AI生成マンダラ集(3) 137 way_finding 2024年10月24日 16:42 ユングいわく、集合的無意識は、脳の構造、いわゆる「本能」と重なり合う。集合的無意識は本能の形式であり、「本能の機能を含んだイメージ」が備わっている。・・そのようなイメージを「元型」と呼ぶ。そして元型イメージのひとつが「マンダラ」である。 「元型とは本能の一形式である」とユングはいう。例えば、ある種類の青虫がある種類の葉ばかりを食べるということがある。その葉を見つけた(何らかの意味で「ないではなくーある」と感じた)青虫には、「わたしのたべもの」という元型イメージ、その食べ物とそれに食らいつく自己のイメージのようなことが無意識に浮かんでくる。 ユングは書く。「昆虫には、刺激となる形態が外界に現れると、そこで機能し始める元型的なイメージが備わっているに違いありません」と。ユングは、元型イメージの世界のおかげで「私たちはどうにか世界を把握することができ」ると書く。元型イメージが、私たちの身体が内/外を区別する境界面であるということを自覚させつつ、その境界面を開かざるを得ない摂食という事態を欲望させる。 葉と昆虫、「食べ物」と「捕食者」。この二つが別々に分離されながらもひとつに結合しようとする。捕食者と獲物の二項関係。これは空海の秘密曼荼羅十住心論でいえば第一住心 異生羝羊心の世界である。 本能はよく「三毒煩悩」という現れ方をする。つまり【自/他】の分別、二項対立を前提として、自分を利することばかり考え、自利のための手段として他を利用し、破壊する。 二者関係。二項が別々に分離しながらも一つに結合している、ということ。 二者の関係は、それ自体として独立自存する第一の項と、同じそれ自体として他と無関係にあらかじめ存在する第二項とが、第二次的にたまたま契約を結んだ、といった関係にはない。 二者の関係は、二を二に分離しつつ結合する”動き”から、分別される、分別されつつある、分別されようとしつつある。 二項対立を組み合わせたイメージで持って私たちは「かろうじて」自分が生きている世界を把握する。例えば食べることでいえば、第一の二項対立「自/他」と、第二の二項対立「捕食者/獲物」という、二つの二項対立を組み合わせた対立の対立=四項関係でもって、捕食者として我、獲物としての他、という意味分節が可能になる 本能的、元型的に把握されたもっともシンプルな世界像は、四項の関係が、ある役割や属性をもった二者の関係に圧縮されたものとして、私たちの無意識に さて、対立の対立、四項関係を分離しつつも結合しつつも分離する。そのような分離なのか結合なのか、どちらでもあってどちらでもないような”あいまい”な状態を可能にするのは、四つの両義的媒介項が、四つの現世的で感覚的経験的な項(自/他とか)たちの”あいだ”に挟まって、振れ幅を広げたり閉じたりするように動くことによってである。 つまり元型イメージたちの「関係」として表現される「本能」的な対立関係は、いつもじつは、八項関係の中にある。 そうであるからして八項関係、円を八分した様式のマンダラは、無意識の「構造」(もちろん動的な意味で)の動きが意識の表層に投げかける影を、直接記録したような、特に「偉大」なイメージということになる。 ユングはマンダラを「対立物の結合の象徴」であるという。対立物、別々に分別されて対立する二項の結合。まさにマンダラは二項を、四項を、八項を、分離しつつ結合し、結合しつつ分離する。「本能」「集合的無意識」がそれ自身の「如実」な姿を、明らかにしているようである。 如実知自心 ところで、十住心論で言えば、「分離」と「結合」もまた、二項対立関係にある。分離とは反-結合であり、結合とは反-分離である。マンダラを「完成」させるためには分離と結合の分離と結合もまた、その八項関係の中に含まれることを思わなければならない。 ある/ない、しろ/くろ、濃/淡、柄/地、直線/曲線、遠/近 太/細、明瞭/不明瞭、面/線 ・・私たちの感覚はまさに無意識のうちにこういう分別を、二分をしている。 いや、無意識のうちの分別をしているといっても、じつはそういつもいつも、自動的にうまくいくとは限らない。 分離されているはずが近づき過ぎているもの。過度に密着するほど結合しているはずが分離してしまったもの。分離/結合の分別の確かさをゆるがすような、分離と結合の両極の間での振幅を描く振動。 分離と結合の分離と結合がバランスをとることができていると、きれいな八項関係になる。 一方で、分離しているはずが結合し、結合しているはずが分離する、極端なアンバランスは、マンダラを捻じ曲げて壊してしまう様に見える。しかしマンダラはありえないほど強靭なものなので、分離と結合の間で高速の振れ幅を描いたところで八項はバラバラになったりはしない。 いやむしろ、八項関係が安定しすぎて、経験的で感覚的な対立の対立の四項ばかりが際立ち、その四項を分けつつ繋いでる隠れた中間の両義的な四項の脈動を見えなくしてしまうこともある。あたかも止まった四項関係がそれ自体で存在するかのように。 分離から結合へ、結合から分離への過剰な振動は、表層で固着してしまった四項関係を再び動きの相へと引き戻す効能もある。 それこそレヴィ=ストロースの神話論理における両義的媒介項たちの動き回り方であり 空海で言えば、吽字義における吽字の字義(深い意味)の四つの字の、不可得、不可得、不可得、不生不滅もまた、分離と結合を分離するでもなく結合するでもなく、にする。 「対立物の結合」、分離と結合の分離と結合を安定させること。 そしてこの分離と結合の分離と結合の仕方は、ひとつではないらしい。ある分離と結合の分離と結合から、別の分離と結合の分離と結合へ、移行するとき。一度、所与の八項関係にして四項関係あるいは二項しかみえないまでに固まって傾いてしまったマンダラを、また、再起動するには、結合と分離の両極の間での過度な振動が効く。 分離と結合、動/静、ある/ない。・・このような極めて基本的な、それこそ集合的無意識の元型イメージの関係として表現されるような対立は、マンダラと非マンダラの分別さえも ユングの共時性は「元型」の動く姿であり、それがイメージとして意識の底に投影されたものが「マンダラ」であり。 https://note.com/way_finding/n/na2e5513f5130 いいなと思ったら応援しよう! 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。 チップで応援する この記事が参加している募集 #AIとやってみた 37,027件 #生成AI #AIとやってみた #曼荼羅 #ユング #深層心理 #マンダラ #構造主義 #神話論理 137