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震える手紙

私はあなたを知っていた。いまはあなたの顔をもう清々しく思い出せない。断片的な印象だけが、例えば口角の微かな窪みや、いつも清潔に整えられた眉山だとか、僅かに上を向くその鼻梁だとか、ソマリアの子供が泥水から掬い上げた水晶の破片のような記憶の集積が、私の孤独の周りを衛星として周っている。けれど実のところ、周っているのは衛星ではなくて私の方なのかもしれなかった。あれだけあなたの孤独を知り、コンクリートブロックで擦りむいたその裂傷の大きさを丁寧に測ったにもかかわらず。

そのことについて、私はもうすっかり悲しくなって、大量の荷物をあなたの部屋から運び出しながら、その荷物を入れたIKEAのエコバッグの紐が肩にぎりぎりと食い込んで、それで痛いのか、悲しいのか、なんだかわからなくなって、ずっと涙を堪えていた。そうして堪えているうちに涙はキノコになって、私のまわりを踊り出すのだった。その踊りは奇妙で、笑い出したかと思えばすぐに地面に潜り込んで嗚咽したり、あるいはナイフをバナナに突き刺しながら土星を信仰し始めたりする類のものなのだった。唯一、私が理解できたのは爪先立ちになりながら自分の肘を口に近づけようともがくその苦しみだった。いつまで経っても肘は口に近づくことなく、口は肘に触れることもなく、口と肘はずっとずっと、前からずっと知っていた友達かのように振る舞うだけなのだった。

そのキノコのうちのひとりが私に向かって、はっきりと丁寧な発音で「洗練された悲しみは愛に勝る」といった。

それでも私の肩に食い込んだ紐、あるいはあなたの部屋に置いていたもろもろの生活必需品がこんなにも惨めに多いことの情けなさは容赦なく私を責め立てている。思い出す、私がピアノを弾く日、あなたは「ごめん、遅れてしまった」と言い、車から降りてきた。肘も口もなく私はあなたを責め、ごうごうと怒りを浴びせかけた。その日のうちに乗り込んだ飛行機は乱気流の中を飛び、まるで墜落したかのようなまるっきり下手くそなランディングを含めて、「快適な空の旅を」と笑う。いつの間にか期限が切れていたパスポートで唯一行ける国を私は知悉していて、そこへ向かうより他なかった。

その国の保安検査官はいつもの調子で「そろそろだと思っていましたよ」という。そんな言葉にすら私は動揺して、大根の煮付けがね、と答えてしまう。確かにもう大根の煮付けが美味しい季節なのだけれど、保安検査官は大根の煮付けなど与り知るわけもなく、曖昧な笑みを浮かべて、「冬ですからね」という。私はすぐにこう答える。

「冬だからって、大根の煮付けが、とは限らないでしょう。確かに私がその口実を与えてしまったことには間違いないのだけれど」

保安検査官は中身をあらためたスターバックスのコーヒーを私に返しながら、最近は寒いですし、温かいコーヒーもいいでしょう、と言い訳のようにいう。まるであなたのようだ、と私は思いながら、受け取ったコーヒーを一気に飲み干して、保安検査官に渡す。できる限り丁寧さと不躾さの中間になるように。

私は思う、いつの間にか悲しいことも辛いことも嫌なことも、すぐに忘れ去ってしまうようになったと。こうして保安検査官と話した大根とコーヒーの奇妙な詩も、すぐに短縮されて名前すら持たない1日になるに違いないのだ。できる限り全てをとどめておきたくても。さまざまなところに張り巡らされた(いつの間にか!)警報器がすぐに鳴ってしまうから。その警報器がけたたましく鳴ると、私はすぐに大根もコーヒーも放り投げて全てのドアを閉じ、この下らない蛋白質の集積たる脳味噌をスライスして、いちいちホルマリン漬けにしなければいけない。脳味噌がホルマリンをすっかり吸い込んで、感情が保存できるようになってはじめて私はドアをわずか2cmほど開けて、空気に対するリハビリを続けるようになる。かろうじて今は大根もコーヒーも覚えていられるけれど、保安検査官はもう二つとも忘れてしまっているかもしれない。怖くなって、私は尋ねる。

「大根が、なんでしたっけ?」

「煮付けがいいですよね」

「そうね、コーヒーも合うのかしら。大根の煮付けに。味覚なんて当てにならないけれど、少なくとも色は似てるわね。二日酔いの朝に淹れるコーヒーはもう濃いのか薄いのかわからなくて、色も味もわからないのだけど」

「麦茶も紅茶も、コーヒーや煮付けも……場合によっては金目鯛も一緒かもしれないですね。これも検査が終わったのでお返しします」

そう言って保安検査官は大きな大きなぬいぐるみを私に渡す。こんなに大きなぬいぐるみを私は飛行機に持ち込んだ覚えはないのだけれど、確かに手荷物の控え番号と一致していて、それを受け取るより他ないのだった。そもそも、到着国で検査をするなんて、と思いながら。

