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【SS】白としての

今日もまたいつものように、わたしは"ホーム"へと帰ってきた。
"家"や"自宅"といった表現をしないのは、この場所が仮想空間であるからだ。

この世界の誰しもがつい吸い寄せられてしまうように。
今日のわたしもまた。すぐに鏡の前までするすると歩を進め、自分の姿をそこに映した。

現実を過ごす身体からは考え付かない、ふんわりと可愛らしい自分の姿を見つめながら。少し前から抱いてしまったとある悩みについて、わずかばかり思いを馳せる。
数多の個性がひしめいて、目にする人全てが輝いて見えるこの世界で。かたや自分はそこに入りびたっていながら、何の価値も発揮できず、誰の目にも止まっていない"ただの人"になっているのでは。という、思春期を過ぎた頃には、無意識に忘れてしまったような悩みに。

その様を体現しているかのように、わたしの纏っているアバターとしてのこの女の子にも。まだ特徴が何も無い。
それは『元々のデザインに特徴が無い』という、貶す意味では決して無い。そうではなく、なんというか… "色"が無いのだ。

この世界で長く遊んでいたり、サブカルチャーに慣れた人ほど持っている"パーソナルカラー"に値するものが何もない。小洒落たアクセサリーも着けていなければ、テクスチャの色味をいじっているわけでもない。ただただ、買った時そのままの形をしている。
それは『個性』と言い換えてもよい表現なのかもしれない。
ちゃんと個性を持たせてあげたい。色を付けてあげたいという気持ちだけはあるのだが、どうしてもどうしても手が動いてくれないのだ。

わたしにそれを見つけるセンスがないから、この仮想の体にも変化がないのかもしれない。
あるいは、そもそもわたしの中身に何もないから、この仮想の体にも何もないのかもしれない。

今日はその答えを見つけることができるだろうか。
いつかわたしも、誰かの目に留まるような… 輝かしい日を生きることができるだろうか。

「こんな事いくら考えたって、簡単に答えが出るわけがない。」
そう独り言ち、詮無き考えを振り払うことにしたわたしは。フレンドの集まるインスタンス一覧が見えるソーシャルボタンに手を伸ばした。

そうだ。こんな時は… わいわいとした暖かみのある赤色の景色を見たい。
わたしはあるひとつのインスタンスに狙いを定めて、その世界へもぐりこんだ。
この世界の"一日"が、今日もまた始まる。



そうして潜り込んだこの日の景色は、ふんわりした暖色の照明に包まれた、気の知れた者同士が団らんするホームワールドだった。

住宅街でたまに見かけるモデルルームのように広く、清潔で整頓された埃ひとつない部屋の中。リビングの真ん中にはこたつが鎮座しており、現実の季節が夏か冬かに関わらず。この世界における『鏡』と同じようにして、たいてい皆そこに吸い込まれては団欒をしている。例に漏れず、今日もその日のようだった。

挨拶もそこそこに、わたしも会話とこたつの輪にぐいと加わる。
今日あった事。明日やりたい事。気になっている新しいアバター。最近追いかけているイベント。
そんな他愛もない話題を皆で転々と転がし、手放しにケラケラと笑ったりする。時々隣のフレンドの頭を撫でたり、味を感じるわけでもないバーチャルな食べ物を食べる仕草を挟んだりしていると、まるで放課後の教室の中にいるかのように、気持ちがどんどん童心に帰っていったりするものだ。

赤色の景色に集まる人は、文字通りどこか暖かい。
現実にいるままでは、会うことも無い人間同士だったはずなのに。まるで本当の家族の一員であるような、そんな心持ちにさせてくれる。

だから気が付けば。この景色に集う人はどんどん赤く染まっていく。そして漏れ出る光はより、彩度と明度を増していくんだ。

わたしの真向かいに座る、元気な雰囲気と今どきのストリートファッションが特徴の男の子アバターのあの人も。おっとりかわいらしい雰囲気で、初対面の人とでも一発で仲良くなるのが得意な猫っ子アバターのあの人も。次第にどんどん距離が詰まって。同じ赤色に染まって。薬指に誓いの証が付いてしまって。どんどんそうして赤色の純度が増していく。

そういった景色をふと見てしまう時、正直に嬉しい思いとは裏腹に。わたしの色は誰かに見えているのだろうか。わたしは誰かにとって・世の中にとって価値ある人間なのだろうかと。不謹慎にも、時に少しだけ心をかき乱されることがある。

今日はその『心をかき乱される』日だった。
そんな事はないと分かっているはずなのに。どうしても愛されている風景を見せつけられてるかのような気持ちになってしまって、抱えた悩みが疼痛のように体中をじわり巡り、走ってしまった。

明日は青い景色を見ていたい。この悩みを一時でも忘れるために。
そう小さく心に決めて、この日は別れの挨拶をした。



そうして潜り込んだこの日の景色は、潮風の冷たさが肌を伝い、言葉がなくとも人が寄り添いあう。そんな落ち着いた夜の浜辺のワールドだった。

窓から浜辺を一望できる小さな和室に、見知った人たちが円座になって集まって、静かに雑談をしている。
「こんばんは」と互いに挨拶を交わし合った後で、わたしも会話の円座を広げるようにして、中に加わった。
横になって寝息をすぅと立てている人。首を真横に傾けながら、今にも眠りに落ちそうに話を聞いている人。今やすっかり見慣れてしまったそんな光景も眼前に望みながら。寄せては返す波の音のように、しっとりした調律の落ち着いた会話が。理知的で繊細な雰囲気の人達が醸し出すやわらかな空気感が。ゆっくりゆったりと、どこまでも優しく響いている。

