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他者の夢ー読書メモ:中沢新一『ミクロコスモスⅡ』

軽快な他者たち。私と対立するものではなく、私の起源そのものである懐かしい他者たち

 中沢新一氏の本はいつも、コトバで考えることがとても愉快な時間にもなり得ることを思い出させてくれる
 コトバたちがコトバであることを純粋に楽しんでいる様子を、ちょうど『鹿踊りのはじまり』の嘉十のように、すすきの影からこっそり眺めているような心地よさ。

 コトバは私にとっては他者である。そして私がコトバを使って名前をつけている眼の前の現実もまた他者であり、その全貌を垣間見ることも困難な「世界」もまた他者である。私はそういう様々な他者たちにとっての他者、いくつもの他者の折り重なった部分である。

 であるからして、他者であるコトバたちが、沈鬱で重苦しい不穏な不審者ではなくて、さも楽しそうに遊び飛び跳ねている連中であるということが、結構重要になってくる。私が、沈鬱な重苦しさによってその他者として眼指されているモノではなく、気ままで軽快な吹き抜けていく風がお構いなしに吹き揺らしていく塵の漂いような事柄だとすれば、まあ生きるのは朗らかなことになる。

 光があふれる午後の時間。

 眼の前のものたちが、光のなかに溶けて、見えなくなる。

 光のなかで、見えるものが見えなくなり、見えないものが見えるようになり、私の目もまたいつもとは違う何かになる。

 それは不安や恐れとはまったく無縁で、なにか強烈な懐かしさを呼び起こす瞬間である。

虹の蛇の夢

 ある日、中沢新一氏の『ミクロコスモスⅡ』のはじめ、「369(小説)」読んでいて絶句した。心臓が止まるかと思った。
 そこにはこんなお話が書いてある。長めに引用させていただく。

インディオのシャーマンたちが調合してくれるあの奇妙な液体を飲むと、はじめのうちはひどく気分が悪くなってくるけれど、それをがまんしていると目のなかに光がまたたきだすのが見えてくる。目の中というか、目の奥というか、とにかく自分のからだのなかから目の神経をとおして、つぎからつぎへと光の滴がとびかうようになるんだ。そのうち虹があらわれるようになる。ひとつの虹が右上から左下の方向に流れていくと、すぐに別の虹があらわれて、こんどは左上から右下になめらかに流れていく。虹はたがいに交差して、頭のなかの空間が無数の格子状になった虹でいっぱいになっていく。そのうちにたくさんの虹がひとつに合流して、大きな銀河のような流れをつくりだす。そうなるともう虹というより蛇だな。pp.23-24

 とにかく、心底驚いた。

 なぜなら、ここに書かれているのと同じものを、私は見たことがあるのだ。

 もう何十年も前の子どもの頃、それもおそらく非常に小さな子どものころである。

 当時の私は、インディオのシャーマンに弟子入りして修行を積んでいたはずもなく、東京の郊外の何の変哲もない居住地エリアの核家族に生まれた、まだ小さな子どもだった。

熱にうなされる子ども

 小さい頃、私はひどい頭痛持ちで、頻繁に熱を出して寝込んでいた。そうして熱にうなされると、いつも決まって見る同じ夢があった。それがまさにこの上に引用した「369(小説)」の一節に描かれている光景なのである

 狭いマンションのことである。子どもの私は、電灯が消された4畳半程度の部屋に、家具に囲まれて寝かされている。

 ふすまの隙間からは隣の居間から光が差し込んでくる。両親がまだ起きて、食事をしたり、テレビニュースを見たりしているようだ。

 ふすまの隙間から差し込む光の線は、敷きっぱなしの布団から立ち上がるホコリの一粒一粒を見えるようにしていた。

 そんなものをじっと目を見開いて見ていたような記憶がある。

 ときどきふすまがあいて、親が何かを言っていたという記憶があるが、自分がそれに何か答えたような覚えはない。まぶたを閉じる。

 まぶたを閉じると、次第に「それ」が見えてくるのである。

第一幕 光の滴

 まず光の滴(しずく)と書かれているもの。それが見える。ひとつふたつではない無数に見える。

 この出だしの部分だけは、いまでも、いつでも強制的に見せることができる。

 目を強く閉じて、手を使って目をこする。というか強く押さえる。そうするとたくさんの白色光の「粒」がざーっと流れ出す。興味がある方は、目を傷めない範囲で試してみると良い。

