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大人になること 下

 大人になるのはいつからだろうか。コーヒーが飲めるようになってから?親の言うことを無視して夜遊びができるようになってから?お酒やタバコなどの嗜好品が許されるようになってから?社会に出てから?そんな疑問を中学生くらいの頃、所謂思春期頃からずっと抱いていた。きっと、どれも部分的には正しいんだと思う。

 日本以外の国では、牛の背に飛び乗って何回か往復するとかバンジージャンプをするとかそういったことで大人になったと認められるらしい。一次情報を当たったわけではないため、詳細にはわからないが・・・。
 私は、そんな通過儀礼が大人になることに繋がるとは思わない。思うに、大人になることとは、知識や経験が増えた結果として、内だけでなくて外にも寛容になれることだと思う。人々は日々生活を通して、知識や経験が増えていっている。つまり、明確に大人になった瞬間みたいなものはなくて、日々大人になっているというのが正しいんだと思う。

 最近観た映画で、こんなセリフがあった。「自己発見をすることで少年から大人になる」「大人になったから、これから歳を取るだけだ」「歳は取った、これから大人になってくる」後ろ2つはセリフの掛け合いだ。両セリフから勘案するにつまり、世間一般的にありふれている大人/子供料金のように、身体的に大人になった状況が大人であるということや通過儀礼的に大人になった瞬間は、大人だとして区切られるには正確ではないと思う。よって、「自分は大人になった」「私は大人である」と言えるような明確な瞬間はない。私は「私は大人ではない」と気付くことが大人になる第一歩なのではないかと思う。

 「大人に成れていないのだ」と気付くことで、自分自身にとって足りていない部分はどこか?と見つめ直し、他人からしたらどのような振る舞いに見えるのだろうかと考えるきっかけになると思う。不足している部分を見つめ直す過程で、私にとって足りていないのは垢抜けなさだとか社会性の無さだとかいう通過点に至り、結果として序の部分に書いたような振る舞いを行うんだと思う。だから、部分的には正しくはあると思うんだ。決して悪くはないと思う。

 私も大人に成れていない人間の一人なので、「大人になること」なんて大仰な題目を付けたはいいものの、大人になんて成れていない。未だにどうすれば自己や他人に対して寛容であれるかと模索中である。いつかどこかで聞いたセリフ「いろんな痛みを知っている。だから他人には優しくしたい。」そういう者に私はなりたい。

 まとめると「大人になること」とは内的な自己と外的な自己について、自身が納得できるまで突き詰めることで、明確に成ったなんて瞬間なんてない。だから、他人からの「もっと大人になりなさい」とか自分の中での「もっと大人にならなきゃな」とかそういう量産型典型の言葉は気にせず、自分のペースでゆっくりと大人になることを考えてみたらいいんだと思う。

 たくさん勉強して色んなことやってみて、いつかは大人になってみたいな。みんなも大人になることを自分のペースでやってみてね。以上。再見。

 


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