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何がしたいのか分からないまま人生を終えたくないあなたへ(映画監督 紀里谷和明)

※ この記事は、ハリウッドデビューした日本人映画監督 紀里谷和明氏の著書『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた 自分と向き合う物語』(文響社)の3章を、全文無料公開するものです。

 『地平線を追いかけて~』は、紀里谷氏が4年半の月日を費やして書き上げた、これまでになかった「読み手参加型・対話式」の自己啓発小説(対話篇)です。ぜひまったく新しい読書体験をお楽しみ下さい!(by. 担当編集 編集集団WawW! Publishing 乙丸益伸)


紀里谷和明氏書籍まえがき


 定時のチャイムが鳴ったあと、瞬は、同期の茉莉(まり)から非常階段の踊り場に呼び出された。

「わたし、会社辞めるの」

 茉莉は、瞬と同じ会社のデザイン部に所属しているが、晴れて独立し、昔からの夢だったイラストレーターになるのだという。

 瞳をキラキラさせて話す茉莉に「よかったね。おめでとう」と言葉をかけて席に戻ると、さっきまで軽やかに降っていた雨が、重たいみぞれに変わっていた。

 瞬は、途中だったメールの続きを書くために、急いでキーボードを叩いた。しかしなぜか、メールを締めくくる「よろしくお願いします」の一文が打てなかった。正確には、打っては消して、を繰り返していた。

 瞬は鼻から大きく息を吸い、口から思い切り吐き出した。そして、パソコンの電源を落とし、会社を出た。

 みぞれのせいで、視界は悪かった。そのせいだろうか、いつもなら駅まで5分で着くはずが、なぜか駅舎さえ見えてこない。おかしい。一度、道を確認しようと軒下に入った。骨が1本ペキッと折れた、だらしないビニール傘を閉じると、そこは小さな劇場だった。

「こんな劇場、あったっけ?」

 そうふしぎに思っていると、扉が開いて、黒いチェスターコートをまとった男性が出てきた。

「寒いですから、どうぞ中へ」

 少しためらったが、たしかに顔も指先も凍りそうに冷えていたので、言われるがままに入ってしまった。劇場の支配人を名乗るその男は、瞬を客席に座らせると、熱い紅茶を淹れてくれた。

──▲ やりたいことが、見つからない


瞬 今日、同期の子に呼び出されて、突然「会社を辞める」って言われたんです。

支配人 そうですか。

瞬 はい。新卒で入った会社で、6年間ずっと一緒にがんばってきた子だったんで、いきなりで驚きましたけど。彼女……茉莉(まり)っていうんですけど、茉莉はずっと、イラストレーターになりたいって夢があって。

支配人 イラストレーターというのは、雑誌などで絵を描いている方のことですか?

瞬 はい。本の挿絵とか、雑貨の絵を描いたりとかもありますけど。……うちの会社は、編集プロダクションっていって、出版社と協力しながら本を作る制作会社みたいな仕事をしている会社なんです。

支配人 そうですか。

瞬 小中学生向けの問題集とか、ドリルとかの学習教材をメインに作ってて、僕みたいな編集者を中心に、デザイナーも所属しています。茉莉はそのデザイナーなんですけど、絵があまりにうまいから、イラストレーターの代わりにドリルの挿絵を描いてもらったこともあるぐらいなんです。

支配人 なるほど。

瞬 茉莉に任せれば外注しなくていいから、地味に予算も削減できちゃって。それがきっかけで、出版社の人からイラストの仕事をもらうようになったらしくて、会社と並行してちょこちょこ描いていたみたいです。それで、会社を辞めてもやっていけるっていう見通しが立ったらしく。

支配人 好きなイラストの仕事に専念できると。

瞬 そう、ほんとえらいですよね。

支配人 6年間も一緒に働いていたなら、寂しくなりますね。

瞬 いえ、寂しいのもあるんですが、すごくうれしかったんです。一歩踏み出せて、よかったなって。

支配人 うれしかった。ふしぎですね。

瞬 え?

支配人 失礼。あなたの顔が、少し悲しそうに見えたものですから。

瞬 そんなことは……。僕、彼女のこと尊敬してるんです。毎日遅くまで働いてたのに、いつそんなことやってたんだろうって。

支配人 仕事は、そんなにお忙しい?

瞬 はい。小さい会社だし、なかなか下の子も入ってこないから、雑用とかなんだかんだやることがいっぱいあって。毎日ほぼ終電です。土日は溜めこんだマンガを読んだりすることもありますが、疲れているのでだいたいは寝ています。

支配人 毎日終電とは大変ですね。しかし、今日はまだ夜の7時前ですが?

瞬 ……今日は、ちょっと……。

支配人 ちょっと、どうされました?

瞬 いえ、あの、さっきまで仕事のメールを打ってたんですけど、急に打てなくなっちゃって。

支配人 打てなくなった。

瞬 はい。正確には、打てるには打てるんですが、意味がわからなくなって。

支配人 意味がわからない、というと?

瞬 メールって「いつもお世話になっております」とか「よろしくお願いします」とか定型文があるじゃないですか。あれを打ち込みながら、いったい何をお世話になったんだろう? 何をよろしくお願いするんだろう? と思ってしまったんです。

支配人 どういうことですか?

瞬 なんていうか、急にバカバカしく思えてきて、集中できなくなってしまって。

支配人 どうしてあなたは、それをバカバカしいと感じたのでしょう?

瞬 「僕、いつまでこんなこと続けるんだろう……」って。

支配人 今、あなたがしている仕事のことですか?

瞬 ええ、まあ……。とくに夢も目標もなく、毎日漠然とすごしてるだけなので。

支配人 今の仕事は、「やりたいこと」だったわけではないのですか?

瞬 そうですね……。なんとなく、流れで就いた仕事なんです。だから、別に……。

支配人 別に?

 ……別に、よくないですか?

支配人 どうされました? 急に。そんな怖い顔をして。

瞬 みんな言うじゃないですか。「やりたいことを仕事にしろ」とか「この仕事をするのが夢だった」って常套句(じょうとうく)。でも、仕事って「やりたいこと」じゃないとダメなんですか?

支配人 ダメだなんて、誰も言っていません。ただあなたが、夢を持っている茉莉さんを、うらやましがっているように見えたものですから。

瞬 うらやましい……!? うらやましいに決まってるじゃないですか!! だって僕には、夢がないんです! どうして夢って持たなきゃいけないんですか!?


 瞬は、初対面の人に向かって、どうしてこんなに言葉を荒らげているのか、自分でもよくわからなかった。しかし、それは長年憤ってきたこと。いわゆる「地雷」だった。

「夢を叶える」「夢を追う」「夢破れる」。

 こういった言葉に、瞬は辟易(へきえき)していた。まるで、夢を持つことが生きるうえでの大前提かのような風潮を、うとましく思っていた。

 支配人の肩越しに、非常口の緑の明かりが煌々と光っていた。


──▲ 夢は、なくていい


支配人 「夢を、持たなければいけない」?

瞬 ええ、何か間違っていますか?

支配人 それは、あなたの思い込みではないですか? 夢は、「持たなければいけない」ものではありません。あろうがなかろうが、どちらでもいいではないですか。

瞬 どちらでもいい? ああ、そんな適当なこと……。僕は真剣に悩んでるんです! 夢はないよりあったほうが、しあわせになれるに決まってるじゃないですか!

支配人 どうしてそう思われるのです?

瞬 それは、僕が何の目的もなく生きていて、毎日がつまらないからですよ。これといってやりたいこともなくて、それなのに、ずっと焦燥感にかられてきたんです。

支配人 ほう、あなたの毎日がつまらないのは、夢がないせいだと?

瞬 はい。だって夢に向かっている茉莉は、とっても楽しそうでしたよ? もちろん不安もたくさんあると思うけど、それでも、しあわせそうだった。

支配人 茉莉さんがしあわせそうなのは、夢を持っているからだと?

瞬 だってそうでしょう? そういう歌詞の歌がたくさんあるじゃないですか。「夢があるからがんばれる」とか「夢を追いかけよう」とか。みんなキラキラ歌ってるじゃないですか? わかってるんです! 僕がつまらない人間なのは、夢がないからなんです。でもそれが、見つからないんですよ!

支配人 別に見つからなくてもよいではありませんか。

瞬 よくないですよ! だって、世の中って、「何者か」にならないと生き残っていけないじゃないですか!

支配人 何者かになるとは、どういうことですか?

 それは「自分はこんな仕事をしている者です」と、自信を持って言える職業に就いていることですよ。

支配人 それはつまり「肩書き」のことですか? そのために、夢が必要だと?

 はあ……。仮にそうだったとしたら何だって言うんですか? それって悪いことですか? あっ……僕が不必要に焦ってるって言いたいんですね? ……ええ、焦ってますよ! 僕、もうそんなに若くないんです。時間がないんです。っていうか、さっきからあなた……やたら根掘り葉掘り聞きますけど、僕に説教でもしたいんですか!?

支配人 いいえ。ただ、あなたより少し長く生きてきた者としてお話ししているだけです。あなたは、何者にもならなくていい。

 はあ? 何者にもならなくていい?

支配人 そうです。「このままではいけない」「今の自分ではない何かにならねば」という焦り。それはただの幻です。

 幻? いや、僕は現実に焦ってるんです。だってこんな寒い日に、こんな汗だくになってしゃべってるんですよ? この汗が幻に見えますか?

支配人 どうしてあなたは、今のままではいけないと思うのでしょうか? まず、そもそも「何もなくていい」というところから、考え始めてみることはできませんか?

瞬 あははは。ちょっと待ってください。そんなの、理想論にすぎないでしょ! 「何もなくていい」って言われて、「はい、じゃあ僕、何もなくていいです」なんて思えます? 少なくとも今の僕には思えない。

支配人 急に思えなくてもかまいません。きちんと、段階を踏みましょう。

 段階って……。僕はこれでも、理路整然と考えているつもりです。

支配人 それは失礼しました。あなたの心の中で、何本ものコードが絡まっているように見えたので。

瞬 はあ……? コード?

