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時間は別に、解決なんかしてくれない


たとえば喧嘩別れした恋人とか
なんか気まずくなった友達とか
消えてくれと願った相手とか


何年も経過したのち、各々が経験を積んで
「あの時は本当に許せなかったけど、今となっては相手の気持ちがわかるかも」みたいなことは起こりうると思う。
歳を重ねると見えてくるものもあるな、と実感としてすごく思う。

ただこれは生きている人間同士だから生じることだ。

どれだけ時間が経ったところで死んだ相手は生き返らなくて、起きた事実は変わらない。


死に別れたのち
時間の経過とともに訪れること、それは単に「慣れ」だと思う。


対象の相手がいない日々やその状態に慣れるだけだ。

母親がいないことに慣れ
病気で死んだと嘘をつくことに慣れ
遺骨は散骨したと嘘をつくことに慣れた。

なんで代わりにコイツが生きてるんだよと憎んでた相手に対しても猛烈な怒りはほぼなくなり
無に近い感情となり、あらゆることが
仕方なかったと思えるようになったりした。

罪悪感に苛まれてた日々が過ぎ、
腹立たしさを抱えた時期が過ぎ、
どうしよもなかったのかもしれない、と受け止められるようになった時、
純粋な寂しさが溢れてきた。

時の流れと共にその純度は増して
「お母さんの手料理が食べたい」と、ただ恋しい気持ちが強くなった。


たぶん、「時間が解決してくれる」のは
憎しみとかそういう負の感情だと思う。



時間は不可逆で、
死んだ対象は生き返らないんだから、会えない事実は変わらなくて
素敵な思い出だけが残るからむしろ
愛おしさみたいなものは濃くなっていくように思う。


愛猫との別れは、
お別れと向き合う時間が充分にあったから
後悔や懺悔の念はほとんどない。


ただただ、寂しい気持ちだけが存在する。


最期の日、静かな空間で2人でいられた。

座椅子に座って、膝に乗せて、
かわいい腕や頭をずっと撫でて時を過ごした。

ゆったりした時が流れていて、
痙攣が起きるまでの間、なんだかとても幸せだった。


最近お風呂が妙に熱く感じて、長く浸かれない。

彼女がお湯を飲みに来ないから
ドアを開けておく必要が無いから
湿気がこもって、浴室が熱いのだ。

設定温度を1度下げた。


人は環境に順応する生き物だ。




どんなに大切な相手がいなくなろうが
腹は減るし、朝は来るし、家賃の引き落としはやってくる。

泣いても叫んでも私は私を養っていかなきゃいけない。

やる気なんて微塵も無くても、責任感と義務感で仕事はこなすし
必要に迫られれば、愛想良く明るく元気に立ち居振る舞う。


空虚な日常だ。


時間の経過とともに
きっと私はこの猫のいない生活に慣れてしまうんだと思う。

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