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現世界グルメ『天丼』


 私は丼飯が好きだ。これこそが究極に完成された料理の体系のひとつであると考えるからである。
 考えても見て欲しい。日本の高級イタリア料理店のコースではパスタがセコンドピアット(2皿目)に出てくるが、あれは正しくないのだ。
 何も、伝統がとか、それが正統だなんてナンセンスな話をしているのではない。
 コース料理とは、最初から最後までの全ての料理を総合して、ひとつの料理として完成すべきものなのである。
 そこに、パスタという完成された一皿が出てしまうと、それは不協和音なのである。
 オーケストラにおけるピアノ協奏曲だ。オーケストラは各楽器がひとつでは成り立たないそれぞれのパートを同時に奏でるからこそ、ひとつの音楽として完成する。
 そこにピアノという万能な楽器は不要。無論、だからこそ、ピアノ協奏曲は折り重なるオーケストラと孤独で完璧なピアノが掛け合いをする事によって、協奏曲を形成する。
 ピアノは単体で幅広い音域でメロディを奏で、リズムを刻み、伴奏までこなせてしまう。ほぼ唯一、オーケストラと単独で張り合える完璧な楽器なのだ。基本的には、他の楽器と馴れ合えない。混じり合えないのである。
 コース料理は、オーケストラだ。そして、パスタや丼はピアノなのである。だから、コース料理とは相容れない。主食としての炭水化物は、コース料理には不要なのである。望むならアラカルトを注文すればいい。断言しよう。主食としての炭水化物は、コースに入れてはいけないのである。
 考えても見て欲しい。料亭で三品目に肉うどんが出てきたら。料理はそこで終了だ。食の旅はそこで終着点なのだ。
 だから、小鉢に一巻きの素麺が出てくる。握り寿司が少しだけ出てくる。「お凌ぎ」と呼ばれる二品目だ。主食ではない形で提供されるのだ。
 本来はパスタにしても、主食ではなく、趣向を凝らしたパスタが2種類、3種類と一盛りだけ供される。発想はお凌ぎと同じであろう。
 味覚など所詮は個人の好みと言ってしまえばそれまでである。どんな伝統があろうと不味いものは不味い。どんな文化も時とともに変化する。
 だが、高級料理は長い年月をかけて、金や食材を費やし、美食家たちが満足するように積み重ねてきた解答でもあるのだ。何故そうなのかの理由も考えず、学びもせずに否定する自称グルメなど、トビコ一粒ほどの価値もない。
 だからこそ、私は丼が好きなのだ。
 たった一品で、安価で、コース料理に匹敵する満足度をスピーディに提供してくれる。これはまさに料理界のピアノ。いや、完璧すぎてキーボードと言った方が近いかも知れない。
 その中で、特に素晴らしいのは、親子丼とカツ丼である。
 親子丼。その存在はまさに丼界の黄金と言えよう。
 ぱらりと一粒の米が際立つ白飯の上に、出汁の効いた半液体半個体の卵。適度な歯応えを残しつつ、アクセントとなる玉ねぎ。そして、ただ飯を掻き込むだけにさせない、弾力と旨味のある鶏肉。そして、食欲をそそらせる香りの三つ葉。
 丼飯の玉座に座る資格を持つのは親子丼だろう。とろみのある卵と出汁が、お茶漬けに次ぐほどサラサラと米を食べ進めさせてくれる。この卵のとろみと、出汁の量を誤ると台無しだ。あっという間に米がべしゃべしゃになる。お粥ではないのだ。お茶漬けと雑炊の良いところだけを取ったバランスが要である。
 そして、カツ丼だ。
 基本は親子丼と同じである。丼としての性能は親子丼には敵わない。丼を掻き込むという点に於いて、カツ丼はどうしても親子丼に勝てない。カツという主役がそれを邪魔するからである。