 目を閉じると真っ暗で怖い、という話をよく聞かされたが、私にはそれが理解できなかった。逆だろう、と。
 目を閉じるとあまりにも眩しい、銀河系の真ん中のようなものが見えるだろう、と。目を開けているよりも、閉じたほうが、「本当のもの」を見ることができるらしい。そんなことを考えていた。

第二幕 滴が集まり流れ落ちる

 さて、第二幕であるが、これはもうこの30年くらい見ていない。しかしはっきりと覚えている。光の滴が、次から次へと「流れ」になっていたるところから落ちてくる、ちゃんと上から下に落ちてくるのである。上の引用では「虹」と書かれているが、私が見たものは七色の虹ではなく、白色であった。深い黒の背景に、マンガに出てくる流れ星の箒の部分のように、光の束がふってくる。

 それがしばらく続くと、次の瞬間、光の束が、いくつかの線になって固まる。その線たちは交差し、直行し、まさに格子状の地平を構成する。ちょうど超巨大で延々とつづく「障子の枠」の上に立っているよな感じ。

第三幕 障子の枠 

 第三幕。引用では、たくさんの虹がひとつに合流して、となっているが、私の場合はここが少し違う
 さっきまで地平を描いていた格子が、突然斜めになり、縦になる。壁になる。障子の枠にしがみついて河を下っていたら、滝に落っこちたという具合である。
 わたしは格子から滑り落ちる感覚を覚えておそろしくなる。どこまで滑り落ちるのだろうと。ところがその平面の回転は止まらない、縦になったり横になったり、上がったり下がったり、そして最後に、格子状の二次元の面であることをやめて、いくつもの線と、滴にもどり、真っ暗な「底」へと落ちていく。そしてそれを「見ている」私の意識も一緒に落下している感覚になる。

第四幕 地底を這う光の蛇

 第四幕。大きな銀河のような流れ、というやつである。私は「底」に降りてきている。足がつくところがある。なぜか私は、大きな岩のようなものの影に隠れている。そしてそこからこっそり目を出すと、例の光が、大きなうねりとなって右から左へ、轟々と流れているのである。さながら地平を、黄金に輝く果てしなく長く、太い光の蛇がうねうねと這っているようだ。

 そしてよく見ると、その光が、無数の人間の形をしたものの集まりであることに気づく。この下りも中沢新一氏のお話には出てこないところである。

 私は、子どもだった私は、ここに至りなにか見てはいけない者を見てしまったような直感がして、その「人」達に見つかるのではないかと恐ろしく感じ、岩の陰に身を潜める。

 しかし、ちょうどいたずらをして隠れている子どもの感覚であって、その流れている黄金の光には、とても親しいものを感じていた。「自分はもともとあれなのだ、あそこからはぐれてここにいるのだ。いつかあそこに帰るが、いま帰ってしまうと、あの人達に怒られてしまうから、もうしばらくこちらに隠れていよう」と。

第五幕

 第五幕、と生きたいところだが、その先は、ない。

 これで夢はおわりである。

 熱にうなされた布団の中で見た夢。しかも一度や二度ではない。高熱という条件さえあれば、繰り返し見えたが、成長するとともに、いつの間にか見ることがなくなった。
 しかし現30歳代後半になった今でも、風をひいて熱が出ると、ひそかにまたあれを見られるのではないかと期待してしまう。

おわりに 

 とまあ、その光景が、中沢新一氏の本にそのままずばりと書いてあるのである。他の本によればこれは内部視覚というらしい。この話を知るまで、まさか自分の見たものが、人類の神経システムに備わっている動きのパターンの発現であるとは、思いも至らなかった。

 本のことを書くつもりが、自分の話になってしまった。

 私は私自身のことよりも、この光の底を流れるものたちの方を、よりリアルな、本来の実在、わたしも本来その一部であり、いずれそこに帰ることができるのだと、ワクワクした気持ちで眺めていた。もちろん、今は早すぎる。いま、彼らに見つかってはまずいな、と思いながら。

 今なら、いくつもの思想のコトバを借りて、その状況をコトバにできる。いや、コトバという他者たちの世界に写像させることができる。

 私は他者であり、他者の他者である、と。

 それは自他の区別、対立関係が生じる「手前」のことをいくつものコトバに次々と置き換えていく、『ミクロコスモスⅡ』の営みが浮かび上がらせることでもある。

おわり


関連note

  夢のほうが覚醒時よりもリアルだというお話↓

 自他の区別が生じる瞬間に立ち会うこと。そのためのコトバについて↓

 コトバという他者に憑依されてしまうというお話↓


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