支配人 たとえばあなたが久しぶりに音楽を聴こうと思って、棚の奥からほこりをかぶったステレオを出したとしましょう。しかし、しまい方が悪かったのか、コードがぐちゃぐちゃに絡まり合ってほどけない。そういうことはありませんか?

瞬 まあ、なくはないですけど……。

支配人 そういった場合、コードを雑にほどこうとすればよけいに絡まってしまいます。しかし、深呼吸をして1本1本ゆっくりとほぐしていけば、少し時間はかかっても必ずほどけていきます。一方、絡まりをほどくことをあきらめてしまったら、一生音楽を聴くことはできなくなる。

瞬 あの、よくわかんないんですけど……。結局、何が言いたいんですか?

支配人 あなたの思考のもつれも、コードと同じように一つひとつ丁寧にほどいていくことが大切だということです。

瞬 思考のもつれ? 別に、僕の思考はもつれているわけじゃ……。

支配人 漠然と悩んでいるだけでは、ただいたずらに時間がすぎていくばかりです。ですから一度、丁寧に自分自身と向き合ってみるのです。さあ、深く息を吸って。深呼吸しましょう。


 瞬の頭の中に「ありのままの自分でいい」というメッセージの、昔流行った歌が流れてきた。

 あの歌を聞いたときも思ったが「今の自分のままでいい」と、心から思えるなら、それはどんなにかしあわせだろう。しかし実際にそう言われても、「何だよ、ありのままって」と冷めてしまうだけだ。

 自分は、今のままでいいなんて思えない。だから、自分を肯定するためにも夢が欲しい。世の中で輝いている人はみな、夢を持っている。でも僕にはない。「将来のヴィジョンを持て」と言われてもまったくピンとこない。それが、瞬にとってコンプレックスになっていた。

 ボー……。

 空調音だろうか。機械から押し出されてくる乾いた風音が、静かな場内の頭上を通りすぎていった。

──▲ 雑音が、多すぎる


支配人 ではまず、あなたがなぜ「夢を持たなければならない」と思ってしまったのか。その思い込みから、ひもといていきましょう。あなたはいつから、「夢が欲しい」と思っていたのですか?

瞬 それは……たぶん中学生くらいじゃないですか。まわりのみんなが進路の話をし始めるし、どうしたって夢について考えることになりますよね。

支配人 なるほど。では、中学生になる前は「夢があった」ということですか?

 そうですね……まあ、夢と呼べるほどのものではないですけど。

支配人 では、あなたは子どものころ、何になりたかったのですか?

 ……ウルトラマンです。バカみたいですよね。

支配人 いいえ、まったく。そんなことは思いませんよ。ではなぜ、ウルトラマンになりたいと思っていたのですか?

 なぜでしょうね……。ウルトラマンがすごくカッコよく見えたからかな? 人形も、つねに持ち歩くくらい好きでした。

支配人 ただただ、好きだったわけですね、ウルトラマンを。では、その「夢」は、いつ変わりましたか?

 たしか……小学校に入ったらすぐに変わった覚えがあります。

支配人 すぐに。それは、どうしてですか?

 だって、ウルトラマンなんて子どもっぽいじゃないですか。そんなことを友達に言ったら「ダサい」と思われそうだった。

支配人 なるほど。「ダサい」と思われそうだった。では、あなた自身の興味が薄れたというよりは、まわりの目を意識して、自分の興味を遠ざけた、ということになるのでしょうか?

瞬 まあ……そうかもしれません。でも、大人になってみて考えると、現実に、ウルトラマンなんていないわけじゃないですか。そんな職業、ないわけだし。

支配人 でも、そのころのあなたは、ただただウルトラマンになりたかったわけですよね。しかし、人の目を気にして、その夢を捨てた。

 まあ、遅かれ早かれ、捨てていたでしょうね。

支配人 そのあとは?

 そのあとは……、絵を描くのが好きだったので、絵を描く仕事もいいなと思っていました。でもまわりに、自分よりも絵がうまい友達がいましたし、ただの趣味だった絵を仕事にしてお金を稼ぐなんて、とんでもないと思いました。それで、その夢もなくなって。なんとなく大学に入ったんです。


 瞬は、そのあとの人生を思い返していた。

 大学の間に夢を見つけようと思っていたのに、結局ダラダラと毎日をすごし、そのまま就職活動を始めることになってしまったのだ。
 どんな仕事に就きたいのかもわからず、大学のゼミの先生に紹介され、バイトで入った今の会社になんとなくそのまま就職した。

 いまだに、これがほんとうにやりたかったことなのかはわからない。就職してからも、漠然と焦る気持ちは消えなかった。
 一つため息をつき、瞬は紅茶の入ったカップを握りしめた。

──▲ ひどい質問 


支配人 申し訳ありません。

 はい?

支配人 わたしは先程、ひどい質問をしました。

 え? ひどい……? どの質問のことですか?

支配人 それは「子どものころ、何になりたかったか」という質問です。

 え、それって……そんなにひどいことですか?

支配人 はい。相当悪質です。

 でも、よく聞かれる質問ですよね? 小学校のときに「あなたの夢は何ですか?」というテーマで作文を書いたりとか、あるじゃないですか。

支配人 ええ。子どものころ、おそらく何度も聞かれたと思います。でも「大人になったら、何になりたい?」と聞かれると、その回答は、どうしても固有名詞になりますよね。お花屋さん、サッカー選手、パイロット……。あなたの「ウルトラマン」もそうですね。

瞬 存在しない職業ですけどね。

支配人 そう。存在しないからという理由で、あなたは捨ててしまった。

瞬 そうかもしれないですけど。だとしたら何だって言うんですか?

支配人 子どもは、「何になりたい?」と聞かれると、とくに何になりたいとも思っていなくても、「何か答えないといけない」と感じてしまいます。

瞬 まあ、それはそうですよね。

支配人 それで、「電車の運転手さん」とか「お医者さん」とか、職業名で答えることになる。もちろんそれを聞いている大人の側に悪気はないのですが、この原体験によって、多くの人が「自分は何かにならねばならない」という強迫観念を植え付けられてしまっているように思います。

瞬 まあ「何になりたい?」って質問は「何かになる」っていう前提があっての質問ですからね。

支配人 そう。「何になりたい? という質問に答えられなければならない」といった考え方が、知らず知らず多くの人を縛り付けているように見えます。ですからわたしは先程、「そもそも何者にもならなくていい」とお話ししたのです。

 たしかに、僕は単純にそういった考え方に縛られているのかもしれません。夢なんて持たなくてもいいじゃない、って言われて、納得する人もいると思います。だったとしても、実際問題、僕にとって、夢がないってことは、すごく不安なことなんです。

支配人 不安? どうして不安なのですか?

瞬 だって、何者かになるってことは、人から一人前だと認められるってことだと思うんです。女優、医者、消防士、保育士、パティシエ、サッカー選手……。みんな「お隣の娘さん、モデルになったらしいわよ」「山田さんのご主人、商社マンらしいわよ」みたいな話をするじゃないですか。夢を持って、その夢を叶えて、何者かになる。そうじゃないと、誰からも認められないでしょう?

支配人 人から認められることが、ほんとうに、あなたの「夢」なのですか? とにかく誰かに認められさえすれば、あなたは満たされるということですか?

瞬 だから……! それがそもそも僕にはわからないんです!!

支配人 ではもしあなたが「大人になったら何になりたい?」ではなく、こう聞かれていたらどうだったでしょう? 「大人になったら、どうありたい?」

瞬 どうありたい?

支配人 はい。「どうありたいのか」です。「何になりたいのか」ではなく。

瞬 どうありたいか……。

支配人 その質問だと、「優しい人でありたい」とか「落ち着いた人でありたい」とか、少し回答が変わってくるのがわかりますか?

瞬 あ……職業じゃない。

支配人 そうです。職業の名前ではない、もっと違った答えになります。「どうありたいか?」と聞かれていたら、あなたはどう答えていたでしょう?

瞬 それは……たぶん、強くなりたい……強い人でありたい、と言っていた気がします。たぶん、ウルトラマンの強いところに憧れていたから。

支配人 もしそれを「夢」と呼ぶなら、職業が何であれ、強い人であることは、可能ではないですか?

瞬 でも、それでも今の僕には、夢と呼べるものが見つからないんですよ。僕は、夢中になって何かを追いかけたい。「ほんとうにやりたいこと」を見つけたいんです!

支配人 雑音が、多いのです。

瞬 ざつ……何ですか?

支配人 雑音です。あなたのまわりには、雑音が多すぎるのです。

瞬 雑音? 何だかよくわからないことを……。今度は突然、何の話ですか!?

支配人 あなたの頭の中でざわついている混乱した思考のことです。誰かに「夢を持ちなさい」と言われたから、夢のようなものをひねり出す。人にバカにされそうだからやめる。無理そうだからあきらめる。正直な自分の思いと向き合う前に、あなたの頭の中には、いろいろな音がやかましく鳴っている。

瞬 いろいろな音……?

支配人 まずはその雑音を取り払わなければ、あなたが欲しい「ほんとうにやりたいこと」など見つかるわけがないのです。


 突然、パッと目の前が明るくなった。

 目の前のスクリーンに映し出されたのは、荒野だ。
 黄土色の砂地が海のように広がっているだけで、時代も、場所も、わからない風景。
 時間の経過すらはかれない静けさが、果てしなく続いていた。
 いきなり瞳を刺してきた眩しさに、瞬は思わず目を細めた。しかし、あまりに広大なその様子に、まぶたをグッと押し上げ画面を見つめてしまった。

──▲ 何もない場所に立ってみる


瞬 ちょっと……、いったいこれは何ですか?

支配人 これは、あなたが「雑音」を消すために必要な場所です。まずは、自分がここに立っていると想像してみてください。

 雑音雑音ってさっきから! 僕の頭の中がそんなバカみたいに騒々しいって言いたいんですか?

支配人 まあそう青筋を立てないで。わたしが申し上げている雑音というのは、あなたの声をさえぎる、うるさい音のことです。

瞬 だから、僕は理路整然と……。

支配人 いいですか。あなたの頭の中は、絡まったコードのように混乱している。だから、「夢を持たなければ」「何者かにならなければ」「自分らしくなければ」「毎日を有意義にすごさなければ」という、ヤジのようなうるさい雑音が聞こえてくるのです。

瞬 でも、そういうのってどうしても聞こえてくるじゃないですか?

