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沈黙する声の意味を聞き取る−読書メモ:井筒俊彦『言語と呪術』(その2)

 世間を綱渡りしていると、よく耳にするのが、「言語はコミュニケーションの道具である」という言い方。

・わかりにくい表現をしていてはビジネスにならない。
・誰にでもスッと伝わる、端的で明瞭な言葉で書き、話そう。
・わかりにくい言い方をするのは失礼。

 などなどと。煎じ詰めると「みんな」が予め知っているであろう意味の範囲に閉じ込めて、言葉を繰り出すべきである、というアドバイスによく出会う。学校でも、就活でも、そしてもちろん社会に出てからのあらゆる「○活」でも、よく聞かされる。

曖昧な言い方はダメ。なのか?

 なるほど、確かに、おっしゃる通りである。実際そのようにしたほうが、社会における様々な活動は円滑に進む。

 例えば病院に行ったとしよう。健康診断の結果を告げる医師がこんなことを言ったらどう思うだろうか。

「あなたは健康かもしれないし、死に至る病かもしれない。いや、人生こそが死に至る病なのである。そして死こそが溢れ出る生命の過剰そのものの健全な姿であるのだ」

 とりあえず、別の病院に行くだろう。そういう話をするために病院に来たわけではないのである。

 予め予測される範囲で、定型的に言葉を繰り出し、交換し合うこと。それによって初対面の個人間でも、役割間のやり取りが、円滑に進む。このことが私たちにもたらしているメリットは大きい。  

 現代の社会。機械のように予め設計されたルールに則って動くべき部品が溢れている。人間も、その言葉も、そうした部品のひとつひとつとして、今の時代に組み込まれている。そこで言葉は一義的であることを何よりも求められている。

 曖昧な言葉、両義的な言い方、どちらともつかない迷いのため息。
 無言で見つめる顔の、その口の沈黙は、複雑な機械の高速動作にとっては、処理のプロセスを撹乱する「ノイズ」でしかない。そうした言葉の濫用は避けるべきである、と。

言葉を濫用しているのは「どちら」か

 とはいえ、一義的であるというあり方は、言葉のすべてではないし、言葉の「本来の、唯一の、正しい姿」でもない。
 というか、むしろこの一義的な言葉というものの方こそ、言葉の側からみれば、その極めて特殊な、ある意味で「誤用」あるいは「濫用」と言いたくなるような、極端な姿なのである

 井筒俊彦氏は『言語と呪術』の冒頭、言葉の歴史について次のように書いている。

言語は呪術師や魔術師のような象徴を拡散する人々の手からますます開放されてゆき、世俗化された社会で営まれる人間生活の全き複雑さに適応する道具へと徐々に自己を変革していった。現代の社会がますます多様で独立した領域へと分化する強い傾向を示すに従い[中略]言葉にあてがわれる用途が、これまで以上に多様化し変容していく… P.16

 現代人である私たちは、この呪い師などとは滅多にお目にかからない、世俗化された、健康的で明るく、はきはきとしゃべる人間たちの間に産み落とされる。そうして言葉とは、出来合いの世界の、正しい意味を伝達する道具、それも流行りのVRなどに比べれば「解像度の低い」少々使いにくい道具、くらいにしか思わない。

 そんなふうに思っって生きていけるというのは、実は幸福なことなのである。

 言葉の本当の姿は、むしろ呪術の方にある。

 象徴を次から次へと変容させ、社会の常識のコードを超出する、新しいコードを続々と編み出すことができてしまうこと。
 象徴を自在に生み出すことこそが目に見ないもの、誰も観たことがないもののことを、複数の人間の間で語り合うことを可能にする、言葉が幻想を生産する力の源泉である。

 呪術の言葉は、この象徴を生み出す現場のすぐ近くに居る。

 現代社会の円滑なコミュニケーションの道具としての言葉は、数代前の祖先たちが生産した象徴を、大量コピーを得意とするメディア技術によって繰り返し使い回し、それ以外の使える象徴の選択肢がないかのようにみせかけたところで、そのかつての象徴に信号の装いをさせたものなのである。

 井筒氏は『呪術と言語』において、次のようにも書いている。

人間にとって意味をなさない言葉は、呪術においては意味がないどころか、人を超越した存在にしか認識できないほどに、より深い意味をもっている、と信じられている…。言語記号による本格的な呪術は、<意味>の生成、コノテーション作用もデノテーション作用も可能な象徴(記号に対立するものとして)の生成とともにしか始まらないと、私は確信している。P.60-61

象徴を信号に圧縮する「不安」

 言葉は、原初は音声であった。文字が発明されるのは遠い未来のことである。

 現代の円滑なコミュニケーションで便利に暮らす私たちもまた、音声が意味を生む力に触れざるを得ない事がある。とてもよくある。それはなんのことはない、誰かの「声」を直接聞かされる場面である。

 同じ言葉でも、軽やかな笑顔で目を見て言われるのと、大きなため息とともに目を合わさずに言われるのとでは、その「意味」が全く違う。

 電話よりメールの方が気が楽いやいや、メールだと本心が読めずに怖い。直接顔を見て話したい。などという声も溢れている。

 この便利な電子情報通信技術でコミュニケーションを超円滑化された世界においても、私たちひとりひとりは、対するひとりひとりの他者との間で一瞬の息吹となって現れる言葉を、象徴としての多義性から信号としての一義性へと圧縮する瞬間に、恐るべき賭けをしているという不安から逃れることができないのである。

 そうであるからして、つい言いたくもなってしまうのであろう。わかりにくい言い方をしないでくれ、と。しかしそれは、言葉からすれば「御冗談でしょう」と言いたくなる無理な要望である。

 わかるわからないは、そしてまたどうわかるかは、わかろうとする側が聞き分けることである。聞く側も、また、多義的に聞いてよいのである。

 多義性は耳においてこそ生まれる。

つづく




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