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パパ業をしながら一回性/複製性を考える:本が読めない読書日記

今日はパパ業の日。(決して“パパの活動”ではない。)
自宅のネットが最近おかしいので、すべてのルーターを工場出荷状態にして設定し直した。
最初はリセットや電源入れ直しをしたが改善せず、iPhone不具合を疑い、すべてを初期化してみたり、リセットをかけてみたのだが、どうもよくならない。
もうハード修理やルーター買い換えを検討しようかというところで、上流のDHCPまわりの挙動に疑いを持ち始めた。
ならばと、我が家の各端末にちゃんとローカルIPが振れるようにと、ルーティング?NAT?設定した。
結果、スピードがあがったので、うまくいってそうな気がする。
ちょっとこれで様子を見る。

さて読書日記。
対話形式の読みやすい本、写真が多くて薄い本を選ぶ。
そこで写真の師匠である渡部さとるの『見る力 撮る力』と、立ち止まったときの参照先『森山大道 路上スナップのススメ』を読む。
気軽に読もうとしたのに、どうにもこうにも批判的にしか読めない。(^^)
自らの業を感じながら、多木浩二の『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』もぱらぱら参照しながら読んだ。
やっぱり「一回性/複製性」の理解が大事な気がしてきた。
これを深めていこうと思う。

なんでもアートになりえる時代に必要とされるのが「なぜこれがアートたり得るか」という疑問に答える態度。
渡部さとる『見る力 撮る力』

つまり存在論ってことなんだけれど、いま「なぜこれが一回性/複製性たり得るか?」と読み替えた。

オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、その真正性の概念を形成する。
多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』

複製性から“オリジナル”という概念が出てきて、一回性に“真正性”という概念が生まれる。
それをあたえる権力がファシズムに利用されることを警告するのが、複製技術時代の芸術作品の趣旨だ。
よくよく考えれば、人生は一期一会、すべてが一回性であり、そこにわざわざ真正性も、それを規定する権力も要らない。
そこにはエスキモーに氷を売るようなレトリックがあり、森山大道が本能的に写真よさようならしたポイントがあるように考えてる。

ということで、1970年代のポップアート、に興味が出てきた。
いま椹木野衣の『シミュレーショニズム』を買った。
シミュレーショニズムは、写真の話題も多いのに、最近、読まれていない気がしてる。
AIジェネレートアート理解に、大事だと思うんだけどなぁ。
どっとはらい。

そうそう、最近、ストリートスナップを再開した。
2023/03/09 16:47

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