支配人 ええ。だからこそ、このお話をしています。「ねば」「べき」という言葉は、まさに「雑音」です。それを、あなたは自分自身に言い続けている。そんな状態で、自分の声、ましてや「自分のやりたいこと」など感じ取れるわけがありません。まずはその音を取り払わなければ、何も始まらないのです。ですから、それらが「雑音である」とまず認識すること。そのうえで、この、何もない場所に立ってみてください。

瞬 はあ……。じゃあ、ここにいるって、想像すればいいんですよね?

支配人 はい、まずは、やってみましょう。あなたは、この荒野に立っています。必要なものは全部与えられると考えてください。何も心配しないで、ただ、立つのです。

何もしなくていい。
会社に行かなくていい。
食べることも考えなくていい。
もちろん夢もなくていい。
何の焦りもコンプレックスもない。
人からバカにされるようなこともない。
これから一生仕事をしなくていい。
お金も全部与えましょう。

紀里谷和明氏書籍地平線

支配人 どうですか?

瞬 何もない荒野……なんとなく、立つイメージはできました。でも……。

支配人 でも?

瞬 ここから、どこに行っていいか、わからない……。

支配人 どこに行っていいか。それは、「どこかに行かなければならない」と思っているから聞こえてきた声ですね。

瞬 行かなければならない……?

支配人 その声は、雑音の一種です。どこかに行かなければ、何かをしなければと思う必要はありません。

瞬 え? どこにも行かなくていいってことですか? 何もしなくてもいい?

支配人 そこには、いいも悪いもないのです。とにかくあらゆる縛りを一回ナシにしましょう。この荒野には、いっさいの「こうしなければならない」というルールはないのです。そのうえで「自分はどうしたいと思うのか」を感じ取るのです。もしもあなたが心からそこにいたいと思うなら、そこにいればいい。誰にも、何も、言われません。

瞬 ここにいても、いい? そんなことしてたら、まわりから取り残されちゃうじゃないですか?

支配人 あなたがそう感じるのは、「恐れ」によるものです。

瞬 は?

支配人 あなたがさっき荒野に立ったときに聞こえてきた「どっちの方向に行くのが正解なんだろう?」「行ってみて、何か起こったらどうしよう?」といった雑音。それは、「誰かに何かを言われたらどうしよう」「間違っていたらどうしよう」という恐れから生まれてくるものなのではないでしょうか。

瞬 別に僕は、何も恐れてなんか……。

支配人 少なくとも、その荒野の中では、正解など一つもないと考えてください。何を考えようと、何をしようと、もしくは何もしなくとも、怒られもしなければ、笑われもしません。いっさいの干渉を受けないのです。ですからまずは、荒野の真ん中に一人で立つこと。そこで聴き逃してはならないのは、あなたが意図せず「思ってしまった」ことです。

瞬 思ってしまった? それって……ただ「思った」こととは何か違うんです?

支配人 頭を使って合理的にひねり出した答えではなく、「こんなことしたいと思ってしまった」と感覚的に思ったこと。感じたことです。それはわたしが〈子どもの心〉と呼んでいるものです。

瞬 〈子どもの心〉……ですか?

支配人 はい。これは、ひとことでは言い表せないのですが、気分や感情といった、人間の行動のおおもととなる、そもそもの「核」のようなものです。

瞬 気分って、そんなふわっとしたこと言われても……。

支配人 そう、この〈子どもの心〉の声というものがまた、あいまいでわかりづらい。そのためさまざまな「雑音」に負けて、かき消されてしまいがちなものです。ですから、その雑音を遮断してください。地平線を望む広大な荒野に一人で立ったときに、あなたの心の声が、何を言い出すか。そこに、静かに耳を傾けるイメージです。

瞬 そんな、何だか大げさな……。

支配人 おそらくそれが、あなたがずっと向き合わずに避けてきたことなのです。だからあなたの思考にはいつまでも混乱が生じたままになっている。ですから、ひたすら耳を澄ませて、心の声を聞き取り、実行に移す。そしてまた耳を傾ける……。それを繰り返し続ける実際の行動こそが必要です。

瞬 えっと……「実際の行動」が必要なのは、どうしてなんですか……?

支配人 そうですね。では、ある日あなたがふと、「今日はカレーが食べたい」と思ってしまったとしましょう。

瞬 カレー? 「思った」のではなく、さっきの「思ってしまった」ってやつですね。

支配人 はい。その瞬間に、あなたは実際にカレーを食べに行ってみなければならない。

瞬 え? なんでですか?

支配人 そうしないと、「あなたのカレーを食べたいという思いが、どれほどの強度だったか」の検証ができないからです。

瞬 なんか、ただカレー食べるだけの話なのにこむずかしいな……。検証するって、たとえばどういうことですか?

支配人 実行に移さずに、ただ想定しているだけのうちは、何もわからないということです。この話で言えば、実際にカレーを食べてみて初めて、「自分のカレーを食べたいという思いが、本物だったのか、あるいはそんなに欲しているものではなかったのか」がわかるということです。「そう思っただけ」と「そう思って動いて確かめてみた」の間には、その理解度に、何倍もの開きがあるのです。

瞬 まあ、そりゃあそうでしょうけど……。

支配人 そういった日々の実行と検証の積み重ねがあって初めて、「自分がほんとうは何を好きと思っているのか」「自分がほんとうに欲しているのは何か」を探る感度が高まっていくということです。これはもちろんカレーだけの話ではありません。

瞬 え……?

支配人 たとえば、あなたが「海を見たい」と思ってしまったら、実際に海を見に行かなければならない、ということです。

瞬 海を見たいと思っただけなのに?

支配人 はい。やってみないと、「海に行く」ということがほんとうに自分にとってやりたいことかどうかわからないからです。そうやって、カレーや海に限らず、日々の生活の中で「やってみたいと思ってしまったこと」はすべて、行動して確かめてみる必要があります。そうすることによって、あなたの「好き」「嫌い」という感度が高まっていくのです。

瞬 でも僕、したいと思ったことはできるだけやってると思うんだけど……。

支配人 しかし実際には、「カレー屋さんが近くにないからそばでいいや」とか、「海は遠くて大変だから来年行こう」と考えてしまっていませんか? 代替案でごまかしてはいけないのです。

瞬 うーん……、結局、そもそもその「したいと思っちゃったこと」をあぶり出すために、まずは自分の心の声に耳を傾けろってことですか?

支配人 そういうことになりますね。

瞬 その心の声って……、待っていれば、聞こえてくるものなんですか……?

支配人 わかりません。聞こえてくるかもしれないし、こないかもしれない。

瞬 そんな無責任な……。

支配人 ただ、耳を澄ませて待たなければ、絶対に聞こえてこないことだけは確実です。

瞬 とにかく待ってみるしか方法がないということですね……。

支配人 そう。ですから、ひたすら自分の思いが訪れてくるのを待つ。そして訪れた思いをつかまえる。ただそうすることしかできないのです。

瞬 思いが、訪れてくる? つかまえる? 何だかまるで、すぐに逃げてしまう珍しい鳥みたいだな……。

支配人 ええ、珍しいどころか幻と呼んでもいいくらいです。紙が擦こすれるほどかすかな物音でも、すぐ逃げてしまう鳥。だから、あらゆる音の聞こえない、何もない場所に立つことが大切なのです。

瞬 そんなの、僕につかまえられるのかな……。

支配人 正解は一つも存在しません。ですから、誰にとがめられることもないのでご安心ください。さあ、わたしはこれで席を外します。何時間でもいてくださってかまいません。


支配人が去り、瞬は一人、スクリーンと対峙した。
 目の前に広がる荒野を見て「サンドベージュって、ほんとうに砂の色なんだ」、そんなどうでもいいことが頭に浮かんだ。

 さて、ここからどうするか。
 違う、ここから自分はどうしたいと思っているのか。
 このごろ毎日仕事ばかりで疲れていた瞬は、何もせずにしばらくぼんやりしていよう、と素直に思った。
 思いをつかまえる。
 どういう感覚なんだろう。
 自分にわかるんだろうか……いや、そんなこと考えちゃいけない。
 待つんだ。自分の声を聴くんだ。
 僕は、これからどうしたい? 何もしたくない? 何かをしたいとしたら、何をしたい? わからない。でも、したいことがみつかっても、それで食べていけなくなったらどうしよう……。

 そんなことを思ううちに、ふと、茉莉のことを思い出した。
 うらやましい。僕も何か夢に向かってがんばってみたい。でも僕は茉莉みたいに突出した能力なんて持っていない。だからこうして、毎日毎日同じようなことを繰り返している。毎日同じ、硬いキーボードをカチカチと叩き続けている。何の目的もなく。
 キーボード……。
 ああ……あのメール返さなくちゃ。そういえば明日の会議資料、まだ作ってなかった。早くやらなきゃ怒られる……今から会社に戻ればできるかな。あれ、そもそも今何時だっけ? 終電、間に合わない……!?

 瞬は、思い切り立ち上がった。ドリンクホルダーに預けた紅茶が、こぼれそうに波打っていた。

──▲ ホームレス


支配人 もう、終わられたのですか?

 僕、終電が……。

支配人 大丈夫、終電までまだ3時間はありますよ。

瞬 あ、まだ1時間しか経ってないんだ。ああ、すっかり長居してしまったと思って……。

支配人 それで、何か声はしましたか?

瞬 聴こうとしたんです。だけど、いろんな声がして……。どうしたって聞こえてくるんです。

支配人 たとえば、どんな声ですか?

瞬 もし、僕に「どうしてもやりたいこと」が見つかったとして……「それじゃあ食っていけないかも」と考えてしまうんです。

支配人 食っていけない。いいでしょう。では、その「食っていけない」という不安について、きちんと向き合って考えてみましょう。

瞬 絡まったコードをほどくみたいに?

支配人 そうですね。1本1本。では、あなたがほんとうにやりたいことだけをやった結果、お金を稼げなくなってしまったとします。食べるものもなくなり、家もなくし、ホームレスになりました。

瞬 ……え? ホームレス?

