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フリーランスになるまでの半生を振り返って、今伝えたいこと 〜学生編〜

フリーランスとして独立して3年目、ここで一度これまでの僕の半生を振り返ってみて教訓や感じた大事なことなどをnoteで数回に分けて発信していきます。

初回は学生編ということで、出生から就職するまでの歩みを赤裸々に書いていきます。

はじめに自己紹介

はじめまして。大阪の枚方でフリーランスのWebデザイナー・デザイニストとして活動しているWEBDAデザインの岡田大誠と申します。

28歳からWeb制作の世界に飛び込み、現在34歳です。

Webサイトのデザイン、HTML/CSSマークアップ、WordPressのカスタマイズ、IT活用のアドバイスやコミュニティサロンの運営を行っています。

生まれてから中学生まで

岐阜県のすごーーーーく田舎に生まれました。
野生の猿とか猪、たぬきなどの一通りの野生動物はみかけました。

岐阜に住んでいた時は何も思いませんでしたが、田舎過ぎて住んでいる家の近くで狩猟が行われているため、銃声が頻繁に響き渡っているという、そんな楽しい田舎で育ちました。

当然のことながら、このときはパソコンもインターネットなどとは無縁の生活です。

最寄り駅までは車で40分、バスは1時間に1本。車がないと生活できない環境です。

小学校は学年1クラスしかありませんでしたが、クラスの中は比較的良かったと覚えています。

しかし、球技などの運動はすごく苦手で、チームプレイが全然できませんでした。

ドッジボールでもサッカーでも、自分のところに来たボールをひたすら遠くに反射的に飛ばしまくるという迷惑極まりない運動音痴でした。

他には、忘れ物や宿題をやらないことが多くて、先生によく怒られていたのを覚えています。

田舎なので虫を捕まえたり、川で水遊びをしながら育ったのですが、当時発売されたスーパーファミコンにものすごく夢中になり、そのころから今に至るまでゲームは大好きでよくやっています。
ちなみに今はスプラトゥーン2をやっています。

家庭環境については、幼いころに両親が離婚して、父に引き取られました。

小学校4年生ぐらいの時に父と新しい母親が再婚したのですが、この義母に数年間かなりひどい仕打ちを受けることになり、何回も死にかけたり食事も満足に与えられないこともありました。

食事はいつも足りなかったので学校の給食をドカ食いしていました。たぶん食パンは6枚ぐらい食べていたと思います。

そんなひどい家庭環境でしたが、なんとか中学校に無事進学できました。

中学生になると、生徒も増えて、1学年2クラスになりました。
ちなみに中学生でも運動嫌い(というか球技がダメ)は継続中でした。

中学校にパソコンルームというところがあって放課後は、ここにこもって、パワーポイントで変な資料とかを作って遊んだりしていました。
この中学校の時に生まれてはじめてパソコンに触れました。

当時のパソコンはダイヤルアップ回線で、インターネットに接続すると
「ピーヒョロロロー。ウィンウィンガチャンガチャン。」
と音がしてインターネットに繋がるという、今では考えられないものでした。

それでも初めて触れるテクノロジーにものすごく感動したことははっきりと覚えています。

家庭環境は相変わらずひどいもので、少しでも早く家から脱出したいと日々思っていました。

脱出成功!!しかし暗黒の高校生時代へ

中学校までは岐阜でしたが、高校からは地元を離れて奈良県の全寮制の高校に入学しました。

家庭環境の影響もあり、行きたい学校へ希望を出すこともできなかったので義母の言われるままの学校へ行くことになりました。

勉強はそれなりにできたので、主席で高校は入学しました。

前述したように、実家は決して住心地がいい環境とは言えず、死の危険も感じていたので、地元を離れる寂しさよりも地獄から開放される喜びのほうが大きかったですね。

どんな学校かというと、祖母がとある宗教を信仰していたので、その関係でその宗教系の学校に入学しました。

学校生活はというと、これまでみんな仲が良かった岐阜の小学校〜中学校とは全く別のひどい有様でした。

先生にタメ口をきくわ、人の悪口を言うわ、いじめもやっているわ、そのくせ上っ面ではきれいごとをいうという、なかなか胸糞な人間が集まる学校でした。

そして腹立たしいのは、この学校の生徒はその宗教の家の子が多く紛いなりにも「人助け」を謳っている教会の家柄の子がほとんどということです。

正直、僕はこの宗教に対してこういうことをたくさん見てきたため、あまりいい印象を持っていません。

この時の胸糞な同級生たちはいまどうしているでしょうか・・?
たぶん過去を忘れて胸糞な偽善で人助けを掲げているのでしょうね・・・。

寮生活もよくある軍隊さながらの先輩後輩の上下関係びっちりな生活でした。

もともとの生活がひどかったので、楽勝で耐えることはできましたが、この軍隊式の規律にはなんの意味もないよなーと当時から思っていました。

この考えはいまでも変わっていなくて、こういう体育会系の気合と根性論は悪の根源だと思うので、なくなってほしいですね・・。

その代わりですが、部活動にはかなり打ち込みました。

宗教関係の学校だったので日本の伝統音楽「雅楽」の部活がありました。
これも正直自分の意思じゃなくて半強制的に入部させられました。

1年生の頃は全然おもしろくなかったのですが、2年生あたりから面白くなってきて部活動に打ち込むようになりました。

どこの学校でもそうだと思うのですが、文化系の部活は見下される傾向にあると思いますが、この学校でもそうでした。

文化系だからといって見下されるのが嫌で見返してやりたかったので、3年生の時に生徒内での技術コーチのような立場に就任し、練習量を増やし失われた幻の楽曲を勝手に復活させたり、勝手に新曲をつくったり好き放題やらせてもらいました。

その結果、メディアに取材されることが多くなり学校内での人気が高まり気がつけば80人超の学校内で一番大きな部活動になっていました。

部活だけは、頑張ってやりきったなーという感想ですね。

しかし、3年間この高校に在学していましたが、正直クラス自体には全然馴染めなかった暗黒時代というのが正直な感想です。

※現在結婚している妻とは高校の同級生です。しかし、このときはお互い位面識はありませんでした・・・。

高校を卒業後は、小さい頃からゲームが好きだったのでゲーム制作を学ぶ専門学校に自分で学費を稼ぎながらでも行くつもりで専門学校に行きたいと希望したのですが、義母の猛烈な反対をされてしまい、高校の宗教系の会社に就職することになりました・・・。

次回の内容について

今回はここまでとなります。
ここまで読んでいただきありがとうございます。

そうです、実は僕の最終学歴は高卒になります。

小学生から高校卒業し就職するまでを振り返ってみたのですが、本当にいろいろありました

楽しい思い出もあるのですが、それ以上に辛い思い出のほうが数多く記憶に残っています・・・。
最低限の経験すべき苦労はするべきだと思いますが、必要以上の苦労はしないにこしたことがないよなーと思います。

小さい頃によく大人からこのようなことを言われていました。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」
有名な言葉なのですが、僕はこういうことを言う大人がすっごい苦手でした。
お前になにがわかるんだー!!という気持ちを強烈に思っていて、いつか自由になったら自分の好きなことを思いっきりやってやると決意しました。

次回は、就職してからWeb制作の世界に出会い、フリーランスを目指すまでを書く予定です。

ぜひお楽しみに!!


大阪の枚方市でフリーランスのWEBデザイナー・デザイニストとして活動しています。 https://web-da.com/