この色の景色は一番好きだ。落ち込みがちなわたしの気持ちに寄り添ってくれるから。
会話と同じぐらい、静寂と距離感も大事にしてくれる人達だから。肩肘を張りながら気構えた会話をせずともいい。
日頃無理をしながら演じている"大人"の姿から解放されて、心の底から落ち着ける。願わくばいつまでもここで癒されたいとつい感じてしまうような、そんな大事な場所だと考えている。

だけれど、この景色の底のない夜の広さや水の深さは。わたしの体温を奪って飲み込み、外へこぎ出す欲求を奪っていくもののようにも感じてしまう。

ここにずっといることは、果たしていい事なのだろうか。
ここでずっと水底の石のように静かな景色を見続けることが、果たして本心から望んだ事だったろうか。
水の中に飲み込まれ停滞することと、青色の景色に寄り添うことは違うことなんじゃないか。
そんな罪悪感のような、ふがいない気持ちのような。よくわからない思いをこの日は珍しく抱えてしまった。

明日は緑の景色を見ていたい。広く人に触れ合うことで、自分を客観視できるように。
その意思が義務感なのか本望なのか。やはり答えは出せないまま別れの挨拶をした。



そうして潜り込んだこの日の景色は、さんさんと照る太陽に包まれた、木々の生い茂る森の中の、多種多様な人の集まるイベントインスタンスだった。

入口から順路をかき分けてゆっくりと歩いていくと、大きな木の幹の傍でアコースティックギターの演奏が。道に置かれた切り株ベンチの上で民族音楽のような演奏が。森の中を流れる川の傍で陽気なカホンのリズムが。電車の車窓の景色の様に、グラデーションをもって代わる代わる聞こえてくる。
このなんとも癒される非日常の光景は、さながら児童文学の中に挟まれる、ふんわりした雰囲気の挿絵の様だ。

趣味や空気感の合う人を探すのに、この景色ほど適したものはない。
現実での立ち位置を気にせず思うまま流れる音に身を任せ、共通の好みを足掛かりにして、はじめましての人とも会話を弾ませる。
物語のワンシーンに溶け込んでいるような、そんなひと時が好きだ。

しかしここから先が、いつになっても難しい。
この景色の「緑」は場所の色であって、人の色ではないからだ。
他人の趣味嗜好を知っていると、人間ついそれだけでその人そのものを知った気になってしまいがちだが、実際は大抵そうとは限らない。

だから別れの挨拶が飛び交う時は、どうしてもさみしくなる。
あぁ。この人は他の色に戻ろうとしているんだな。わたしはまだそれを見ることができないのだな。と。

わたしはいつもそんな時「またお話しましょうね。」なんて言い残す。
少しでも再会の障壁を下げて、いつか相手自身の色を見ることが叶うように。

明日は...
いいや。今日は疲れちゃったから、明日になってから考えようか。



今日もまたいつものように、わたしは"ホーム"へと帰ってきた。
"家"や"自宅"といった表現をしないのは、この場所が仮想空間であるからだ。

この世界の誰しもがつい吸い寄せられてしまうように。
今日のわたしもまた。すぐに鏡の前までするすると歩を進め、自分の姿をそこに映した。

こうして鏡の前で自分の姿を見ていると、人の性質もまた。まさに光のようだと思う。
一見、一個体・一色しかないように見える光も。プリズムを通すとスペクトルが分解されるように、人間もまた幾つもの性質が織り重なってそこにあると言えるだろう。

歳を重ねながら過ごした歴史の渦中において。
喜びの色や悲しみの色。
好ましく思う友人や、疎ましく思う他人。
憧れそうなりたいと誓った形。こうはなるまいと願った形。
そんな数多の経験が重なった結果、一見何気なくそこにある『その人』そのものの姿や色が。自分自身の目に映ってくるというわけなのだ。

だから、似通った色に惹かれるのは。
似通った人生を想わせるためなのだろう。
だから、捕色の混ざりにたじろぐのは。
異物を除く本能から来ているためだろう。

ここ数日、色んな色の景色を眺めた。
改めて思う。ではわたしは何色なのだろう?
どれだけ鏡を見つめていても、やはりはっきりとはわからない。

赤色の景色は暖かく繋がっていられる。
けれど時には、水の冷たさに癒されたい。
青色の景色は海原に浮かぶように脱力した自分でいられる。
けれど時には、海の外の世界の広さも感じてたい。
緑色の景色はわたしを客観視させてくれる。
けれど時には、愛情深いつながりの元に帰って来たい。
そうして繰り返し遷移する時間の果て。
その日目にする色の尊さを、正しく受け止められるようになりたい。

たぶん、私は白くありたい。
それは世間の言う陳腐で凡庸な『純粋』ではなく、様々な人と物事の光が重なった結末として。

───さて、今日はどんな景色を見ようか?
ソーシャルを開きながら、今日も一日が始まった。

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