支配人 そうです。ホームレスになったとして、あなたは、どう感じますか?


 突然の質問に、瞬はたじろいだ。
 ホームレス。使い古したモップのようにボサボサの髪、服なのかゴミなのかもわからないほどボロボロの布をまとい、紙袋を引きずって目的もなく歩いている男の姿が目に浮かんだ。
 町で見かけると、目からも異臭を吸い込んでしまいそうで、思わず顔をそむけてしまう。なるべく近くに寄りたくない。だけどなんだか、「嫌だ」と口にするのは憚はばかられる。
 そんな存在に、自分がなる。そう仮定する。
 この感情を、どう論理立てて伝えればいいんだろう。

──▲ 生きるために食べるとは、どういうことか


瞬 えっと……。何て言っていいか……。

支配人 今、頭で考えていますか? それとも感じようとしていますか?

瞬 ……感じる?

支配人 ええ。頭で考えるのではなく、心で感じてみて、どうですか?

瞬 その違いがよくわかりませんが、もしかしたら頭で考えているのかもしれません……。でも、感じようともしています。

支配人 では、もう少し感覚的な視点でお聞きします。あなたがホームレスになったとして、それが好きですか? 嫌いですか?

瞬 嫌い……です。

支配人 なぜですか?

瞬 なぜって? なぜ嫌か、ですか?

支配人 はい。なぜ嫌いなのですか?

瞬 えーと……。

支配人 率直に。すぐに言ってしまいましょう。別にいいではないですか。人が何をどう思うかについて、正解なんてないのですから。

瞬 うーん、まず、ごはんが食べられないし、寒いのは嫌ですね……。

支配人 ほかにはありますか?

瞬 あと、ふとんで寝たいです。雨風もしのぎたい。

支配人 それだけですか?

瞬 まあ……、そうですね。

支配人 衣食住の最低限ですね。でも、もっとよくイメージして、あなたの感じ取ったままのことを教えてください。ほんとうに、それだけだと言い切れますか?

瞬 あ、いや……。

支配人 正直に。続けて。

瞬 やっぱり……人の目が気になるかもしれません。

支配人 人の目。

瞬 はい、「あの人気持ち悪いよね」「あいつホームレスになったらしいよ」とか言われたくない。

支配人 なるほど。それが、あなたの正直な思いですか?

瞬 はい……。

支配人 あなたは最初に、ホームレスが嫌なのは、ごはんが食べられないからだ、と言いました。しかし、ほんとうは、人の目を気にしていた。いいですか。まず、問題の時点で、あなたはすでに混乱しているのです。

瞬 どこがどう、混乱してるっていうんです……?

支配人 まず、あなたの「食っていけない」という雑音の発生源は、大きく二つの恐怖に分けられます。まず一つは「お金がなくなったら、生きるための食事をとれなくなる」。つまり、物理的に死ぬことへの恐怖。もう一つは、「お金がなくなったら、人からバカにされる」という恐怖。こちらは、人の目を気にするがゆえの恐怖です。

瞬 あ……。

支配人 「死」への恐怖は、「人からバカにされる」という恐怖とは別なものですから、まず考えるべき問いは、「食べていけなくなるというのは、具体的にどうなることか?」となるでしょう。あなたは、「人間が生きていくために必要な食事の量」について、考えてみたことはありますか?

瞬 それは、体を動かすためのエネルギーを食事からとるとか、そういうことですよね?

支配人 はい。ではもっと具体的に、あなたが一日生きるためには、何キロカロリー必要なのですか?

瞬 えっと……2000とか……? うーん……。

支配人 栄養学的にいえば、あなたの年齢くらいの男性なら、1600キロカロリー前後でいいでしょう。運動量にもよりますが。

瞬 そ、そんなこと別に知らなくたって……。

支配人 しかしあなたは「食っていけない」ことで悩んでいるのです。その絡まったコードをほどくには、具体的にどうなることが「食っていけない」ことなのかと向き合わなければならない。

瞬 そこまで厳密にしなくても……。

支配人 きっと、あなただけではなく、多くの方が明確には答えられない。もしその数値を知っていたとしても、ほんとうに1600キロカロリーなければ生きていけないのか、自分の体を使って検証まではしていないと思います。

瞬 検証……って、さっきもおっしゃっていましたが、ここでの意味は、どういうことなんですか?

支配人 わたしは以前、実際に「食っていける」というのはどういうことなのかを考え、試してみました。海外を車で旅して、5日間で口にしたのは、バナナ一房と、水が2ガロン……7・5リットルほどですね。

 もちろん、個人差はあると思いますが、わたしの場合は、それだけで数日生きていけるということがわかりました。住むところも、テントや車の中で充分でした。ある程度清潔でいられさえすれば、衣服も何だってかまわないと感じるようになりました。一度だけ川で洗濯をしたのですが、川なのでお金はかかりませんでしたね。

瞬 え、ほんとうに「検証」したんだ……。

支配人 はい。問いというのは、肉体に落とし込むことが大事です。先程申し上げたとおり、想定だけで物事を考えていても、その人は一歩も前に進んだことにはなりません。行動して実際に体感してみなくては。

瞬 それはそうかもしれないけど、バナナと水ですごすって……。

支配人 極端でしょうか? ただ、わたしはそのころ、毎日あなたと同じ雑音と戦っていました。「やりたいと思ったことだけをやっていきたい。でもそれだと生きていけない」という不安を、悶々と抱え続けていたのです。

 しかし、そんな恐怖にとらわれているだけでは、右往左往して時間が無駄にすぎていくだけ。ですからわたしは「生きていくためには最低限何が必要なのか?」という問いを立てました。そして、その問いにはっきり結論を出すことにしました。

瞬 バナナ一房と水があれば生きられる、ということですか? 定住する家がなくても、雨露をしのげる場所があればそれでいいと。

支配人 はい。それがわたしの衣食住の最低限だとわかりました。これがわかれば、あなたの恐怖である「人からバカにされたくない」に、やっと向き合うことができるようになります。まず「死の恐怖」から。そして、「人の目の恐怖」という雑音から解放されて初めて、「自分がほんとうに欲しているものは何なのか」と、自分と向き合う準備が完了するわけです。

 段階を踏むって、そういうことなのか……。

支配人 たしか誰かが「食えるようになってから夢を持て」と言いました。逆のことを言うと「食えないと夢すら持てない」ということです。


 瞬は、それまで考えたことのなかった問いに、絶句していた。
 たしかに、「食っていけない」とすぐ口にする割に、「食っていける」というのは具体的にどういうことなのか、検証したことはなかった。
 急に自分の言葉が軽く、浅はかに思え、瞬はうつむいた。

 もちろん、おいしいものをお腹いっぱい食べたいし、好きな服も着たい。
 それなりにいい家にも住みたい。欲望は尽きることがない。
 だけど、命をつなぐ最低限の生活って、いったい何なんだろう?
 ほんとうにやりたいことを犠牲にしてまで、衣食住が豊かになることに何の意味があるんだろう?

 でも、そもそも、その「ほんとうにやりたいこと」って何なんだろう。こんなに話したのに、まだ何も解決していない。
 瞬が紅茶を飲みきろうとすると、それはもう香りもわからないくらい、すっかり冷めきっていた。

──▲ 死ぬ直前まで


瞬 でも、あまりに極端じゃありませんか? 生きるために何キロカロリー必要かまで検証しなきゃいけないなんて、過酷すぎる気が……。
支配人 そうでしょうか? むしろ、心の中に借金を抱えた状態のほうが、わたしにとってはつらいことに思えますが。

瞬 借金?

支配人 あなたのように、心の中に言語化できないモヤモヤした気持ちがあるとします。でもそれを何もせず放っておくと、どんどんふくらんでいく一方です。それはまるで、金利がどんどん増えていく借金と同じ。そして、その借金は、いつかは払わないといけないものなのです。

瞬 払わなければいけない? 別に、それって「たとえ」であって、実際のお金じゃないですよね。なのにどうして「払わなきゃいけない」なんて言えるんですか?

支配人 払わなければ、その借金は、あらゆる美しさを奪っていく。限りあるあなたの人生の、尊い美しさを奪っていくのです。

瞬 美しさって?

支配人 想像してみてください。あなたがとても愛する人と一緒にいるとします。その人と、心から楽しく、ゆっくり話をしている。目と目を合わせて、心を通い合わせることができている。そんな素晴らしい時間なのに、「借金があって、明日、取り立てが来てしまう」という不安がよぎるだけで、その美しい瞬間は奪われてしまう。

瞬 ああ……。

支配人 たとえば、すごくきれいな花火を見に行ったとする。とてもおいしい料理を食べていたとする。もちろん「わあきれい」「おいしい」というしあわせは感じるでしょう。しかし、その瞬間「取り立てが来てしまう」という恐怖が頭に浮かぶ。

瞬 そんな、取り立てって……。

支配人 そう。ですから、心のモヤモヤを晴らすには、思い切って、その借金を返すしかない。お金は充分にあるのです。さっきの絡まったコードと同じで、放っておけば絡まったまま、美しい音楽も聴けないままで、一生が終わってしまいます。だからもし、あなたが人生の美しさを味わいたいなら、一度立ち止まって、自分の声にきちんと向き合ってみる必要があります。そのために、荒野に立ってみるというお話をしたのです。

瞬 ……わかりました。

支配人 わかっていただけましたか。

瞬 はい。たしかに、あなたが言うように、ただやみくもに悩むのは不毛ですよね。世の中の雑音を消して、自分の体を使って、しっかり向き合わないといけない。あなたの話を聞いて、いつかはちゃんとやらなきゃって、どこかで思ってた気がしました。

支配人 そうですか。それならよか……。

瞬 でも、とりあえず今日は帰って資料を作らないと。じつは明日大事な会議があって、資料を作るよう頼まれていて。

支配人 今日は、できない?

瞬 ええ、さっきは茉莉に「辞める」って言われて、何も手につかなくなったから、思わず会社を出ちゃったんですけど。今のお話で、夢を見つける方法はなんとなくわかったので、今度ゆっくり時間がとれるときに考えてみます。

支配人 今度ゆっくり。それは、いつですか?

