあたしのことを愛撫して、ときどき痛めつける指先が真っ白な卵を掴んで、硬い所に打ち付けて、割る。中からは透明でとろとろの白身が糸を引いて溢れ出す。ごん、と打ち付けられる音で快楽が発生して、背筋を駆け上り後頭部で弾ける。
「まだできてないよ」
「お腹空いちゃって、待てなくて」
「もう少し待って」
 昨日の残りのりんごジュースを注いでくれたので、とりあえずそれを飲む。それから煙草に火をつける。気持ちを落ち着けたいし、何よりお腹が空いているのは本当だから、耐えるための煙草。
「目玉焼きの焼き方は?」
「え、焼き方とかあるの?」
「あるよ。わたしは両面焼きで黄身はウェルダンくらいが好き」
「初めて知ったかも、あたしは片面で黄身はとろとろのやつが好き」
「サニーサイドアップ」
 サニーサイドアップ、と口の中で呟いてみる。なんだか響きが可愛い。
「わたしのはオーバーミディアム」
 くっついた目玉焼き同士を切り離して、片方だけひっくり返す。あたしのはできあがったみたいで、お皿の上に出してくれた。
「ご飯ある?」
「あるよ、冷凍してる。今出すね」
 一食ずつに分けてラップで包んで冷凍するといいってこの前YouTubeで見たばっかりだ。すぐに実践してよかった、なんだか未来予知をしたみたい。
「月子はごはん派? お昼はオートミールだよね」
「最近は黒パンを食べてるよ」
「黒パン?」
「コンクリートみたいな名前の……ドイツ語なんだけど、まあいいや今度持ってきてあげる。独特の味で美味しいんだ、ライ麦パン」
「ふーん、体にはよさそうだね」
「味は人を選ぶけどね」
 解凍と温めの終わりを告げるベルが鳴り、月子の目玉焼きも焼き上がった。仕上げに塩胡椒をかけて完成。目玉焼きとご飯とキャベツのお皿は月子が持ったから、あたしは二人分のりんごジュースを注いで持っていく。
 いただきまーす、と二人で声を揃えて言う。キャベツの千切り、目玉焼き、キャベツのスープ。スープも塩コショウのシンプルなもので、ショウガとにんにくが体を温めてくれるみたいだった。
「最初に目玉焼きを作って、そこに水と塩胡椒を入れて作るスープもいいよ。楽に温まれる」
「ふーん、冬になったら作ってよ」
「自分で作れるように教えたんだが?」
「やだ! 月子の手料理が食べたい」
「贅沢者が」
 そうは言うものの心なしか嬉しそうで、あたしたちは目を見合わせるとくすくす笑った。
「ご飯食べたらどうする?」
「寝る」
「講義は?」
「あったような気もするようなしないような……でも多分中国語だし大丈夫、レジュメなくても」
「そっか、じゃああたしも取ってるかな、その講義」
「何で覚えてないんだよ、なんか翻訳とか実践とかそういう名前の講義なんだけど」
 どちらにせよあたしたち中国語コースは必修のはず、だからあたしも取ってるはずだ。でも中国語なら別にちょっとくらい休んだところで問題はない、あたしも月子も。大学の中国語って思ったよりも簡単で、一年生の頃はほぼ一年間発音の練習ばっかりだった。二年生になっても初心者向けの内容から変わらず、だからあたしたちは毎日つまらない顔で講義に出ている。
 あたしはもちろん中国に住んでたこともあるし、ままとの会話は中国語だし、当然慣れてる。月子は高校の頃から中国語の勉強を始めたらしいけれど、発音に台湾っぽい癖があることを除けば、多分国際コミュニケーション学科ではあたしの次に上手い。単語も文法の法則も講義で出るようなところはすぐに覚えるから、周りに合わせて進む講義だと二人とも面白くない。
「少なくとも蔡先生じゃないから初回休んでも大丈夫」
「あーじゃあ大丈夫だね、あたしも休もっと。バイトは?」
「なんと休みなんですねえ」
「なんとまあ」
 運がよかったよ、と言いながら黄身を割る。月子のは半熟だから黄身が漏れ出たりなんかしないけれど、突き刺さった箸がめりめり引きちぎるように玉子を割っていくのってちょっとどきどきする。何だか変だ、今までこんなこと思ったこともないのに。
 月子はあたしがそんなことを思っているのも知らずに玉子とご飯を一緒に口に運ぶ。いつもあたしのことを噛む歯が、目の前で食べ物を口に含む。変だ、今までだって何度も一緒にご飯を食べてるし、対面で食べたのだって今が初めてじゃないのに、ずっと月子のことを意識しちゃう。
 次の一口を箸で摘まみ上げた月子と目が合う。あたしが何もせずただ見つめているので、月子も何も言わずあたしのことをじっと見つめながら、見せつけるように口に運ぶ。