 だが、カツ丼は丼でありながら、カツを最大限に輝かせる料理なのだ。そう。サクッと小麦色に揚がった軽快な衣が上面。中央はジューシーで脂身を含んだ弾力のある豚肉。そして下面は出汁を吸い、卵をまとい、ソースや醤油やポン酢などに頼らないカツの三層構造となるのだ。
 丼界の両雄は親子丼とカツ丼で間違いないだろう。
 だが、天板の丼と言えば、もうひとつある。天丼だ。
 私は、天丼を好まない。
 天丼にはー、
 天ぷらが湯気でしなる。
 米との親和性がない。
 丼を掻き込めない。
 天ぷら定食でいい。
 以上の理由で天丼は丼料理として不完全だ。
 はっきり言おう。なっていない。丼料理になっていないのだ。
 まず、天ぷらの魅力は何だ? やはり軽やかに揚がっている事であろう。サクッとした衣が天ぷらのあるべき理想像である。
 それが米の湯気でしなる。しなると言うより、しなしなになる。わざわざメリットを自分で殺してどうするのだ? それに、サックリ揚がった天ぷらを、米と一緒に掻き込むのは少々無理がある。天ぷらを齧り、米を食うことになるだろう。
 それならば天ぷら定食でいいだろう? それに、個人的な感覚だが、衣に米粒がくっつくのも美しく思えない。
 そもそも、水分が足りないのだ。丼飯の魅力は飯を掻き込める事ではないのか。カラッと揚げた天ぷらと白米ではただ白米のおかずの天ぷらが載せられているだけではないか。
 カツ丼や親子丼にある、具と白米を馴染ませる為の「つなぎ」がないのだ。
 天ぷら定食の方が、遥かに完成度が高い。丼の意味がないのだ。
 無論、この天ぷらを小海老などに絞り込み、卵の「つなぎ」で閉じた「天とじ丼」は素晴らしい。天丼より遥かに上位の存在だと言える。
 また、天丼のタレの代わりに大量の出汁などでつくる「天ぷら茶漬け」いわゆる「天茶」も素晴らしい。だがこれは丼料理ではなく、茶漬け、出汁茶漬けの類になってしまう。
 それから、サクサクに揚げられた掻き揚げを、ザクザクと箸で砕き食べ進められる「かき揚げ天丼」も天丼よりは完成度が高い。こちらは丼と言うよりも混ぜ御飯に近いが。
 だが、いわゆる天丼の完成度の低さは何なのだ? 何故、それが丼の第3位に位置している? 天とじ丼にも勝てないのに?
 そう。わかっている。
 タレだ。
 あの甘いタレが好きなんだろう?
 知っているさ。知っているとも。
 何も考えず、ただ提供された飯だけをありがたがって食う連中は、天丼はタレだなどとのたまう。ナンセンスだ。
 鰻重でも結局タレが美味いとか、何ならタレをかけただけのご飯が美味いなどと言う。天丼もそうだ。タレが。タレの。タレで。実にナンセンスだ。
 ならば店員にお願いして、天ぷら定食に天ダレを付けて貰えばよかろう。
 そうすれば、美味しい状態の天ぷらを天ダレ味で食えるぞ。
 私ならそうする。
 白米の上にたっぷりと天ダレをかけて、サクサクの天ぷらを食う。それで満足だろう? 足りなければその都度、天ぷらにもかけて食えばいい。
 もっとも私は天ぷらならタレでも塩でも抹茶塩でもなく、天つゆ派だ。そんな事はしないがね。
 そもそも、天丼に載せてある天ダネの種類も気に入らない。
 たくさん載せれば豪華だとか、美食家としては考えられない。メインの天ダネはひとつでいい。エビならエビ。イカならイカ。キスならキス。アナゴならアナゴ。それでいい。
 メインの天ダネが多いと天ダレに負けてしまう。そうしない為には、野菜天が必須となる。
 青っぽさがくどさを消す、獅子唐。歯ごたえがアクセントになる、レンコン。爽やかな大葉。生姜天なんかもいい。こういう燻し銀を揃えず、アナゴもエビもイカも載っている調和を欠いた天丼をありがたがる。なんと愚鈍な感性と舌である事か。
 もし、天丼が好きだと言う人の中に、それが良いのだ、という人がいれば、私はそれを尊重する。