瞬 えっと……なるべく近いうちに……。

支配人 なるべく近いうち。

瞬 いや、あの、遅いって言うんでしょ。「すぐやれ!」って。わかってます。だからゆっくり時間をとって、ちゃんと考えたいと思ってるんです。でもとりあえず、明日の会議資料が間に合わなかったら、上司に怒られ……。

支配人 そうですか。あなたはまだ、同じ恐怖の中にいたいという理解でよろしいですね。

瞬 え……いや、だから今度……。

支配人 その恐怖の正体を見ようとせず、あなたは5年後も、10年後も「自分は何がやりたいんだろう」と言い続けていたい。「何かをしたかった」と後悔していたい。そういう解釈で、よろしいですね。

瞬 そんな……後悔し続けたいわけないじゃないですか!

支配人 おかしいですね。今のあなたは、あなたの人生においてもっとも大事な問題から目をそむけ続けているように見えます。何だか矛盾してはいないでしょうか?

瞬 いや、僕だってわかってますよ。だから腰を落ち着けて考える時間をとろうって……。

支配人 多くの人はあなたのように、すぐに行動に移しません。もし「ニューヨークに住みたい」という衝動が湧いてきたら、今すぐ、この瞬間にでも飛行機を予約して、ニューヨークに行ってみればいい。それなのに「まずは英語の勉強をするために学校に通う」といったステップを踏まなければいけない、という刷り込みがなされている。

瞬 いや、だけどそりゃあ自分に経験のないことをやるんだったら、まずはある程度勉強してからじゃないと、なんにもできないと思いますけど。

支配人 よくよく考えてみれば、その考え方には、合理的な根拠はいっさいありません。

瞬 な……!

支配人 それは、行動をしない言い訳にはなっても、自分を前進させるものではありません。ニューヨークに住みたいなら、とりあえずニューヨークに行ってしまえばいい。それでわからないことが出てきたら、調べたり、わかる人を見つけ出して聞いてみたりすればいい。そもそも憧れだけで実際に行ってみないことには、ほんとうにニューヨークに住みたいのかどうか自体がわからないではありませんか?

瞬 そんなむちゃくちゃな……。行き当たりばったりにもほどがある!

支配人 しかし、せっかく心の声が聞こえてきて、それをつかむことができたのに、「あれができてから行動しよう」「まだこれができてないから」を繰り返していると、人生はあっという間に終わってしまいます。それでいいのですか?

瞬 またそんな大げさなこと言って……。「人生」みたいな大きな単語出せば僕がビビるとでも思ってるんですか? そもそもなんであんたなんかに指図されなきゃいけないんだ! こんなおんぼろ劇場の支配人なんかに、何がわかるっていうんだ!!

支配人 たしかにここはおんぼろです。あなたの言うとおり、わたしには何もわかっていないのかもしれない。しかし、唯一わかっていることがあります。それは、あなたの漠然とした焦りは、逃げれば逃げるほど大きくなっていくということです。

瞬 は? 僕は別に逃げるなんて言ってないじゃないですか!?

支配人 何を選ぶのかはあなたの自由です。そもそも何もなくていい。何もしなくていいのですから。

瞬 だから僕は、何もしたくないわけじゃない! やりたいことを見つけたいって言ってるじゃないか!

支配人 それならどうして、向き合うことを避け続けているのですか?

瞬 避けてなんか……。

支配人 めんどうだから? 何かを恐れているから? あなたは何から逃げているのですか?

瞬 うるさい!

支配人 さあ、自分が息を引き取るところを想像してみてください。どんどん目がかすんできて、意識が遠のいていくのです。どうですか? あなたはそんな死の直前まで「何がやりたかったんだろう?」とつぶやいていたいのですか?

瞬 うるさい!!

支配人 その瞬間は、今すぐにでも訪れるかもしれないのです。

瞬 うるさい!!!


 そのときだった。
 突然、乾いた冷たい風がビュウ、と吹いた。
 砂ぼこりが目に飛び込んでくる。
 瞬は思わず腕で目をかばい、強くまぶたを閉じた。

 なぜだ?
 なぜ室内にいるはずなのに、ズボンの裾すそがこんなにはためいているんだ?
 さっきまで劇場の椅子に座っていたはずなのに、なぜか僕は……立っている?

 足の裏が、金属のような硬い感触をとらえた。
 ごくり、とつばを飲み込む。
 ごうごうとうなる風の中、腕をどけると──。
「何だこれ……」

 瞬は、東京タワーのてっぺんのような、塔の上に立っていた。

紀里谷和明氏書籍ビル

紀里谷和明氏書籍ビルテキスト


 気づくと、瞬は地面に転がっていた。

 あれ……? おかしい。生きてる。どこも痛くない。
 ゆっくりと立ち上がってまわりを見渡すと、さっきまでいたはずの塔も、劇場も、何もない。
 いつもの、会社近くの駅に続く、道の途中だった。

 瞬は、そのあとどうやって家に帰ったのか覚えていなかった。
 いずれにしても、今はとにかく、明日の資料を作らなければいけない。ふしぎな気分だったが、シャワーを浴びてすぐカップラーメンにお湯を注ぎ、首にかけたタオルで頭を拭きながらパソコンに向かった。

 ふと時計を見ると、もう午前2時。今日早く帰ったぶん、明日は早く行かなければ。取引先からのメールも返信しなければ。そんな多くの「すべきこと」が脳内を占めていた。
 しかし、さっき自分は死んでいたかもしれなかった。今この会議資料を作ることは、自分がほんとうにやりたいことなのか? または、やりたいことのために必要な作業なのか?

 どこかから「そんなことしてる場合じゃないだろ」という声が聞こえた気がした。その声をかき消すかのように、瞬はキーボードをパチパチと叩き続けた。

       *


 翌朝、瞬は、いつもより1時間ほど早い電車に乗った。外気は2℃。ニュースでは、この冬一番の冷え込みだという。手の甲で鼻の頭を触ると、氷のように冷たかった。

 かじかんだ手をこすり合わせながら、ほかの乗客を見まわした。通勤客で混みあった車内は、満員電車特有のうんざりとした空気でいっぱいだ。

 その中に、小学生だろうか、紺色の制服に帽子をかぶった女の子が一人、まぎれ込んでいた。

 二つに結んだ髪の毛は長くつややかで、ピンク色の手袋をして、窓の外をじっと眺めている。そうか、この時間は小学生が通学する時間なんだ。

 あの子から見たら、まわりの大人はとても大きく見えるだろうな。あんなに小さいのに、なんだかえらいな。

 あの子は、どういう大人になりたいんだろう。僕は、あの子くらいのころ、どんな大人になりたかった?
 強い大人。優しい大人。そして何より、毎日を楽しんでいる大人。
 僕の毎日って、何だろう?

 毎日。

 今日だって、毎日の一つだ。
 今日、僕は楽しめるのか?
 今日という日を、僕は楽しいと思ってすごせるのだろうか……?
 もし明日世界が終わるとしたら……。

 「終点です───」
 
 ハッと気がつくと、あれほどたくさんいた乗客が、誰もいなくなっていた。

 扉が開き、瞬は、灰色のホームにふわりと降り立った。
 左側を見ると、遠くのほうまで、線路が続いているのが見えた──


──▲ 僕、会社をズル休みしたんです


 1年後───。

 正午をすぎて、天気が変わった。不安定な粉雪が舞っていた午前中とは打って変わって、たっぷりと水分を含んだみぞれが降っている。自分の重みに耐えきれなくなった粒たちは、瞬の傘をこぞって強く叩いた。

 あの劇場を初めて訪れた日から、1年の月日が流れていた。

「やっと来られた……」
 
 傘を閉じた瞬は、その建物を見上げた。
 会社を辞めてから、何度もここを訪れようとした。挫折しそうになったからだ。

 自分の中から雑音を消して「何をしたいと思ってしまったか」を見つける作業は、想像をはるかに超えて苦しかった。ゴールが見えない暗闇を泳ぎ続ける途方もないむなしさを、誰かに聞いてもらいたかった。
 しかし、記憶にあった場所まで来ても、あの劇場はどこにも存在しなかった。たしかにこの路地を曲がったところにあったはずなのに。誰に聞いても「そんなものはないよ」と言われるだけだった。

 でも、その理由はなんとなくわかっていた。
 だから、「今日」この場所にやってきたのだ。



瞬 ご無沙汰しています。僕のこと、覚えてますか?

支配人 これはこれは。お久しぶりです。もちろん覚えていますよ。

瞬  僕、どうしてもあなたに謝りたくて。

支配人 謝りたい? はて、わたしはあなたに何かされたのでしたっけ?

瞬 はい。あのとき失礼なことを言ってしまって。

支配人 失礼なこと……。ああ、そういえば「おんぼろ劇場」だとか言われたような……。

瞬 ほんとうにすみませんでした……。でもそのかわりと言っては何ですが、僕はこの1年、とても苦しい時間をすごしました。

支配人 ほう、苦しい1年を?

 なんといっても、荒野ですからね。

支配人 立ってみましたか。

瞬 はい。あなたに言われて、考えたんです。これまでの人生でもっとも深く、自分のことを。あの日の、あなたの言葉が思った以上に深く突き刺さってしまって。

支配人 そうでしたか。

瞬 あの翌日、僕、会社をズル休みしたんです。

支配人 ズル休み?

瞬 はい。正確に言うと、朝、電車に乗ったまま、会社のある駅で降りずに、終点まで行ってしまったんです。

支配人 たしかあなたは、翌日に大事な会議があるとおっしゃっていたような。

瞬 はい。そうなんですけど……気づいたら終点にいたんです。会社には「熱が出たから休みます」って連絡しました。罪悪感はあったけれど、このまま会社に行くのはなんか違う、と感じてしまって。

支配人 なるほど。違和感を放置せずに、実行に移してみたということですね。

瞬 今になってみれば、そうだったんだと思います。そのときは、ただ衝動的にそうするしかなかった、という感覚なのですが。それで、そのまま、駅の改札を出てみました。終点の駅って、名前はよく見るけど、どんな場所か全然知らないじゃないですか。

支配人 そうですね。

瞬 だから、ちょっとワクワクしながら、外に出てみたんです。

支配人 初めての街に。

瞬 はい。もう、都心から1本でつながっていると思えないくらい田舎で、ひとことで言うなら、さびれていました。だけど、そんな風景とは反対に、僕の気持ちはとても高揚していました。

支配人 それは、なぜですか?

