Turnout「映画が開く、タゴール・ソングの100年」(8)音と掛け合いが紡ぐ、インド音楽(②近代化と伝統編・バラタ・ナーティヤム)
[画像]カップルが上演するバラタ・ナーティヤム。
(出典:sccart "Bharatanatyam"
https://www.flickr.com/photos/37012880@N07/37566155180/
(accessed November 10th,2020))
■伝統舞踊バラタ・ナーティヤムの存亡の危機
ベンガル地方からインド全土に広まったイギリス統治は、インド社会に新たな価値観をもたらし変化に揉まれることになります。そうした中で、かつて南インドで隆盛を誇った伝統舞踊が風前の灯となっていました。
バラタ・ナーティヤムは南インドを代表する伝統舞踊で、デーヴァダーシー(神の召使)と呼ばれるヒンドゥー教寺院に所属する巫女たちの奉納舞踊がルーツです。
ヌリッタと呼ばれる純粋舞踊と、アビナヤという演劇的表現(マイム)で成り立つ踊りで、一人の踊り手が何人もの役を演じる形式です。曲はヌリッタのみで成り立つもの、アビナヤのみで成り立つものもあれば、両方で成り立つものもあります。演者の神話に対する知識と理解力が試される舞踊でもあり、演者はアビナヤで自己を最高に表現します。
(……)南インドの古典舞踊「バラタ・ナーティヤム」はどうだろう。両面太鼓のムリダンガムが打ち出す複雑なリズムにぴたっと合せて、踊り手は手でさまざまな形を作り、正確なステップを踏む。かと思うと、歌詞の内容に合せて、体の動きや表情を変えながら、最後に片足をあげて舞踊の神ナタラージャのポーズをきめる……。
([出典]辛島昇監修『世界の歴史と文化 インド』新潮社「音楽と舞踊」P.243)
寺院や宮廷で演じていた踊り子たちに、近代化の波はパトロンの没落となって襲い掛かりました。
イギリス統治により彼女らを支えていた王権が弱体化すると、金持ちのパーティーや結婚式など寺院や王宮に代わる働き口を探し求めます。しかし、婚姻関係を持つわけでもなく複数の男性と交わる習慣は不道徳だと、社会で非難の的とされてしまいます。ついには娼婦にまで身を落とす者まで現れます。
歴史ある伝統舞踊は、合いの手を入れてくれるパトロンを失い、存亡の危機に直面しました。
■新たな「ステージ」は民衆の中に
その危機的状況を救ったのは、踊りの価値を認めていた人々でした。1920年-30年代、彼らは踊りのための新たな「ステージ」を生み出そうと社会に働きかけていきます。
E・クリシュナ・アイヤルは伝統舞踊の存続に情熱の全てを捧げた人物です。彼はインドの伝統文化のパトロンであるバラモン階級の生まれであり、そして弁護士でありながら自らも踊る文化愛好家でした。
彼はまだ設立間もないマドラス音楽アカデミーでデーヴァダーシーによる上演を実現させ、音楽会議の場で公演を積極的に擁護する意見を発信していきます。かつて「シャディル」と呼ばれていたこの舞踊をバラタ・ナーティヤムと呼ぶようになったのもこの頃のことで、過去の忌まわしいイメージを遠ざけるためでした。
アイヤルらが寺院・宮廷でなく、民衆の中に舞踊を溶け込ませようとする試みはやがて実を結びます。アカデミーが公演の場を提供し、普及に努めていく方針を決めたのです。バラタ・ナーティヤムの芸術的価値が認められた瞬間でした。
[画像]バラタ・ナーティヤムのワンシーン。
(出典:Vishwas V R "Bharatanatyam"
https://www.flickr.com/photos/37148250@N03/5151343577/
(accessed November 10th,2020))
舞踊の復興運動にはアイヤルのような男性だけでなく、女性も重要な役割を果たしました。その中にはやがて海外でも名を馳せることになる声楽家M・S・スッブラクシュミーなど、音楽界をけん引していく人物も加わっていました。アカデミーはそれまで男性が独占していた場所でしたが、バラモン女性が運営に参画するようになりました。