 サクサクな衣ではなく、しんなりした天ぷらが好きなのだと言うなら、それは認めよう。
 私だって、弁当に入った油の回ったちくわの磯辺揚げは大好きだ。あれは下手な揚げたてを上回る美味しさがある。
 エビ天なんかもそうだ。揚げたての美味しさには敵うまいが、翌日のしなびたエビ天には揚げたてでは出せない衣との馴染みがある。
 それが白米に合うのだと言われたら、私はむしろ拍手をして讃えたい。
 他人と相容れるかどうかではない。自分の味覚に理由や再現性を求めるのが美食であろう。
 私は天ぷら単体として素晴らしいのなら、その天ぷらを天丼に使用する意味はないと考える。
 そう。素晴らしい天ぷらはそれで完成した料理であり、ピアノと同じく孤独なのだ。合わせられるのは歌唱という白米や、ドラムという酒である。こちらが合わせて行かない限り、オーケストラ曲にピアノは不要なのだ。
 合わせるとはどういう事か。それが、天とじ丼であり、天茶であり、かき揚げ天丼である。
 そして最後に、私が見つけた最高の天丼を紹介しよう。
 これを言うと多くの天丼好きは憤慨する。だが、私の説に論理的に反論できる人間は殆どいない。無論、我々美食家は言葉や理論で相手を負かすことを目的としていない。
 その行為は無駄だ。好みの方向性でなかろうと、相手の舌を唸らせる料理を食わせるか、食わされるかである。
 そして、求道としての美食は、筆舌に尽くしがたい味を筆舌に尽くすのが筋なのである。分析し、理解し、広める事が美食道なのだ。
 もし、私が最高とする天丼が間違っていると言うならば、それを超える天丼を食わせてもらうしかない。天ぷらにも、天ぷら定食にも、天とじ丼にも勝る天丼を。
 では、私が求めた結果の天丼をお教えする。
 それは、夜のスーパーマーケットなどにある。
 閉店間際のスーパーマーケット。惣菜コーナーに、売れ残って半額シールが貼られた天丼だ。そして可能なら、同じく半額シールが貼られた白飯。これを購入する。
 これを家に持ち帰り、熱々手前ぐらいにまで、しっかり温めて食う。
 これが最高だ。
 水分を含んでしなった天ぷら。タレは完全に衣や米に吸われ、油も回っている。
 だが、天丼という形が、具と白米を馴染ませ、一体にしてくれる。
 そんな馬鹿な、と思うかも知れない。だが、翌日の天ぷら、弁当に入った天ぷらの独特の旨味が白米と馴染み、お互いを引き立て合うのだ。
 売れ残った天ぷらを単体で食べても駄目だ。天ぷらが、タレが、油が、白米と馴染むからこそ生きるのだ。
 ただ、惣菜コーナーの天丼は、概ねご飯の量が少ない。そうすると油に負ける。
 だからこそ、一緒に白飯を買っておく意味がある。
 そして、温めた天丼と白米を、丼に入れる事によって、「天丼」という具を載せた「白飯」という完璧な「天丼」が出来上がるのである。
 嘘だと思うかも知れないが、両方とも半額で買えば¥500もしない。試してみる価値はあるのではないか。
 これを言うと多くの天丼好きは憤慨する。だが、「〇〇にある〇〇って店の天丼を食わなきゃ、天丼は語れない」なんて嘯くだけなら簡単だ。しかも、廃業してしまった店を挙げればもう勝てない。だから、その行為は無駄だ。
 私は再現性を問う。誰にでもチャンスのある価格と状況である。
 好みの方向性でなかろうと、相手の舌を唸らせる料理を食わせるか、食わされるかである。



 ※ この短編小説はすべて無料で読めますが、お気に召した方は試すだけじゃなくて、投げ銭(¥100)とかサポートもよろしくお願いします。
 なお、この先には、いきなりですが小説の本編内容を否定する事が書かれています。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。