瞬 今までいた場所は「違う」ってことが、はっきりわかったからです。

支配人 違う?

瞬 はい。毎日当たり前に通っていた会社。毎日繰り返していた仕事。そこに対して、ずっと違和感があったんです。それってじつはすごくシンプルで、ただ「ここじゃない」ということだった。

支配人 ここじゃない。

瞬 はい。「どこかに行かなければいけない」という雑音をオフにして、ともかく聞こえてくる声に耳を澄ませるようにしました。

支配人 そうしたら「ここじゃない」という声が聞こえてきた。

瞬 そうです。このあと、自分が何をやりたいか。それは明確にはわからない。だけど、「ここじゃない」ってことだけはわかる。これが、もしかしたら「すぐに逃げてしまう幻の鳥」なんじゃないかって。

支配人 簡単につかまえられない、自分の声。

瞬 はい。それは決して「こっちに行きたい」っていう能動的なものではなく、「ここじゃない」っていう控えめなものでしたが……。その声を無視してしまったら、もう僕は、ほんとうの思いを二度とつかまえられないんじゃないかって思いました。

支配人 ええ。「ここではない」という思いも、聞き取らなければいけない大切な声の一つですね。

瞬 はい。だからまずはその思いを、実行に移さなくては、と思ったんです。

──▲ 「生きるための最低限」に向き合う


瞬 その日は、久しぶりに心の底から楽しい一日でした。駅から少し歩くと田んぼや畑があったり、広い公園でお母さんが小さい子を遊ばせていたり。町の図書館で、定年退職したおじさんたちに交じって、新聞を読んでみたり。

 もちろん「会社に行ったら、あれもやらなくちゃ」っていう思いはよぎるんです。だけど、目の前に、どこに行ったら何があるかわからない景色が広がっている。その自由さが心地よくて。帰りに、小さな八百屋さんで1玉150円の白菜を買って帰りました。こんな大きいの。

支配人 それは、お買い得でしたね。

瞬 ちょっと持って帰るのは恥ずかしかったですけど。でも、それで、考えたんです。これで、3日は食べていけるぞ、って。それで、あなたがおっしゃっていた「生きるための最低限」について、向き合って考えてみました。

支配人 最低限に向き合ってみた。それで、何がわかりましたか?

 まず「食」についてですが、あの日、白菜と、あとインスタントラーメンを買って、それでどこまでいけるか試してみました。まあ多少飽きはしますが、一日2食、ラーメンと白菜で、3日、全然いけました。

支配人 実際に試してみられたのですね。それはすごい。

瞬 はい。ラーメンは好きなので、たぶん安くてエネルギーをとると考えると、これが一番いいのかなと思って。

支配人 なるほど。

瞬 インスタントラーメンやパスタなら、安くてお腹もいっぱいになりますし、水も水道水で充分でした。まあ現実的に考えて1か月毎日ラーメンはしんどいので、ほかの野菜やタンパク質をとると考えても、月3万円あればなんとかやっていけるということがわかったんです。

支配人 自分で体験して、最低限がわかったのですね。

 それから「住」については、今住んでいるのは家賃7万のワンルームですが、もっと狭くてもかまわない。そして、場所も、会社に近い必要がなくなるので、もっと郊外でも問題ないとわかりました。すると、ワンルームにトイレ風呂付で4万5000円の物件がありました。

支配人 なるほど。

 すごいでしょう? 最後に「衣」ですが、僕はもともとそれほど服にお金を使わないので、今あるもので着回せば0円です。下着や防寒具などを買い替えることを考えても、月に1000円も必要ない。

支配人 それが、あなたの「最低限」だった。

瞬 そうです。光熱費を入れても、毎月10万円。それだけあれば、今の貯金で食べていくとして、1年は何もしなくていい。そこまできたら、ある考えに至ったのです。

支配人 その、「ある考え」といいますと?

瞬 もし1年後に貯金が尽きたとしても、そのあとは、月にアルバイトを10日やれば、生きていくための最低限は稼げる。つまりアルバイトをしていない残りの20日は、好きに暮らしても生きていけるということです。

支配人 それは素晴らしい発見ですね。

瞬 ええ、そう思ったら、「食っていけない」という漠然とした不安は、随分やわらぎました。そして「アルバイトしてるなんて恥ずかしい」という思いをかなぐり捨てることができたら、そこには大きな自由が広がっている気がした。

支配人 あなたが以前恐れていた「食べていく」ということの正体が、物理的に理解できたと。

瞬 はい。ただ、それでもなけなしの貯金を切り崩すことはさすがに不安で。でも、それ以上にこの「幻の鳥をつかまえる機会」を逃すことのほうが怖かった。

支配人 覚悟されたのですね。

瞬 そうです。でも、すぐに行動に移すことができなくて、しばらくぐるぐる考えました。だけどそのあと毎日駅のホームで電車の終点の駅名を見るたびに、あの日のことを思い出して。

支配人 会社を「ズル休み」した日、ですか。

瞬 はは。今思えば、何一つ、ズルくはないですね……。人生にとって、もっとも必要な一日でした。それで2週間経ったころ、退職願を出しました。

支配人 そうでしたか。

瞬 もちろんそのあと先輩から「インドにでも行くの? 自分探しの旅に」と、からかわれたりもしました。たしかに、表面だけすくって見れば、「やりたいことを見つけるために、自分自身と向き合う時間を作る」なんて、よく聞く話です。だけど、一度も本気で試したこともなかったですし、ほんとうに必要なことだった。

支配人 そうですね。スローガンというのは危険です。固定化された言葉は「自分で考える」という行為を奪いますから。

瞬 退職してみたら、びっくりするほど自由になりました。あんなにびっしりと埋まっていたスケジュールに何も書いていない。何をしてもいい喜びで、いっぱいになりました。でも、じつは僕、ある仮説を立てていたんです。

支配人 ほう、どんな仮説です?

 僕は、もしかしたらナマケモノなのかもしれない、っていう仮説です。

──▲ あれ、全然おもしろくない


支配人 ナマケモノ?

瞬  極端な話、もし宝くじで3億円当たったら、僕は何もしなくなるんじゃないか。とにかく何もせず、ラクして暮らしたい。そう思っていました。

支配人 何もしたいと思わない人間だと。

瞬  はい。何をやりたいとか、やりたくないとか以前に、まず食っていくために仕事をせざるを得ないと思っていました。それで、仕事をするなら、興味のあることのほうがいいんじゃない? くらいの認識で。

支配人 なるほど。

瞬 だから、経済的に余裕があって働かなくてもいいなら、毎日好きなマンガや本を読んだり、映画を見たり、とにかく好きなことをしていたいなと。自分はそういうタイプの人間だと思ったんです。それにあなたから「何もしたくないなら、何もしない、というのもアリ」だと言われていましたし、貯金を切り崩せば最低1年は生きていけるとわかっていたので、自然とそういう生活になっていきました。

支配人 最低限がわかったから。

瞬 はい。実際に「自分はほんとうにナマケモノなのか」という仮説を、体を使って検証する必要も感じていました。だから、毎日とにかく好きなマンガや小説を読み、映画やアニメをむさぼるように見ました。もう、昼も夜もわからないくらいに。これまでは、編集の仕事で「作る」側にいたのですが、とにかく消費する側を味わい尽くしたかった。

支配人 ひたすら受け取ることをやってみたわけですね。

瞬 はい。読みたいから読む。見たいから見る。そんなシンプルなことが、長らくできていなかったので、ひたすら幸福な時間でした。ただ、ゴミ出しのときに隣のおばちゃんに出くわすのは少し気まずかったので、できるだけ早朝に出すようにしたり、ときには一人でスーツを着てパソコンに電源を入れて「出社!」などと言いながらアニメを見たりもしていました。誰も僕を止める人がいないので、これを続けたらどうなるんだろう? という興味もありました。

支配人 それで、続けてみてどうなったのですか?

瞬 ……さすがに2か月くらいたったある日、思ったんです。「あれ、今僕、おもしろくない」って。

支配人 ほう、おもしろくない?

瞬 何を読んでも、何を見ても、おもしろいと思わなくなってきたんです。むしろ、うんざりした。

支配人 うんざりした……というのは、その生活に?

瞬 はい。頭では「これはおもしろい本だ」というのはわかるんです。でも「だから?」って思ってしまって。だからやっぱり、働きたいなと。

支配人 ではあなたは、自分が最初に思っていた「働かなくても好きなことだけしていればいい人間」ではなかったと。

瞬 そうなんです。実際に行動して試してみたことで、それがはっきりわかりました。でも、それから、どうすればいいかわからなかった。それで、今迷っていることを、思いの丈を、とにかく紙に書き出したんです。混乱を、一つひとつほどくために。

 瞬がやったことは、シンプルだった。

 ただ机に真っ白な紙を並べて、毎日自分に質問をした。
 自分は今、何が不安なのか。
 何がしたいのか。
 何に焦っているのか。
 ひたすらそれに答えては問い、問うては答えた。
 ときには、友人の活躍を聞いて湧いた妬ましい気持ちも正直に書いた。恥ずかしい気持ちもあったが、はっきり認めると自分を少し肯定的に見られるようになった。

 そのうちに、瞬は一つの「問い」にたどり着いた。ひたすら紙に向かい始めてから、2か月以上がたったある夜のことだった。


──▲ お金をもらえなくても、やってしまうことって何だろう?


瞬 ある日のことでした。僕は、ある一つの「問い」に出会ったのです。

支配人 それは、どういう問いですか?

瞬 「お金をもらえなくてもやりたいこと、やってしまうことって何だろう?」という問いです。

支配人 お金をもらえなくてもやってしまうこと?

瞬 はい。このまま貯金が尽きてしまえば、僕は生きていけないかもしれない。でもその恐怖が雑音になって、なかなか答えを出せないのかもしれないと思ったんです。だから、真逆のことを問いかければいいんじゃないかと。

支配人 なるほど。「何の報酬もなくてもやってしまうこと」とは何か、ということですか。それはまさに「自分がやってみたいと思ってしまったこと」を考える問いとして、ふさわしいかもしれませんね。

瞬 ありがとうございます。

支配人 それで、あなたがお金をもらえなくてもやりたいことというのは、いったい何だったのですか?