「それにしても大きなぬいぐるみですね。プレゼントですか?」

「そうかもしれないけれど、私はこれを持ってきた覚えはないの」

「覚えはなくても、持ってきたことに変わりはないでしょう。それにあなたではなかったとしても、ここに到着した以上。そうでしょう? 係員にカートを用意させますね」

私は受け取ったぬいぐるみの顔をまじまじと見つめながら、この子だったら肘も口も全部一緒かもしれない、と思う。この子には金目鯛もコーヒーも一緒だわ、と。何よりその体は茶色と呼ぶ以外なく、悲しいことも嬉しいことも綯い交ぜに縫い付けられた、というより、接着されたプラスチックの目玉はびかびかに蛍光灯の光を反射していた。がらんどうになってしまった空港の到着ロビーにはぬいぐるみと、私と、保安検査官がテーブルに置いて行ったコーヒーの紙カップが残されていた。部屋から持ち出した荷物の入ったIKEAのバッグは、そういえばどこだろう、と思って周りを見渡すのだけれど、出口も入り口も見当たらなくて、ただ広がりがあるのみだった。

金目鯛もコーヒーも一緒になったそのぬいぐるみを引き摺るようにして私はしばらく彷徨い、もう一度一人芝居を繰り返した。

「大根が、なんでしたっけ。煮付けがいいですよね」

「コーヒーも合うのかしら、大根の煮付けに。味覚なんて当てにならないけれど、少なくとも色は似てる……。二日酔いの朝に淹れるコーヒーは濃いのか薄いのかわからないし、色も味もわからないけれど。麦茶も紅茶も、コーヒーや煮付けも……場合によっては金目鯛も一緒かもしれないですね。これも検査が終わったのでお返しします」

「それにしても大きなぬいぐるみですね。プレゼントですか。そうかもしれないけれど、私はこれを持ってきた覚えはないのよね」

はっ、とする。はっ、覚えはないのだわ、私には、これっきり。記憶がないのだから、ぬいぐるみも金目鯛もあって当然だわ、と知る。もし覚えがあれば、私のぬいぐるみは片手に収まる大きさのはずだし、金目鯛は嫌いなはずだった。ぎょろぎょろした目も、プラスチックの目玉も、私はどうしてこんなに直視できるのかといえば、はっきり言って、経験したことがないだけなのだった。知らないからこそ私は悲しくて、嬉しくて、どうしようもなくて、ただこの空港のロビーでずっとずっと知らないぬいぐるみを引き摺るより他ないのだった。そのほかを今思い出そうとしてみれば、何より、覚えていないことにこそ、覚えていることがある、と感じるようになる。そうやって金目鯛の奥にあなたのくれたプレゼントや、ぱんぱんのIKEAのバッグ、あとは部屋に転がったままの涙まみれのティッシュだとか、そういった悲しいことがたくさん見えてくるはずだった。でも、覚えていないならどうして私は悲しいのだろう? たくさんの星屑の中にアンドロメダを見出しても土星の衛星を探りあてても、ずっと私は悲しいままだった。

係員を呼びつけた保安検査官はまっすぐに私のところへ歩み寄って、これで重くないでしょう、お気をつけて、という。渡されたカートの中にぬいぐるみと私はすっぽり入って、しばらくそうしていた。カートを押す人もいないけれど、大丈夫かしら、と案じていると、カートはそのうちにひとりでに走り出した。目的地をカートに伝えようとすると、カートはぎゅんぎゅんと車輪を回すので、きっと彼はひとりでに走りたいのだわ、と思うことにした。

心地よい狭さの中で、ぬいぐるみに私は尋ねる。金目鯛とコーヒーはどう違うの? と。ぬいぐるみは、想像できないほどの早口で「1文字の違いだね」と言った。同時に、大きな違いだ、とも言った。

「じゃあ、肘と口は?」

「ひじ、と、くち、か。まるっきり違うようで一緒なようにも思える。ひじとくちを合わせれば僕だ」

「そうなの。だから違いを知りたいの」

「金目鯛とコーヒーも、合わせて仕舞えば僕だ。合わせたのに外し方がわからないなんて滑稽だ。僕自身の問題なのに」

「泣かないで、私もわからないもの」

しばらく泣き止まないぬいぐるみに、私は独り言のように物語を聴かせてやった。これまでのこと。悲しかったこと。嬉しかったこと。IKEAのバッグが重くて泣いたのか、悲しくて泣いたのか、わからなかったこと。着陸の下手くそな飛行機に乗ってきたこと。保安検査官のこと。

