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Turnout「映画が開く、タゴール・ソングの100年」(13)風になびく帆―②イギリス支配とタゴール家の登場

[画像]フーグリー川を行く船から眺めるハウラー橋(通称"タゴール・ブリッジ")。鉄道を整備するまでは、この川がコルカタへアクセスする唯一のルートだった。(2014.09.18 道しるべサポーター撮影)

フーグリー川が知る、コルカタの歴史

 映画『タゴール・ソングス』の世界にまつわる記事をお届けする、Turnout「映画が開く、タゴール・ソングの100年」。劇中に登場するタゴール・ソングにあやかった「風になびく帆」編では、タゴールの生まれ育ったベンガル地方に迫っていきます。今回は前回のプラッシーの戦いの行方から、ベンガル地方でのタゴール家の登場までをたどります。

 インドを貫くガンジス川の河口はバングラデシュにありますが、西ベンガル州のコルカタにはその支流フーグリー川が海へと注ぎます。川を行く定期船は片道5ルピー(*日本円では10円にも満たない)ほどで、今でも市民の足となっています。

フーグリー川を行く船 ハウラー駅付近乗り場にて

[画像]フーグリー川を行く定期船に乗り込む人々の様子。コルカタの大動脈ハウラー駅近くの乗り場にて。
(2014.09.18 道しるべサポーター撮影)

 コルカタはベンガル湾から100キロ弱の距離があります。湾と街とをつなぐのがこのフーグリー川で、かつての河口はインド洋交易の利権を求める欧米諸国がせめぎ合う、グローバル経済の要でもありました。

 インド洋各地を訪れた国際ジャーナリストであるロバート・カプランは、当時のコルカタへの玄関口だったフーグリー川を下っていくことで街の歴史に思いを馳せます。その中でカプランは、この街がまだカルカッタと呼ばれていた頃に頭角を現したある歴史上の人物に思いを馳せます。

(……)私はこの時、コルカタの歴史で最も重要で目立った人物のことを思い起こさずにはいられなかった。彼がコルカタに初めて来たときも、この同じ川を船でさかのぼってきたのだ。彼の名前は、ロバート・クライヴである。
([出典]ロバート・カプラン著、奥山真司・関根光宏訳 『インド洋圏が世界を動かす―モンスーンが結ぶ躍進国家群はどこへ向かうのか』株式会社インターシフト 第9章「コルカタ、未来のグローバル都市」 P264   ※太字は道しるべスタッフによる)

プラッシーの戦いがもたらしたイギリスの覇権

 1757年6月23日早朝、コルカタ北部のプラッシーでロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社軍とベンガル太守シュラージャ・ダウラが率いるベンガル太守軍が激突します。数ではベンガル太守軍の方が圧倒しており、4万人あまりの軍勢から1万2千人ほどが出陣します。対峙するイギリス東インド会社軍はわずか3000人ほどの軍勢でした。

 勝敗を決定的にしたのは、大砲の習熟度でした。ベンガル太守軍が着火に手こずっている間に、東インド会社軍が正確な照準で敵軍の優秀な将校を倒していきました。太守軍が敗走し始めるのを察知し、東インド会社軍の将校が一斉攻撃をかけ勝負が決まりました。
 クライヴの東インド会社軍はベンガル太守軍を敗走させ、歴史的勝利を手にします。後世の伝記は、クライヴらは100名に満たない死傷者だけで当時のイギリスより広大で人口も多い帝国を支配する権利を獲得したことをドラマチックに描いています。

 クライヴはその天性の指揮官としての成果で富も地位も手にしますが、その最期は悲劇的なものでした。本国で社会問題となりつつあったイギリス東インド会社の腐敗と、現地での粗野な振る舞いが災いし彼は議会で告発を受け、失意の中アヘン中毒を悪化させ自ら命を絶ちます。
 しかし、彼がベンガル地方の支配権を確立したことが、イギリスが空前の大帝国へと発展するきっかけとなります。

 一方でイギリスの支配の確立は後世の私たちが知る通り、インドの抑圧を意味しました。地方での統治に陰りが見え始めていたムガル帝国の空白に付け込み、イギリスは2世紀足らずでインド全土を手中に収めインド帝国(1858)を成立させます。