[リンク]声楽家M・S・スッブラクシュミーのライブでの様子。70歳を過ぎても現役だった彼女の歌唱力は尊敬を集めている。
(出典:https://www.youtube.com/watch?v=D8slUawzmPc
Ashwath Narayanan Musician”M S Subulakshmi - bhaja govindam” accessed 10th November,2020)
バラタ・ナーティヤムの存続の危機は、音楽を志す者誰もが仕事として選択できる時代を生み出すきっかけとなりました。一般の人々がこの舞踊を学ぶようになり、人々の参加で舞台芸術として再生することになりました。
こうして芸術が民衆に広く開放されたことが、近代以降の舞台芸術の発展に一役買います。歌と踊りに彩られたインド映画も、こうした舞台芸術が土壌となって育まれていたのです。
■いいと思うものはいいと言う強さ
デリー大学での現代の授業風景から、バラタ・ナーティヤムが存亡の危機を脱却する近代までさかのぼっていきました。時代を超えて音楽が伝統を伝えてきたシーンから垣間見えてくるのは、守るものを守りつつ、時代に合わせて変化させる強さとしなやかさです。
インドの音楽教育のあり方について第7回の記事でデリー大学・音楽学部に留学した体験を綴った井上貴子氏は、西洋近代の教育システムの中で伝統音楽を教育する方式について3つの効果を指摘しています。
【インドの伝統音楽の教育方法がもたらした効果】
①伝統音楽が大衆レベルにまで広がり、支持層が厚くなった
②昔ながらの流派がくずれ、演奏家自身の個性が重視されるようになった
③西洋音楽が必要以上に伝統音楽を侵食しないよう未然に防いだ
([参照]辛島昇監修『世界の歴史と文化 インド』新潮社「音楽と舞踊」P.240)
イギリスによる植民地支配の下でも自らのアイデンティティを保とうとしたたかに歩んできたインド人の歴史が、変革しながら古典音楽の昔ながらの良さを大切に受け継いできた音楽の歩みに読み取れます。どんな障害があっても決して屈することはない誇りは、西洋から伝えられた楽器の用い方にも見て取ることができます。
北はイスラーム王朝の支配、南はヒンドゥーの王国が栄えたインドでは南北で音楽が独自の発展を遂げました。インド南部ではイスラーム王朝の影響力が及ばなかった分、西洋の文化的影響力が強まりました。その結果として南インド音楽ではヴァイオリンが導入され、今やインドの音楽シーンにすっかり溶け込んだ存在になりました。
けれども、演奏する際は座って足で支えて弾くなど、演奏はインド仕様となっています。そもそもヴァイオリンが導入されたのは、声と音の幅広さ、繊細さを重視するインド音楽にぴったりだったからです。
[画像]南インドでの音楽シーン。ヴァイオリンの持ち方がインドでは古典的な足で支える方法。
(出典:Mohan Ayyar "Sangeetha at Arkay Centre"
https://www.flickr.com/photos/ayyar/6774239363/
(accessed November 10th,2020))
形式にはこだわらないけれども、いいと思うものはいいと言う。インド音楽の歴史にインドのお国柄と、文化を発展させる秘訣が見えてくるようです。
(……)彼らが西洋文化から取入れたのは「モノ」であって「ココロ」ではない。そこに彼らの自信としたたかさを感じる。
([出典]辛島昇監修『世界の歴史と文化 インド』新潮社「音楽と舞踊」P.238)
ヴァイオリンが導入されたのは、声と同様の音域をカバーし、繊細で複雑な動きをする旋律を特徴とする古典音楽にフィットしたものだったからです。次回以降『音と掛け合いが紡ぐ、インド音楽』では、インド音楽の特徴であるリズムの理論、さらには音に神を見出した楽聖たちの足跡をたどっていきます。どうぞお楽しみに!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?