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『創造性はどこからやってくるか?』第二章

最近、ラインマーカーを引くことが自分の読書スタイル、として固まってきた。
蛍光イエローが一回目、赤が二回目に引くようにしている。
トップ画像の一番奥が三菱製、ボールペンとマーカーのセットになってるもの。
一番手前がパイロット『スポットライター』、こっちは黄色と赤が二色のセットになっている。
カメラ、本、ペン、財布、鍵、iPhone、バッテリーと持ち歩く。
そのペンが一本だけというのは、荷物が少なくなり、非常にありがたい。
真ん中がノック式の無印良品、ぺんてるのOEMのようだ。
ノック式が、非常に読書の邪魔をしない。
そしてオレンジの発色が良くが、また三菱やパイロットの赤と色味が違っているのがうれしい。
このオレンジを三色目として使ってる。
いま『創造性はどこからやってくるか』も、黄色、赤、オレンジの蛍光ペンぎらぎらで読んでいる。

・そうであるのにオスは、「違うような気もするが、とりあえずいっとくか」という感じで、メスにちょっとだけ似たメシベに突進するのではないか。p50
・これを中村は「とりあえずいっとくハチ」と考えたわけだ。p50
・それは自分の経験を絶対的なものとして基礎づけ、そこから認識にバイアスをかけることと理解できる。このような認識の仕方は、ペイズ推定と呼ばれている。p52
・つまり自分の想定する世界は経験によって確定され、その外部(外側)については気にすることがない。p52
・バイアスのかかった認識によって「自分の世界」が作られるだけ
・「とりあえずいっとく」行動には、よくわからない外部に踏み込む積極性がある。p52
・自分の経験だけで依存して未知のものを知覚するペイズ推定の場合p52
・「彼らは勘違いをしているのだ」で説明が終わる。p53
・しかし、それは、あえて当事者性を失わせる作業になる。p53
・「とりあえずいっとく」ハチを論じることができるなら、科学内部でさえ、当事者性という問題を扱える可能性があるといえるだろう。
#“ペイズ推定”という認識バイアスによって外部=物自体にたどり着けないことを、当事者性=自発性の発露として肯定的に捉えているのが面白い。2023/10/14 14:00

日本画における書き割りの山は、背景を模した「記号」なのではない。p55
・したがって、両眼視差が顕著な近くのものは問題ないものの、遠方にあるものでは両眼視差は認められず立体感は計算不能となる。つまり遠方の山は遠近感がなく本来的に一枚の板のように知覚されている。p55
・それは、世界の中で、いま相対的に遠方に見える風景なのではなく、主観的に常に現れる認識の限界であり、当事者における「世界の果て」なのである。p55
・書き割りの向こう側に「知覚できないが存在する外部」を感じることができる。p56
#認知バイアスとしての“かきわり”。「世界の果て」という当事者性。“書き割りの向こう側”に物自体や彼岸、そして“外部”。

・こういう閉塞的状況の例として「ラーメンか蕎麦か」の問題が成立している。p60
・いかにして外部へ抜け出すことができたのか。これが考えるべき問題である。p60
・となると、蕎麦は食品自体ではなく、その文脈が問題となる。p61
#「文脈」の問題。蕎麦という意識から、文脈≒象徴や記号、意味という無意識に降りていく。

・なのに、ラーメンと比較し、改めて蕎麦とは何かを考えようとすると、蕎麦の定義は発散し、何が蕎麦かわからなくなってくる。p61
・「蕎麦かつラーメン」の状態が作り出す緊張状態は、改めて蕎麦とは何か、ラーメンとは何かを問い詰めることとなり、結果的にその各々が何であるか、逆にその意味が曖昧になり、むしろどうでもよくなっていく。つまり、蕎麦とラーメンの意味が脱色されてしまう。そこへやってきたのが、「帰って寝る」ということになる。p62
・そう、トラウマと同じではないか?本来ならば二者択一であるはずの被害者意識と加害者意識が、もつれにもつれ、両義的構造、つまり「被害者かつ加害者」を作り出してしまい、その脱色の果てに「被害者も加害者もなくなり」、そこへ「癒やし」があらわれた。p62
#脱色=コペルニクス的転回=「文脈」転回=癒やしではないか?
この文章中でも、「蕎麦かつラーメン」「被害者かつ加害者」が混じり合って、脱色に向かっていっている。2023/10/14 23:28

・両者に共通に認められた第一の構造、それは、二項対立的な二つの概念だった。p63
・第二に、想定された二項対立の項目がもつれにもつれ、共に存在するという状況が共通に認められた。p64
・相反するものが共に存在する矛盾を、肯定的矛盾(肯定的アンチノミー)p64
・トラウマでは、肯定的矛盾のもつれ構造を維持したまま、被害者意識、加害者意識の各々が脱色される。p64
#肯定的アンチノミーとは、どちらもたたず、ということか?

・二項対立的状況があって、トラウマでは、強度においてその各々が存在せず、p65
・蕎麦かラーメンでは、意味を理解する点においてその各々が存在しない。p65
・そういう状況が完全に脱色された状態である。p65
・とするなら、それは二項対立的二者がいずれも存在しないことで生じる矛盾であり、p65
・それは一般的に否定的矛盾(否定的アンチノミー)と呼ばれるものである。p65
#否定的アンチノミーとは、どっちも違うんだよなぁ、ってことか?

・世界は二項対立的な二者によって構成され、そのいずれかを選択するしかない状況と仮定される。p65
#第一の構造。

・だからこそ、その二者を共に成立させることも矛盾(肯定的矛盾)だが、p65
#第二の構造。

・そのいずれも存在しないことも矛盾(否定的アンチノミー)なのである。p65
#第三の構造。

・つまりここでは、「もつれ」において肯定的矛盾が、強度を脱色する意味において否定的矛盾が見出される。p65
・「肯定的矛盾と否定的矛盾の共立」p65
・第四の構造を「トラウマ構造」と呼ぶことにする。p66
#「もつれ」=くるしみ。「脱色」=癒やし

・わたしがトラウマ構造にあるとき、わたしはこの閉域の外部を召喚し、外部に触れることができる。それが創造であり、癒やしである。トラウマ構造は、創造のための構えであり、装置ということができる。p66

#テーゼとアンチテーゼ、そもそも両方ともに与しない。という三点構造と同じか?

この後、“肯定的矛盾の効用”と“デュシャンの芸術係数”、ラーメンの話しが続くが、省略。もしも大事かな、と思ったら、戻ってまとめる。水曜日、読書会である。
2023/10/15 23:23

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