 文字通り七つの海を支配した大英帝国にとって、インドは「イギリス王冠の輝ける宝石」とされました。イギリスは諸国での貿易赤字をインドの植民地経営での収益で黒字化し、ポンドを世界共通通貨として流通させ覇権を握ります。

 それは、のちにインド人ながら初めてイギリス議会の議員となったナオロジーによって、富の流出として理論化され、不当な搾取があることがインド人にも広く知れ渡ります。イギリス支配のもとで貧困にあえぐ窮状を見かねて、M.K.ガンディージャワーハルラール・ネルーをはじめとするインド独立運動指導者が長きにわたる独立闘争に身を投じていくことになります。

ガンディー像(ビッグベン前)

[画像]イギリス・ロンドンの国会議事堂、ビッグベンの前にあるガンディー像。イギリスの地を、彼はどのような気持ちで見つめているのだろうか。
(2015.06.03 道しるべスタッフ撮影)

イギリス支配とともに台頭したタゴール一族とは

 クライヴがベンガル地方の支配権を確立して以来、カルカッタはインドにおけるイギリスの政治・経済の中心地となります。映画『タゴール・ソングス』のラビンドラナート・タゴール(ベンガル語ではロビンドロナト・タクル)は、1861年5月7日にこの地で生まれます。

 タゴールはタクルの英語で訛った呼び名です。この「タクル」の意味をたどると、タゴール家の台頭のきっかけが浮かび上がります。

 「タクル」とは現地ではカーストの最上位に位置する「バラモン様」を意味します。由緒ある一族に思われますが、タゴール家の祖とされる人物はジョゴンナト・クシャリという名前でした。「タクル」はいつから名字となったのでしょうか。

 この呼び名は、タゴール家の直接の創始者ボンチャノン・クシャリ以降の代で名字となります。彼はコルカタで商業活動を展開するイギリス人相手に商売をし財を成します。彼の家は現地で「バラモン様」と呼ばれるのが日常であり、イギリス人がそれを名字と思い込んだのにあやかって自らの家の名字としたのです。

 実はタゴール家の祖は紛れもなくバラモンの血筋でしたが、そのバラモンは禁を犯しバラモンの世界から追放を余儀なくされていました。元を正せば、ヒンドゥー教世界において周縁の地にあるコルカタの状況を正すべく現地にやってきた、コルカタの頂点に位置する家柄でした。

 地位を転落した一族は、このコルカタの地にやってきた新参者イギリスとの交易で身を立てていきます。村にはもともとバラモンがいなかったため、村人からも「バラモン様」と崇められるようになり、クシャリはこの新天地でタゴール家を開いたのでした。

ベンガルの農村部(麻)

[画像]ベンガル地方の農村風景。(2014.09.18 道しるべサポーター撮影)

 タゴール・ソングスを世に送り出すタゴールは、のちに自分自身を「ブラット」(ヒンドゥー的秩序から脱落したもの)と呼び、代表的な詩の中でも自らの存在を自省する表現として登場します。タゴールは旧来の価値観に縛られない土壌のもと、イスラーム神秘主義やバウルの存在に触れ、創造力を開花させます。
 タゴールの父・デベンドロナトもヒンドゥー教の近代改革に盛んに取り組んでおり、既存のヒンドゥー秩序から距離を置いていました。それ故にタゴール家は既存の価値観からの自由を手にしたのでした。

 タゴール家にとって、その名はそうした自由を実力で勝ち取ってきた誇りの証であるのかもしれません。

 とはいえ詩人タゴールもイギリスの植民地支配と無縁ではいられませんでした。映画『タゴール・ソングス』で主題歌ともいえる「ひとりでも進め(Ekla Charo le)」も、ベンガル地方で高揚したインド独立運動の中で人々を鼓舞する歌として登場しました。詩人が終生心を痛めたのも、イギリスの分割統治によるインド人の分断でした。

 ここからはさらに、タゴールのバックグラウンドに迫っていきます。

【参考文献】
・丹羽京子『タゴール■人と思想119』清水書院(2011年)
・ロバート・カプラン著、奥山真司・関根光宏訳 『インド洋圏が世界を動かす―モンスーンが結ぶ躍進国家群はどこへ向かうのか』株式会社インターシフト(2012年)
・秋田茂『イギリス帝国の歴史-アジアから考える』中央公論新社(2012年)

【映画公式HP】
長野県は長野相生座ロキシーで公開中です!そして、年明けには再び東京でリバイバル上映されます!
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