瞬 それは「感動の分析」でした。

支配人 感動の分析?

瞬 はい。あの、僕、感動すると、なぜ自分が感動したのかを、すごく分析してしまうんです。誰に頼まれなくても勝手に。あのときのあのセリフってなんで出たのかな? とか、このキャラクターってどうして生み出されたのかな? とか。それなら、その、感動にかかわれる仕事に就けば、自分はしあわせになれるのではないか、と思ったんです。

支配人 感動にかかわる仕事。

瞬 はい。漠然とですが。だけど、そのために何をすればいいのかは、まだ具体的にはわからなかった。だから、気になった会社の面接をかたっぱしから受けていきました。最初は全然受からなくて、書類で落ちてばかりでしたけど……。

支配人 そうでしたか……。会社に入ろうと思ったのはなぜですか?

瞬 自分一人でできることより、人と協力したほうが、大きな感動が得られそうだと感じたからです。一人でずっと考えていて、人と心を通わせたいという気分だったからかもしれません。少なくとも前みたいに「とりあえず会社に入っておかないと」という気持ちではありませんでした。

支配人 お金をもらえなくてもやってしまうことをする、という前提で動いていたわけですからね。

瞬 はい。それで、やっぱり何かの作品を生み出す仕事にたずさわりたいのかもしれない、と思って、最初はインターネットテレビの会社の面接を受けてみました。とある有名ベンチャー企業が母体になって、新しいチャレンジを推し進めている会社です。そのとき、番組の企画を考えるという課題が出たんですが、それが楽しくて楽しくて。

支配人 考えるのが楽しかった。

瞬 それはもう。でも、そこはあっさり落ちてしまったんです。

支配人 そうでしたか。

瞬 ほんとうにショックでした。でもそのおかげで、自分がいかに企画を考えるのが好きか、はっきりわかったんです。落ちたらこんなに悔しいってことは、僕は本気で、作品を生み出す仕事にかかわりたいんだ、と思うようになりました。

支配人 心の声が、明確になってきた。

瞬 そうです。だから、とにかく作品作りにかかわれる会社という観点で、20社以上の面接を受けました。映像制作からイベント企画、旅行代理店まで、自分の経験がまったくなくても、「企画」にたずさわれるあらゆる分野に応募したんです。そのすべてに思いつく限りの企画書を書いて提出していました。そのうち、だんだん面接が先に進む会社が出てきたんですが、その中の一つに、マンガサイトの編集者の募集がありました。

支配人 マンガの編集者ですか。

瞬 はい。すごく前衛的なサイトで、名だたる人気作家が描いているんですけど、とても意欲的な作品が多くて斬新で。ただ、そのとき僕はまだ具体的に何がやりたいのかわからなくて、「マンガ好きだし、マンガ編集者もありかな」くらいの感じでした。前の会社にいたときに、むずかしい古典をマンガで表現する本を作ったことがあって。でも、僕のやる気とは別に、思った以上にトントン拍子に選考が進んで、最終面接までたどり着きました。

支配人 なるほど。

瞬 こんなに順調にいくってことは、もうここは受かるんだろうな、と。「受かったら、ここに入ろう」。まだ受かってもいないのに、そんなことまで思っていました。

支配人 それで、結果は?

瞬 落ちました。

支配人 なんと。

瞬 きっと僕のその甘い気持ちが見抜かれていたんだと思いますが、そのときのダメージは、ほんとうに大きかった。でもそのおかげで、僕は相当、マンガの編集をやりたいんだ、と気づいたんです。

支配人 単に「企画を考える」だけではなく、マンガにたずさわりたいのだと。

瞬 はい。今までの人生を振り返っても、ほかのことで、それほど悔しいとか悲しいとか思わなかったのに、落ちたとき、心底悲しかったし、悔しかった。それで気づきました。「なんとなくやってみたい」程度で、できる仕事ではない。人の心を震わせる仕事なのですから、今考えると当たり前なんですが、そのときは段階を踏んで気づいていきました。

支配人 そうですね。混乱しないで。

瞬 はい。それで、もう一度、だったらなぜ自分はコンテンツ作りにたずさわりたいのか。その中でもなぜマンガなのか、という深い部分と向き合いました。それで僕の中から出てきたのが……僕、高校のとき、友達が一人もいなかったんです。

 瞬は、高校1年の春を思い出していた。
 入学して1か月。だんだん人間関係ができてくるころだったが、瞬は、校舎裏にある焼却炉の横で一人弁当を食べていた。
 まだぶかぶかの制服。仲のいい中学の友人もいなければ、自分に話しかけてくれる人もいない。
 一度だけ、勇気を出してクラスメイトに声をかけてみたけれど、なぜか一いち瞥べつされ、無視された。今はスマートな体形の瞬だが、昔はほかの生徒よりも太っていた。そのせいかどうかはわからないが、そこからクラスメイトに話しかけるのが怖くなった。
 いじめられているわけではなかったものの、結局そのあと、高校1年の間、ずっと友達はできなかった。
 弁当が冷えてもおいしいのは、人と食べるからだったんだ。昼休み、そんなことを思いながら、煙たい味のする、固い米を噛みしめていた。

──▲ 人生の幸福は感動の総量で決まる


瞬 当時、唯一の救いは、学校の帰りに小さな書店でマンガを買って、それを電車の中で読むことだったんです。

支配人 なるほど。

瞬 それはもう、手当たりしだい読んでました。じつは、中学までは全然マンガを読まなかったんですが、たまたま手に取った作品がおもしろくて夢中になりました。マンガを読んでいるときだけは楽しくて、「明日も学校へ行こう」と思える。一人ぼっちでいる現実はつらいのに、マンガを読んでいれば、学校へ向かう電車にも乗っていられる。現実逃避と言っちゃえばそれまでです。だけど、そうじゃないと思ったんです。なぜか。

支配人 そうじゃない?

瞬 はい。単なる現実逃避ではなく、マンガを読んでいる時間も、現実の一部だって感じたんです。

支配人 失礼ですが、それは、強がりではなく?

瞬 はは。たしかに強がりみたいですよね。でも違うんです。あの、僕「人生の幸福は感動の総量で決まる」って気づいたんです。

支配人 感動の総量?

瞬 はい。なんか、無駄に格言じみた言い方ですみません。その「感動」というのは、ただ単に「泣いた」とか、そういうことではなくて……。むずかしいんですけど。

支配人 話してください。どういうことですか?

瞬 すごく他愛のないことなんです。たとえばその、クスッと笑っちゃうとか、「この悪役ムカつくな」とか、とにかく心が動いてる。「感が動してる」という意味です。

支配人 なるほど。心が動いている。

 とにかく感動している時間が長ければ長いほど、人生の幸福に影響してくる、ということを実感していて。そこに感情の種類の規制はなくって、「この女の子可愛いな」と思っていることすら「感動」だと思うんです。

支配人 自分の思う「感動」が何をさすのかまで、明確にされたのですね。

 はい。「どうしてマンガなのか?」ということに結論を出したかったからです。するとマンガには、あらゆる「感情の動き」が凝縮されていることに思い至りました。それと……。

支配人 それと?

瞬 はい。それと、もう一つあるんです。

支配人 もう一つ?

瞬 たとえば、自分が読んで感動した作品を人にすすめたときに「ものすごくよかった」「あのシーン、めちゃくちゃ感動しました」と、感想を言われたとします。そうすると僕、またその作品を読むんですよ。

支配人 どうしてもう一度読むのですか?

 想像するんです。「ああ、あの人はここで感動したんだろうな」っていうのを。今まで人には言ったことがないんですが、自分が感動した作品を、誰かに「感動した」って言ってもらえるとものすごくうれしくて。「人が感動していることに感動する」ということに気づいたんです。

支配人 人が感動していることに感動する。

瞬 はい。あの子はどこで感動したのか、どうして感動したのか、追体験しながらもう一度読むと、最初に読んだときより、何倍も心が動いてしまう。

支配人 なるほど。自分一人で読んでいたときより、何倍も。

瞬 人が感動している姿って、ほんとうに尊いんです。ほら、ライブ映像で観客がアーティストを見て感極まっている姿、あるじゃないですか。自分が知らないアーティストなのに、あれを見てるだけで、もう胸がいっぱいになってしまう。そこから俯ふ瞰かんして考えると、おそらく、自分がかかわって生み出したコンテンツで人が感動していたら、最高な人生なんだろうなと。それなら、お金をもらえなくても、いつまでもやっていられるなと。

支配人 それで、コンテンツを生み出す仕事にかかわりたいと確信が持てた。

瞬 はい。マンガの編集をしている自分を想像しただけで、すごく興奮することに気づいたんです。

支配人 しかし、なぜ、編集する側なのですか? それなら、自分自身がマンガを描くという方法もあるはずですよね。

瞬 もちろん……それも、考えました。じつは僕、恥ずかしいのですが、大学時代、本気で小説家になりたいって思っていた時期がありました。だけど、作品を完成まで至らせることができなかった。とても苦しかったのです。でも、「こんな話、読みたいな」とか「こういうのが世の中にないから、あったらいいな」とか、そういうことを考えるのは好きで、いつまでも考えていられた。

支配人 なるほど。自分で作ることより、何を作るか考えることに楽しさを感じていた。

瞬 はい。それが正直な気持ちでした。企画や、作家さんと伴走する立ち位置のほうが、自分は楽しくできる。作家さんの脳を刺激する役目だったらできるし、やってみたいと思ったんです。

──▲ 方程式なんて、どこにもない


瞬 それで今日これから、最終面接なんです。高校生のときからずっと読んでいた、ものすごく好きなマンガ雑誌の編集の。

支配人 ほう、最終面接。

瞬 はい。さすがにちょっと緊張はしてますけど、あとは気持ちを伝えるだけなので。

支配人 そうですか。以前ここに来られたときにおっしゃっていた「夢が欲しい」という気持ちは、どうなりましたか?

