メリー・アン・シングルトン物語で泣く夜更け

焼き菓子作りは順調である。少しずつ失敗しなくなり、お菓子作りは分量が正確でなければいけないと信じていたが実は生地が緩かったりすると粉を増やしてちょうどよい固さにする調節をすることも覚え、正確でなくても成功する事実(おいしいということ)を知る。何事も塩梅ってことか。


Netflixは数日毎に新着が数十件更新される。その中でHuluにはないコンテンツが充実している。LBGTQである。ゲイ、レズビアン、トランス、ドラッグと日本ではなかなかお目見えしないラインナップ且つ役者のほとんどがゲイやレズビアンを公言していたりするので見ごたえがありすぎる。ミーハーな意味でゲイが大好きなのでNetflixのLGBTQはすべて観ている。そんな中で最近新着で更新された「メリー・アン・シングルトン物語」を鑑賞。登場人物はゲイ、レズビアン、トランス、ドラッグ、そしてサンフランシスコが舞台でQueerな人々の物語である。タイトルにあるメリー・アン・シングルトンはノンケの女性でその相手もノンケの男性なのだが、物語の軸はそこではない。アメリカによくあるQueer達への差別、悲しみ、喜び、苦しみ、笑いが詰まっていて観ている自分はノンケで性の悩みなんてほぼないに等しいはずなのに世の中に受け入れられない個性のジレンマ、そして勇気ある姿を観て知らず知らずのほほんと生きてきたはずの自分に当てはめて夜更けに大泣きしてしまった。

女であること、年齢との戦い、理解されない行動への嫌悪に対して大国アメリカでも島国日本でも変わりない壁なのだと改めて知る。でもそこに「愛」というものはいたるところに存在していて自分の悩みは尽きぬけど「愛」があるからこそ個性を認め合い少しでも救われる人生なんだと思った。世間ではおとなしくしていることが目立たずに埋もれることができ、平和に暮らせると思いきや、最終的に歳を取ったら思うところや感じるところは一緒なのである。じゃあ、若いうちに色々やって経験を積んだ方がいいじゃないかと思うが、それは人それぞれである。老いて一緒になったとしても鬱積した「何か」は皆違う。それを向き合うことは程度が違っても同じ行為である。改めて目立つことや無理やり経験なんてしなくていい。自分が思うままに進めばい。どうせ最終的に感じるものは一緒なのだから。


泣く行為は知らずに溜まっているストレスを解消するのに良い。ただただ悲しいだけではない、自分の人生にうまく照らし合わせることができるモノに涙することは自分を見返す良いきっかけになると思っている。LGBTQの心の底の思いは死ぬまで分からない。物語はみんなに理解してもらうために作っていることも分かっている。だから感情移入ができたとは思えない。自分が他と違う人間だとも思っていない。何故かしら心臓がキュって縮むのは自分に素晴らしい感受性が潜んでいると思っている。それを大切にして隠さず全面に出していきたいあたしの個性だ。


●日々のつぶやき●

思いのはけ口。 あったこと、思ったこと。