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おすすめの【本】‐読書メモ

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仕事柄、日々いろいろな本を読んでいます。幸運にも出会えたおもしろい本をご紹介します。
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2018年11月の記事一覧

来訪神は「この世」というバーチャルリアリティをつくる古代のメディア技術

来訪神が世界遺産に登録された。 来訪神を英語ではどう言うのだろう、と興味本位でユネスコのサイトをのぞいてみたところ、なんとそのまま「Raiho-shin」である。 来訪神は、一年のうちの決まった時期に邑を訪れては、村人を追いかけ回したり、脅かしたり、泥を塗ってみたりする。そうして、放っておけば何気ない日常の時間がいつもと同じように過ぎていくはずの集落を、束の間「大騒ぎ」に引き込む。 来訪神は、異形の面と箕の神である。 来訪神に直面して、その姿をみて、「仮面だ」と、言え

国家の言葉と資本の言葉、その意味を巡る闘争の残響としての「私」ー読書メモ:内田隆三著『国土論』(2)

 内田隆三氏の『国土論』を引き続き読んでいる。 商品としての国土 二〇世紀の最初から始まった『国土論』も、読み進めていくうちに、第二次世界大戦へ、そして敗戦、戦後へと至った。「ほんの」数十年の間に生じた変化のそのあまりの目まぐるしさに息を呑むばかりである。  西郷ドンであるとか坂本龍馬とか、いわゆる「幕末」的なイメージで想像される日本と、現在の私たちが日々をやり過ごす日本。そのふたつの間はほんの数世代前の年月でしか隔てられていない。  幕末と現在。その「隔たり」を、現在

記述することが、対象をそれとして生み出し、可視化する ー読書メモ:内田隆三著『柳田国男と事件の記録』

 内田隆三氏の『国土論』を読み直している。恩師にそのことを伝えたところ、内田隆三氏といえば、『柳田国男と事件の記録』は必読であると教えていただいた。そういうわけで早速Amazon経由で入手を試みた。 この本は、柳田国男がその著書『山の人生』の冒頭「山に埋もれたる人生あること」で行ったある事件についての「記述」を、その記述するということが、いかなることであるのかを問う。  「山に埋もれたる人生あること」。この一節を含む『山の人生』は青空文庫にも収録されているし、国会図書館デ

間取り図で遊ぶー南側が無い部屋の詩学

 素人が間取り図を空想する。  「暇なのか」とお叱りを受けつつ、引き続き描いてみる。 ユングの「塔」 かの集合的無意識で知られるC.G.ユングは、自ら「塔」を建設した。構想、そして実際に石を積み上げていく過程で浮かび上がる形態。そこに無意識とリンクして、無意識から意識へと「登ってくるなにか」の目に見えるパターンを探ろうとした(らしい)。  ユングといえば、東洋の「曼荼羅」の構造にも着目し、そこに無意識とリンクしたなにかを見ようとしたことでも有名である。 「どのような無

よい記述は、ある部分の饒舌さを際立たせることで、他の多くが沈黙していることをありありと予感させるー読書メモ:内田隆三『国土論』(1)

 内田隆三氏の『国土論』を読み返した。  しばらく前には、同じく内田氏の『社会記<序>』を読んでいる。  『社会記<序>』は、柳田国男の筆を通して対象化された「日本」をめぐる旅、「日本」について論じる「論じ方」をたどる旅であった。それについては下記のnoteに簡単に紹介させていただいた。  さて、今回読むのは『国土論』である。 人々の意識のなかに「国土」なるものがひとつの抜き難い現実として浮上してくるときがある。(p.5)  という一節から始まるこの本もまた、「二〇

20世紀と「日本人」を問うことー読書メモ:内田隆三著『社会記<序>』

 社会学者内田隆三氏の『社会記<序>』を読み直した。  ちょうどいま毎週参加している、とある大学院のゼミで柳田国男論が飛び出してきたところである。柳田の日本人論、そして「柳田論」。  そういう「論」。言葉によって記述することで「それ」を対象化する営為とでも言おうか。  この『社会記<序>』は、柳田国男が日本人について論じた、その論じ方を問う。  「論」について論じる。「論」が展開される現場でその論じるという営為について論じる。  この本で内田氏は、かの柳田国男が「日本人

他者の夢ー読書メモ:中沢新一『ミクロコスモスⅡ』

軽快な他者たち。私と対立するものではなく、私の起源そのものである懐かしい他者たち 中沢新一氏の本はいつも、コトバで考えることがとても愉快な時間にもなり得ることを思い出させてくれる。  コトバたちがコトバであることを純粋に楽しんでいる様子を、ちょうど『鹿踊りのはじまり』の嘉十のように、すすきの影からこっそり眺めているような心地よさ。  コトバは私にとっては他者である。そして私がコトバを使って名前をつけている眼の前の現実もまた他者であり、その全貌を垣間見ることも困難な「世界」も

なぜ読書するのか?

 私はいつも本を読んでいる。本を読まない日はないだろう。  それは殊更、つど人様に宣伝することでもないと思っているが、何かのはずみで人に知られることがある。そしてこんなことを言われる。 「本がお好きなんですね」  そう言われると、どうも釈然としない。  私は本が好きなのだろうか?  「好き」となると、どうもそこに主体性があるような気がする。  好きになる主体、好き嫌いを判断し客観的に評価する主体。  自分の読書には、どうもこの主体性というものが無いのではないかと

りんごの芯へ沈み込む凹みは中なのか外なのかー読書メモ:見田宗介著『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』

目に見える光景よりもスマホの画面を「通して」みる世界の方がリアルという経験 多摩の夜は暗い。  深夜の京王線に揺られながら、ふと窓の外に目を向けても、ここがどこだか識別できるような視覚情報は飛び込んでこない。ただ暗く、まばらな電灯たちが同じ方向に、同じ速度で飛び去る。  それを見ていると、こちらが動いているのか、あちらが動いているのか、分からなくなりそうだ。  乗り慣れた路線である。昼間であれば、外の景色を見れば、どの駅とどの駅の間を走行中かすぐに分かるというのに。不意