瞬 今は……そんなふうには思っていません。

支配人 思っていない?

瞬 はい。あなたの言うとおりでした。僕は「夢」という言葉に縛られていた。夢というのは、「何者か」になることと同義だと思っていた。だけど、何者かになろうとしていたからこそ、苦しかったんです。名前のついた職業に、みんなに憧れられる職業に。そこを目指すことに、自分の心からの衝動は、何も含まれていなかった。

支配人 はい。もともと「夢を持たなければいけない」というのは思い込みでしかありませんから。

瞬 よくわかりました。「やりたいと思ってしまったこと」が何かを突き詰め、ただそれを行動に移す。迷ったらまた問いかけて、行動する……。人生って、ただ単純にその連続でいいんだ、って思ったんです。別に「夢」みたいに、何だか大げさなものが必要なわけじゃない。だから「マンガの編集者」だってそうです。もしもマンガの編集をやれたとしても、また「ここじゃない」という声が聞こえてくるかもしれませんからね。そのときは、また自分の心の声に耳を澄ませてみればいいだけだと思っています。

支配人 そうでしたか。

瞬 でも、人生で初めて、ここまで自分に向き合って、正直言って、かなり面倒くさかった。だるかった。ものすごく嫌な時間でした。

支配人 そうでしょう。自分とほんとうの意味で向き合うというのは、ものすごくつらく、めんどうな作業ですから。

 だけど、会社を思い切って辞めてよかったです。もちろん誰にでもすすめられるわけじゃないけど、焦燥感とか恐怖を持っている状態だと、純粋に「感じる」ことがむずかしくなるっておっしゃっていたじゃないですか。僕、それすごく納得したんです。

支配人 雑音の話ですね。

 はい。雑音を消してやっと気づいたんですけど、1年前まで、僕にとって人生でもっとも大事な「感動」を、ないものとして毎日すごしていたなんて、今ではちょっと、信じがたいです。悩みしかありませんでしたから。

支配人 自動販売機のボタンを押せば買えるくらい簡単なことなら、誰もこんなに悩んでいませんからね。

 僕は、自分で言うのも何ですが、すごく合理的な人間なんです。悪く言えば、頭でっかちというか。計算してしまうし、理屈っぽい。だけど、自分がそんな人間だと思っていたのに、僕の根本には「感動」があったんです。そこには何の計算もなかった……。

支配人 でもあなたは、自分でその「根本」を見つけることができました。そうして、絡まっていたコードがほどけ、美しい音楽を聞くことができた。

瞬 そうでした。コードの話。時間はかかりましたが、コードに向き合い、丁寧にほどくことがこんなに大事だったとは思いませんでした。何で今まで放置しちゃってたんだろうって、今は後悔しかありません。

支配人 それはよかった。

瞬 ほんとうに、ほんとうにありがとうございました……。あの日この劇場に来なければ、こんな気持ちになることはありませんでした。

支配人 お礼なんて言わないでください。わたしは、何もしていないのですから。

瞬 でも……。

支配人 あなたは自分で考え、自分で答えを導いた。だから、今の自分に納得できている。それだけです。だから、お礼を言われる筋合いもない。「この方法を真似すればしあわせになれる」という万人に当てはまる方程式なんて、この世のどこにもないのですから。

       ●

「ああ、ほんとうにここまで来たんだ」

 瞬は、首を後ろに大きく反らし、最終面接を受ける会社のビルを見上げた。
 吹き抜けになった広いエントランスには「アニメ化決定!」の垂れ幕や、実写映画化されたマンガのキャラクターが着ていた衣装などが、いたるところに並んでいた。
 これからもしかしたら、この圧倒的な非日常が、日常になるかもしれない。そう思うと胸が熱くなった。

 控え室で待っていると名前を呼ばれた。一つ深呼吸をしたあと、勢いよく扉を開けた。
 横に広い会議室には、編集長らしい落ち着いた初老の男性と、短髪にTシャツというラフな格好の若い男性、それにスーツを着た役員や人事の人などが、ずらりと並んで座っていた。

「どうぞお座りください」

 スマートに座るつもりが、ドスンと変なタイミングで腰を下ろしてしまった。瞬は、思っていたより緊張している自分に気づいた。しかし、これは暗記のテストではない。今の自分の気持ちを伝える時間でしかないのだ。

 転職活動を始めたころ、いかにもマニュアルどおりの回答をしていた自分を思い出し、ふと恥ずかしさがよぎる。今なら、あれがなぜダメだったのかわかる気がする。混じりっけなしの本音というのは、自分でも知るのがむずかしい。この事実を、瞬は1年間で痛感していた。

 繰り返し問いかけては答え、掘り下げて考える。これを怠ってしまうから、ラクなマニュアル言葉に逃げてしまうのだ。そんな仮かり初そめの言葉で、自分のほんとうの熱意を伝えられるなんてことは、決してなかった。

「志望動機は何ですか?」
「弊社のマンガで、好きな作品はありますか?」
「あなたはなぜ、マンガの編集をしたいのですか?」

 瞬は、友達がいなかった高校のころに、マンガに救われたこと。そして「人生の幸福は、感動の総量で決まる」という答えに自分がたどり着いたことを面接官に語った。聞かれたから答えたというより、どうしても伝えたくてつい話してしまった、という語り口だった。

 そして、頼まれてもいないのに、マンガの企画を10本考えてきたことを伝えた。

「あの、1本目の企画は……」と勝手に説明し始めると、面接官が時折苦笑しながらも耳を傾けてくれた。うまくいったかどうかはわからない。ただ、毎日なんとなく会社に行っていた日々と比べると、今のほうが、心は喜んでいるような気がした。

 帰宅して水を一杯飲んだ。
 ふう……と一息ついたところで、携帯が鳴った。茉莉からのメールだ。

「1年前に瞬くんが言ってた『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』買ったよ! 一気に読んじゃった。あの絵の話さ……」

 瞬はあわてて、本棚からその本を引き抜いた。そして茉莉が感動したというページをパラパラとめくった。
 その本は、高校生のころに買って、しんどいときに何度も助けられた小説だ。もちろんそのエピソードもよく覚えている。
 しかし、茉莉の感動を受け取った今、このシーンが物語の中でもっとも美しいシーンに思えてきて、瞬の胸は高鳴った。 今日面接を受けた出版社からだった。

 その瞬間、机に置いていた携帯が震え出した。
 今日面接を受けた出版社からだった。

 鼻の奥に、どこからともなくいちごの香りが訪れる。もうすぐ冬が終わるのだ。

紀里谷和明氏書籍4話トビラ


「どうしよう……」

 電話を切った茉莉(まり)の指は、小刻みに震えていた。

 イラストレーターとして独立して1年。
 本、雑誌、広告。そういった媒体に自分の絵が載る──。
 希望にあふれて会社を辞め、ずっと夢見ていた仕事に就けた茉莉は、やっと、憧れだった雑誌の、占星術ページのイラスト連載を任せてもらえることになった。

 しかし、大きなチャンスにもかかわらず、何度提出しても担当編集者から「違う」「普通すぎる」「うまいけど、なんかピンとこない」とダメ出しされ続けた。

 茉莉は、「うう……」とうなりながら、髪の毛をワシャワシャとかきむしった。そしてふと、ある絵のことを思い出した。
 その絵とは、ネットを見ていてたまたま見つけた、まだ駆け出しのマンガ家が描いたキャラクター。特徴的な目をしたそれは、茉莉の頭に強い記憶として残っていた。
 茉莉は考えるより先にペンを動かし、そのキャラクターそっくりに牡羊座の絵を描いた。つまり、人のイラストを盗んだのだ。
 そして、目をギュッとつむって担当の男性編集者に送った。

 すると、何も知らない編集者は、

「いいですねぇ。やればできるじゃないですかぁ。茉莉さん、今までサボッてたんじゃないですかぁ? じゃ、こんな感じでほかの星座もお願いしますよ」

 と、ニヤけた声で続きを促した。

 仕事部屋の窓から見えるはずの桜は、満開になっていることに気づかないうちに、ほとんど散ってしまっていた。
 椅子にストンと腰を下ろした茉莉は、机に立てかけてある写真を手に取った。
 それは独立したときに、その初心を忘れないために買ったものだった。

「自分もこんな、素敵な作品を生み出したい」。

 そこに写っているのは、暗いコンクリートの壁の前で仁王立ちしてこちらをギロリとにらみつけ、オレンジ色のサテン生地のスリップドレスを着た女性だった。
 髪はつややかに波打ち、光沢のある生地は、裾に行くほど黄金色に輝いている。
 むき出しになった肌は、オーラを放っているかのように赤く発光していた。

「はあ……はあ……はあ……」

 突然、茉莉の呼吸が荒くなった。
 息を吸い込むばかりでうまく吐けない。
 変な汗がダラダラとあふれてくる。止まらない。
 さっきまで無意識に任せていた呼吸の仕方が突然わからなくなり、胸を押さえて机に突っ伏す。
 頭の中に、よくわからない不鮮明なイメージの断片がコラージュのように浮かんできた。

 更新しないといけない運転免許証。しばらく開けていない郵便受け。そういえば実家の母親から、飼っている犬の体調が悪いという連絡が来ていた。帰りたいけれど、その前に仕事しなくちゃ。
 意識だけがペンを持ち、イラストの顔の部分をぐちゃぐちゃと塗りつぶしている。

 すると、視線の先に、いきなり仁王立ちの女性が現れた。
 薄暗くて顔はよく見えないが、オレンジ色のスリップドレスから、机に置いた写真の中の女性だとわかる。
 彼女はゆっくりと動き、こちらに近づいてくる。
 一歩、二歩、三歩……。
 もう少しで彼女の顔がはっきり見える……という瞬間、急にブレーカーが落ちたように目の前が暗くなった。

 どれくらい時間が経ったのかわからないが、目が覚めると薄明るい光を感じた。
 視界の中心に、古びた舞台が現れ、目の前には、仕立てのいい黒のスーツを身にまとった老紳士が立っていた──。

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編集集団WawW! Publishingの公式note。現在、映画監督・紀里谷和明著『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた 自分と向き合う物語』(文響社刊)の関連記事を公開中。