 本当は見せつける意図なんてないのかもしれない、あたしがただ過敏になっているだけかもしれない、それだけかもしれないのに、月子が一噛みするごとに脳味噌の裏がぴりぴり、じんじんして、一瞬だけ意識が飛ぶような感覚になる。
「早く食べないと冷めるよ」
 何でもなさそうな響きのそんな言葉でも背筋が震える。月子の声、好き。あたしが月子のそういう顔を知っているからっていうせいもあるだろうけど、親みたいな優しさの薄皮一枚を剥いでしまえば、途端に冷淡さや加虐心、支配的な性質が溶岩みたいに流れ出てくるような気がして好き。
 あたし、もしかして食べられたいのかもしれない。あたしも同じように月子に食べられたいのかもしれない、つまり発情してるのかもしれない。そう自覚した途端にまた子宮が疼いて仕方がなくなって、足をそっと閉じると湿ったショーツが冷たくなっていたのに気付いた。
 月子の方はもう食べ終えようとしているところだった。あたしも後れを取らないように急いでご飯を口に運ぶ。目玉焼き、あたしの好きな硬さで完璧に焼けてる。たまたま上手くいっただけだよ、と月子は言ったけれど、それでも嬉しい。
 食べ終わるとすぐに食器を集めてシンクに持っていく。月子も当然のように持ちきれなかった食器を持ってくれる。いい意味で遠慮がないなと思う。お客さんの気分で座っているんじゃなくて、まるで自分の家みたいに秩序を保とうとしてくれる。月子の家は綺麗な時の方が少ないけれど、それでも一定の掃除はされてる。食器はすぐに洗ってぴかぴかになってるし、煙草の匂いが充満してることもない。
 そういう最低限の秩序をあたしの家でも保とうとしてくれるのがいい。あたしが食器を洗い始めると月子は隣で煙草を吸い始めて、時々顔に向かって煙を吹きかけてくれた。他の誰にやられても嫌なのに、月子にされた時だけは嬉しい。月子もそれをわかってるから、時々だけどこうして煙を吹きかけてくれる。
「皿洗い終わったらもう一回寝ようかな」
「え、マジ? 眠い? あたし結構冴えちゃった」
「わたしは散歩したら眠くなってきた、リラックスしたのかも……吸い終わったら寝るよ」
「えーじゃああたしもベッドいこ! 一緒にごろごろしよ」
 いいよぉ、と気の抜けた返事が返ってくる。こんな日が続いていくんだろうか、月子と一緒に住んだら。それって凄く楽しい気がする。
 もちろん一人だって楽しい。あたしが東京に進学してからのままは、日本と中国を行ったり来たりで日本にいるときの方が少ないくらいだけど、寂しいと思ったことはあんまりない。バリバリ働くままがかっこいいとさえ思う。
 バイトして、気ままに生きて、掃除もご飯も自分の好きなタイミングで全部やっていい。そんな一人暮らしも楽しい。でもふとした瞬間に誰かがいる安心感ってやっぱり違う。家に帰ってきてくたくたでご飯も作れないようなときに頼めるかもしれないし、日常のふとした瞬間に面白い動画や好きな音楽を共有できる。画面越しじゃなくて、直接。
 何よりお互い気ままに生きてるから上手くいくっていうのもいい。もちろんあたしが月子と一緒にいてもいらいらしないのは、月子の気遣いが滅茶苦茶上手で、知らないうちに全部悪くない方に導いてくれるっていうのもある。けど月子は気を抜いてる瞬間、さっきの寝起きみたいな時でもあたしをいらつかせることがない。適度に放っておいて、適度に構ってくれる。月子のそういうところが好き。推せる。
 月子は煙草を吸い終わってからベッドに向かった。あたしも残りのお皿を素早くすすいで、寝転がってスマホを眺めてる月子の隣に行く。
「昼くらいから雨降るってよ」
「えー、やだね」
「雨やんでから帰ろうかな」
「やった! あたし雨大好き!」
 月子は軽く笑いながら眼鏡を外してサイドテーブルに置き、ゆっくり目を閉じる。あたしが距離を詰めて月子にぴったりくっついても嫌な顔はせず、髪を撫でたり背中をとんとんしたりしてくれる。文句も言わず腕枕をしてくれて、それでも眠いのか段々動きと反応が鈍くなってくる。あたしが唇をむにむに啄むと二、三回は応じてくれたけど、すぐに寝ちゃったみたいだった。
 あんまり眠れなかったって言ってたし、雨が上がるまでと言わず何時間だっていてくれてもいいのに。ずっとこうして二人で眠っていたい。温かくて安心する月子の腕の中で、猫みたいに丸まってすりすり甘えたい。気が済むまで黙って甘えさせてくれるのも、気が向いたように撫でてもらえるのも嬉しい。ときどき怖いことをされるのもぞくぞくする。
 煙草の匂いとあたしが貸したシャンプーが混ざった髪の匂いを嗅ぐ。安心の匂い、月子の匂い。あたしの親友の匂い。

ここから先は

2,898字

こちらからのリクエストは絶対に書きます