「そうやってここにきたから、私もわからないの。こんなに色んなことが起こっているのに、全部が全部私のことで、全部何もわからない。継ぎ合わせてできたことについてはわかるけれど、その断片については恐ろしいほど何もわからない。覚えていなかったんだわ、と思うのだけど、覚えているから、ここにいるのよね」

「僕は覚えてすらいない」

「ぬいぐるみだものね。縫われたんだもの。痛かったでしょう」

「どうなのかな」

「なかのワタはわかる? ポリエステル? 綿?」

ぬいぐるみは自分の背中やお腹を押しながら、泣きじゃくり。そして素材表記のタグがないかを何度も確認しながら、変わらず泣き、何もわからない、と消え入りそうな声で告げた。

「みんなは僕にいう、なかがポリエステルだろうと綿だろうと、あなたが優しくふかふかであることに変わりはないよ、というんだ、僕は優しいのかな、僕はふかふかなのかな」

「私のお母さんもよくいうわ。この子は優しいんですよ、って。白熱電球がびかびかの病院の廊下で」

「生きづらさが優しさに変わってしまったことを?」

「おそらくそうだと思うわ。けれど、私はひとつも、生きづらいと思ったことはないの。きっとあなたもそうね。柔らかいから潰されるでしょう。それがあなたに与えられた皮膚だものね」

ぬいぐるみはまた泣きながら、でもこれだけは見つけた、と言って、刺さっていた針を取り出した。初期不良品だったんだ、と。少なくとも製造の水準には満たなかったのだ、と言って、また泣くのだった。ひとりでに走っていたカートはいつの間にか夜の高速道路を静かに走り抜けていて、たくさんの渋滞を横目に追越車線をするすると走っていた。

多くのテールランプが連なる高速道路は何かの滑走路のようにさえ見えて、合流し、再び離れていく車たちが残した後悔と憐憫の破片を私たちは垣間知りながら、前方に注意を向けていた。カートはあくまで従順に風を受け、道路状況に合わせてサスペンションを細かく調整していた。おかげで私たちはゆっくりと渋滞を眺めながら、夜の帷に包まれた高速道路の匂いを吸い込むことができた。

私はぬいぐるみが泣きつかれて眠ったのを確認して、そしてカートに小さく告げた。渋滞のなかに、もし私がいたら止まってね、と。

そして私は保安検査官のメールアドレス宛に「ぬいぐるみのもとの持ち主がわかったので、至急こちらで落ち合いましょう」というメッセージを送信した。届くのにおそらくタイムラグはあるだろうけれど、もうそんなことは瑣末な問題なのだった。きっとそのメッセージが受信される朝には、私たちは空港の縁取りを走っていて、保安検査官は私たちを見つけるのに苦労するだろう。というより、そうでなければならないのだし、それがぬいぐるみの定めですらある、と思う。

悲しみと憎しみが混ざり合った針の、その小さな傷のために、かつてあなたの裂傷を測ったあの数値をここで思い出して、私はぬいぐるみの小さな傷をゆっくりと、ぬいぐるみに気づかれないように、あなたの裂傷とまるきり同じ大きさになるように引き裂いていった。

涙がたくさん溜まったぬいぐるみの中側からワタが溢れないようにしながら、私はその引き裂いた傷の中に指を差し入れて、ゆっくりと傷の周辺の温度を確かめた。時折、肘にまで伝ってくる生ぬるい液体は高速道路のアスファルトに染みを作り、まるで標識灯のように痕跡を残すのだった。やがて私はぬいぐるみの傷があなたの裂傷とまるきり同じ仕組みになったことを確認して、カートに「ここで降ろして」と命じた。まだ朝の気配も感じられぬ冬の早朝の高速道路は痛いほど冷えていて、私はぬいぐるみが後悔しないことを祈りながら(きっとぜったいに間違いなく、ぬいぐるみは泣き叫ぶだろう)、カートに「起こさないように走ってね」と言い、高速道路のICを出て、海辺へと歩いていった。

変わらない手紙も、いつまでも残り続ける記憶も、あなたの傷も、そして何よりあなたがずっと気づくことのない私の傷にも、同じだけの痛みがあって、その構造が違うだけなのだ、ということに、ぬいぐるみは、あなたは、気づくだろうか。勝手に配列を変えられた傷はきっと想像以上の痛みをもたらすだろう。でもそれはあなたが選んだことでも、私が選んだことでも、そしてもちろん保安検査官が選んだことでもない。記憶されそこなったわずかな言葉が傷を走らせ、この空港へと人々を(時折ぬいぐるみや金目鯛、コーヒーを)仕向けるだけなのだ。

海辺は大きな大きな置き手紙の形をしていて、砂浜には「7時に帰ります」と書いてあった。それだけだった。







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